第4話 眠れない夜に数えるのが僕
とても嫌な予感がした。
気だるい身体をすぐにベランダへと向かわせた。深く眠りすぎた。心はうまく身体をコントロールできていない。ガラス戸を開けた瞬間、強烈な時化が襲ってきた。急いで洗濯物を取り込む。
とても酷い気分だった。宇佐木の予想通り雨は降った。それも強烈なまでに。朝の心地よい快晴が嘘のように。雨はまだたくさんの家の、たくさんの窓という窓を叩き続けている。快晴を信じていた洗濯物はずぶ濡れだ。僕は、これからランドリールームにいってこのどうしようもない現実を回転ドラムに放り込まなくてはならない。
下の階にあるランドリールームに降りる。ガス点検盤の隣の非常階段を下りる。誰も使わない暗い階段で、洞窟の中のように寒く、寂しいところだった。寂しさと静けさに負けないように鼻唄を歌いながら下りた。午前中に聞いた『いとしのレイラ』を。レイラって誰なんだろう。
目的の階について、廊下に出た。しばらく、廊下を歩けばそこがランドリールーム。
重たい扉の向こうには女の子が一人、男性用洗濯機の前で注入すべき洗剤の量を注意深く測っていた。
豊かな髪を後ろで一本に縛っていた。口を半開きにしながら計量カップのメモリを眺めている。長い灰色のワンピースを着ている。入り口に一番近い洗濯機を使っている。それからとても痩せている。
彼女の洗濯機の二つ向こう側を使うことにした。洗濯機にどさりと濡れた洗濯物を入れた。彼女はまだ、メモリを見ていた。
「そんなに神経質にならなくてもいいじゃない」声がした。薄い氷の上を滑る小石のような、細いソプラノだった。その声の持ち主が彼女だということを認識するのにしばらく時間がかかってしまった。
「そう思ったでしょ」どうやら僕に話しかけているみたいだ。なにか言い返したほうがいいのかと思ったが、声を出す間もなく、彼女の言葉が続いた。
「学校で習ったの。メスシリンダーとかなんとかいう器具に塩酸を入れるときに、ちゃんとメモリを読まなきゃダメだって。水酸化ナトリウムを測るときにもちゃんと読まなきゃダメって。じゃないとお塩と水は欲しいだけ発生しないって」計量カップに洗剤を注いでは戻した。納得のいくメモリを見定めることが難しいようだ。僕は、洗剤を大雑把に洗濯機に入れ、コインを投入した。
「僕は、その、測るのは苦手だよ」なにか言わなくては、と思った。
洗濯機に水が注がれ、チョロチョロと流れる音がした。これからドラム缶は回転する。
彼女は、ふぅ、とため息をつき僕の真似をして結局大雑把に洗剤を入れた。それから僕のほうを向いて、ニッコリと笑った。不自然なほど大きな茶色の瞳だった。右目の下に小さい泣きぼくろが二つ並んでいた。
「やっぱりあたしも苦手。ふふっ。ねぇ、あなた大学生?」
そうだ、と答えた。
「あそこの?ホグワーツのお城みたいなとこ?」
そうだよ、と答えた。大きな瞳がさらに大きく開いた。
「ゴーストとか出る?」
「僕は見たことないよ」
「大理石の階段は動いたりする?」
「だまったままだよ。少なくとも僕が昇り降りしたって動かない」
「わかってはいたことだけれど。がっかりしたわ」本当に落胆しているようだった。それからコインを入れて洗濯機を回した。『32分』という数字が表示され、彼女は回り終える時間を確認した。
「ねぇ、私今朝散歩してたの。とってもよく晴れた朝だったじゃない?そよ風が気持ちよくて」
そうだったね、と答えた。「日の当たった芝生が綺麗だったね」本当に綺麗だったことを思い出した。
「うん。それで、散歩してたら、塀の上に黒いおじいちゃん猫がいたの。しばらく二人で並んで歩いて、たくさん話を聞いてもらったの。それでね、笑ったの。グリンって。目が『へ』の字になって、口が三日月みたいだった。ねぇ、猫ってそういう風に笑うのよ。知ってた?」
「もちろん、知らなかったよ」ちっとも知らない。知るはずもない。
彼女はまた、ふふふと満足そうに笑った。
「黒猫とは何をおしゃべりしたんだい?」
「違うわよ。猫はしゃべれないもの。そのおじいちゃん猫は私の話を聞いてくれてただけ。あのね、妖精のこととか、サンタのこととかそんなこと。あのー、お子ちゃまだなって思わないでね」
「全然思わないさ」
彼女はまたふふふと笑った。
「それから、猫はどうしたんだい?」
「パッと目を離した隙に消えちゃった。チェシャ猫みたいに。もう一生会えないかもしれない」と少女は悲しげに結末を語った。
洗濯機が回る間、部屋に戻ることもできた。この少女が話しかけたりしてこなければ今頃部屋でのんびりしていたことだろう。だけれど、彼女といると妙に心が落ち着いた。暗い狭いあの部屋にいることよりなにより。
「ねぇ、こんなこといきなり頼むのもおかしいけれど、毎週水曜の夜に洗濯機でも回しながらお話ししない?なにか予定とある?」
「構わないよ。何もないから」そう、本当に何もなかった。空っぽだった。僕が彼女の黒猫の代わりになるというわけだ。
「僕は黒猫の代役というわけだね?」
「そうね。私の数少ないお話相手になってくれるのね。ありがとう」ニコりと彼女はまた笑った。その純真な肌は化粧をまだ必要としない。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったわね。私、ケイラっていうの」
僕も自分の名前を告げた。
「わたし、ひつじとやぎの違いがいまいち分からないのよね」
「眠れない夜に数えるのがやぎで、大事なお手紙を食べてしまうのがひつじだ」
「あべこべじゃない」彼女はまたふふふと笑った。「じゃあ、こんど眠れない夜に数えてあげるわ」
彼女は部屋に戻ると言って(例によってふふふと笑いながら)ランドリールームを後にした。彼女がいなくなるとなんだかまた一段とランドリールームが暗くなった気がした。そして、外が静かなことに気がついた。もう雨粒はどこの家の窓も叩いていない。自動販売機でコーヒーを買い、色褪せたソファーに座り目を閉じた。とても穏やかな気持ちを感じた。と同時に不思議だった。
幼い少女に心を開いている自分がいた。
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