第5話 調律師が叩けば、かなりの高音が響くだろう
火曜日の夜、宇佐木と僕はビートルズの流れるラーメン屋の帰り、いつものように並んで散歩をしていた。外は満月で、道路脇に雨に溺れたミミズが、とび出した妖精のはらわたのように膨れて死んでいた。
「ラーメンにビートルズっておかしいよなぁ」、宇佐木は遠くの標識を見つめながら言った。そしてポケットからメビウスの箱を取り出し、もう3本しか残っていないうちの一本を口にくわえた。そして、咥えただけでライターで火もつけず、『シー・ラブス・ユー』のサビを鼻で歌った。
「そうだな。どう考えたっておかしいよ。味噌チャーシュー麺にカム・トゥギャザーだぜ」僕は大げさに同意してみせた。そして宇佐木をまねして遠くの一方通行の標識を見ていた。妙な沈黙が流れた。沈黙に耐えかねた僕らはなんだかおかしくって二人で吹き出し、声を上げて笑った。外は七時過ぎになってもまだ明るく、まだ肌寒かった。
『リラ冷え』という北海道特有の肌寒さだった。大通公園では出店が並び、人々でにぎわっている。
息は白く、もやもやと宙に消えた。決まった形をとらせてもらえる間もなく、風に吹かれていった。
タバコを吸える場所を見つけてようやく宇佐木はライターを取り出し火をつけた。一口吸うと上を向いて煙を吐いた。ふぅー。
「時々吸ってっけど、タバコなんてうまいもんなのか?」
「ひどいもんだぜ」
「なのに吸うんだな」
「そのひでぇ味を思い出したくなるんだ。不思議なことに。そういうもんだよ」、そう言ってまた一口吸った。そしてやはり宙に向かって思い切り吐いた。
僕もそれを真似して大きく息を吐いた。どちらも風に流されて消えた。
「なんも変わんないね。こう寒くっちゃあ、ため息も煙もたいして変わんないよ」、少し大きな声を出して僕は言った。
「そうだ。どっちにしろこうして風に吹かれちまうのさ。たいした違いはねぇよな」彼は言った。まるでクイーンのボヘミアン・ラプソディみたいだと思った。
「まるでボヘミアン・ラプソディみたいだな」、宇佐木もそう思っていたみたいだ。
これは現実の世界か
それともただの幻想か
今が現実であろうと幻であろうとどうだってかまわない。そして、きっと僕らにとって良いことと悪いことに大した差はない。
「くせぇな」と、僕はつぶやいた。
「たばこ?わりぃ」、宇佐木はおどけて言った。申し訳なさそうな目をしつつも、口角は確かにピクピク震えていた。
「そうだぞ。君のたばこの臭いだ」、そう言い終えるか言い終えないか微妙なラインで吹き出してしまった。つられて宇佐木も笑った。白いもやもやが生まれては消えた。タバコの煙だろうが、白い吐息だろうがなんだっていい。
「煙とゴーストの違いってなんだか分かるか?」と別れ際、信号機を待ちながら、宇佐木は思い出したようにたずねてきた。
「わかんないよ。形があるか、ないか。見えるか見えないかってこと?」
「なるほど、ね」宇佐木は納得したのかどうか分からないが、神妙な面持ちで言った。
信号が青に変わると、そこで僕らは別れた。
* * * * * * * * *
次の日、生協のコープで昼ごはんを選んでいると、声をかけられた。聞き覚えのある明朗快慶な声だった。
果たして、その声の持ち主はあの栗毛の女の子だった。長いプリーツスカートを履いていて、五分袖のボーダーのシャツの上にカーディガンを羽織っている。そしてこの前会った時と相変わらず、ミーアキャットのような右耳が顔を出していた。ピアスがLEDの照明に当たってきらりと光った。
「ねぇったら。あなた、ウサギくんのお友達よね?」
僕はあわてて、そうだと答えた。口を動かしただけで、ちゃんと声になっているのか、自分で自分の声が良く聞き取れなかった。ただ、彼女の大きな瞳だけは決して見てはいけない、とだけ咄嗟に考えていた。
「ねぇ、そこのパン、食べたいから取ってくれない?」『EAT ME!』と雑多な宣伝文句のパッケージのパンを指差した。僕は言われるがまま無言でそれを渡した。
「ありがとう。このパン好きなの」とにこりと笑った。「あ、そういえば自己紹介してなかったね。町田栞っていいます。まちだしおり、です。以後お見知りおきください」と彼女はパンを持ったまま微笑んで軽く一礼した。
こちらこそ、とぶっきらぼうに名乗る。心は表情筋を上手くコントロールできていない。確かにハンドルを握って指示器もだしているというのに、行きたい方向に進めない。そういった感じだった。前の車はちっとも動かない。それなのに後ろには次々に車が並んでいく。早く進めとクラクションが鳴る。だんだんとクラクションの音は大きくなっていく。僕は耳を塞ごうとした。
「あのさー、今暇だったりする?」音の洪水の中、なぜか彼女の声だけすんなりと聞こえた。よく通る声だった。
「もし暇ならさ、そっちのカフェで少しお話しない?」と悪友にイタズラをけしかける幼い子供のように彼女は言った。僕は黙ってうなずいた。
かくして、僕は渋滞の車の中から降り、彼女の言うままなすがまま、生協横の『エルム・メインストリート・カフェ』に入った。
店に入ってすぐ、彼女はコーヒーを買った。(僕も同じのを買った。)それから店の窓際の丸いテーブルに向かい合わせで座った。
店にはテーブルが八つばかりあって、そのうち三つの席にお客は着いていた。店の真ん中あたりのテーブルでは、メガネをかけた初老の男性が日経新聞を読んでいる。店の隅のテーブルで、おそらく大学に入学したての幼い風貌のカップルが、テーブルの中央で手を重ね合わせながらなにやら囁き合っているようだった。そして入り口に程近い、手前のテーブルでは男子大学生三人組が、どうやら実験レポートを照らし合わせている。どこにでもある、ありふれた大学のカフェの様子だ。カフェでは、モンキーズのデイ・ドリーム・ビリーバーのサビが流れているところだった。
「最近はちょっぴり寒かったけど、太陽出てるとあったかいね」、テーブルに腰掛けて一口コーヒーを飲んだ後、彼女は外を見ながら言った。そうだね、とだけ僕は言った。
「陽の当たる窓辺で過ごしながら、日光で身体を暖めるってこの上ない喜びね。許されるものなら、テーブルの上で踊ってこの場の皆を驚かせてやりたいくらいだわ。こんなに陽気であったかいんだから!全身で感じてみたらどうなの?ってね」彼女はとても感覚的な物言いで理想を語った。
もしかしたら、と思った。彼女が踊り出せばこの場の温度ももう1度や2度上がるんじゃないか。初老のおじさんは新聞を閉じ、柴犬でも見るような目で彼女に微笑むかもしれない。何か呪文でも唱えるみたいに永遠の愛を足りない言葉で語っている幼いカップルも立ち上がり、一緒に踊りだすかもしれない。男子学生たちはレポートなんか放り投げて、彼女に賛辞の口笛を吹いたりするかもしれない。僕はどうするだろう。手拍子くらいはするだろうか。これはバカバカしい妄想の類かもしれない。けれど、妙に現実っぽい。彼女には潜在的にそのような力が備わっているような気がした。
だけど彼女は実際には、しっかり椅子に座って、僕を前にして、コーヒーを飲んでいる。
「どうして僕を誘ったの?」僕はたずねた。彼女はカップをそっと置いた。
「一人でなんだかさびしそうに生協でお昼ごはんを選んでいたから。これから一人でどっかで閉じこもって食べるのかなって思ったら気付いたら声をかけてたの。余計なお世話かなって思ったけど、ウサギくんの友達みたいだし、話してみようかなって。ほとんど気まぐれみたいなもんかも。正直よくわかってないわ」砂糖も入れずに飲むコーヒーは苦いのか、シュガースティックを取り出し、半分ほどコーヒーに注いだ。それから、スプーンで三周ほどかき混ぜた。
「なるほど」と僕は言い、あごをさすった。少し髭が生えていた。彼女の視線を感じた。ちゃんと朝剃ってくるんだった。うっかり忘れていた。
「ねぇ、男の人ってどのくらいの頻度で髭を剃っているの?」彼女はつるりと陶器のような自分自身のあごにそっと触れながら尋ねてきた。
「人によると思う。僕みたいに毎日剃る人もいれば、三週間経っても産毛みたいなのしか生えない人だっている。男性ホルモンの違いだよ」
「なるほど。あなた良い声してるものね」と彼女の小さな笑い声が聞こえた。僕は少し頭を垂れた。
「カミソリの刃ってこわくないの?」
「こわいよ。それに冷たくってチクチクする」
「チクチクしてヒリヒリするの?」
「するよ」
ふぅんと言って彼女はまた一口コーヒーを啜った。それから大切な秘密を思い出したみたいにこう言った。
「わたし、一度でいいから立派な髭を生やしてみたいって思うのよね」
「クラーク博士みたいに?」
「そう・・・そうね。あのくらい生やしてみたいわ。そして威厳たっぷりにメインストリートを歩くの。そして出会う人すれ違う人みんなに言ってやるの」
「ボーイズ・ビー・アンビシャス?」
彼女はニッコリとうなずいた。
「あなたならとっても髭が似合うと思うわ」
僕はこめかみ辺りを軽く掻いた。そして照れ隠しに答えた。
「おでこ広いし、少しは威厳出るかもね」
「そうよ。あなたの生やすお髭はライオンのたてがみみたいに立派なの」彼女はきっぱりと言った。
「でも、大志も夢も僕は持っちゃいないよ。なんとなく大学にきたんだ。僕は何者でもないよ。立派なことなんてないよ」
カフェのBGMはいつのまにか『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』に変わっていた。フランク・シナトラが歌うバージョンだ。六十年代、アポロ計画の真っ只中にあって誰も彼もが月に憧れた、そんな時代に流行った歌だった。月に連れて行ってもらえる、そんな理想はすぐ近くまで来ている。明日くらいには叶っているかもしれない、と。だが僕の知る限り、その近未来はいつまでも青写真のままだ。だからこそ、この歌は歌い継がれているのかもしれない。
「ウサギくんが言うには」彼女はそう言ってカップのハンドルに指を入れ、持ち上げて少しだけコーヒーを啜った。その一連の動作がとても魅力的だった。
「俺の考えだと、男には二種類いる。天文学者や古生物学者、考古学者になりたい奴と宇宙飛行士になりたい奴だ。天文学者や古生物学者、考古学者は安全な場所で驚くべき研究をする。でも宇宙には行けないんだ」と、彼女はおどけながら宇佐木の物言いを真似してみせた。彼女は宇佐木の真似がとても上手かった。が、しかし同時に僕は、宇佐木の野郎、と心の中で思った。ジュラシック・パークのアラン・グラント博士のセリフそのままじゃないか。
彼女はそれから真剣な顔つきで「たとえばの話、あなたはどっちになりたい?」と尋ねてきた。
僕には理想も信念もない。あるのは自分が何者でもないという確信一つだった。ただ、週に一度洗濯機を回して世界をやりすごしているだけの僕だ。
彼女はカップのふちを指でなぞっている。暖かい午後の日差しは、やはりカップを照らしていた。光を反射するカップのふちのつやが、彼女の細い指先で隠れたり、現れたりしていた。ある種の催眠をかけられているみたいだった。思いもよらないことを考え、言うつもりもないことを言ってしまいそうだ。僕は下唇に歯を軽く突き立て、口を閉ざした。
細い指は動きを止めた。その瞬間、なぜだか彼女と目が合ってしまった。やはりとても深い黒色をしていた。真っ暗い夜に、ぽかんと一つだけ浮かぶ月のように、カフェのLEDの光が反射していた。
ピンと彼女の瞳と僕の瞳との間にピアノ線が張られているみたいだった。調律師がハンマーで叩けばかなりの高音が響くだろう。そして僕にはそれが聞こえていた。年老いた調律師がハンマーでピアノ線を叩いている。ピッ、ピッ、ピッと彼が刻むスタッカートと心臓の低い鼓動が重なって奇妙なハーモニーを生み出していた。調律が合って、完璧な響きを奏でるにはもう少し時間がかかりそうだった。
ふと、彼女が笑った。大きな瞳がまぶたにすっかり隠れるほどの笑顔を見せた。ピアノ線は切れ、老いた調律師は立ち去った。いつの間にか店内のBGMは『ベチャ・バイ・ゴーリー・ワウ』に変わっていたことに僕は気付いた。
「じゃあさ、いつか教えてね。うん。私、三限行くね。」時刻はもう十二時五十分を回っていた。彼女はカップやらを持って席を立った。
「あと、これわたしの連絡先ね。ねぇ、いつだっていいのよ。簡単なことなんだから」そう言って、どこからか紙きれを取り出し、さっと紙きれの隅っこのほうにいくつかの英数字の並びを書いた。それから、それを僕の口のつけていない、冷めたコーヒーカップの隣に置いて出て行った。
彼女が出て行ってほんのしばらくして、僕はカフェの中を見渡した。相変わらず、初老の男性は新聞を広げ、難しい顔をしていたし、幼いカップルは二人だけのささやかな王国をテーブルの上に築き上げ、それから男子学生たちは額を突き合わしてレポートについて議論していた。そして、僕は冷えたコーヒーと紙切れを前にして、腕を組み、音楽を聞いて、宇宙飛行士やら考古学者について考えるフリをした。けど、すぐに分からなくなった。スタイリスティックスの繰り返される美しいハーモニーは今まさにフェードアウトしていく瞬間にあった。
『ベチャ・バイ・ゴーリー・ワウ』とは、一体どういう意味なんだろう。
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