第3話 底知れないから落ちていく、深い井戸

 洗濯機の中で、衣服たちはぐるぐると渦を巻いている。僕は渦をほぐすこともなく、むんずとそれを掴み、カゴに乱暴にいれた。部屋に戻ってからほぐしてやろう、と約束した。赤いチェックシャツも、ごわついた蛍光色のバスタオルも、コバルトブルーのボクサーパンツも、どこからどこまでが自分の布地なのか分かっていないようだった。それほど複雑に絡まっている。回転ドラムの底の方にはまだいくつか靴下がくたびれて横たわっている。それも洗濯カゴに無造作に入れた。

 ランドリールームを出て、普段誰も使わない非常階段を登って自分の部屋へと急ぐ。エレベーターはあったが、僕は使うことをなるべく避けていた。苦手なのだ。カゴいっぱいの洗濯物は、洗濯機によって脱水されていたものの、水分をしっかり吸収していて重たい。

 部屋のドアにたどりついて、暗証番号を押す。オートロック式。重たいドアを開いて、部屋の中に入る。すぐさま重たいカゴをベッドに置き、部屋の奥のベランダに続くガラス戸を開ける。物干しを外に出す。ベランダもそう広くなく、物干しを出すとあっという間にベランダは占拠された。


 約束どおり、チェックシャツもバスタオルもボクサーパンツも、もみくちゃになったその塊を解いた。物干しにかけて、空を見上げた。西の空には雲はひとつとしてなく、太陽は順調に南の天上を目指してその軌道を捉えていた。大丈夫。このまま晴れていてくれるさ。洗濯物を全部干し終えると、大きな期待を込めてガラス戸をぴしゃりと閉じた。

 机の上のデジタル時計を見る。十時十四分を示していた。一時限目がもう終わろうとしているところだった。あの老教授は、しっかり文明の滅亡を記すことが出来たのだろうか。

 宇佐木には、読書でもして昼食まで過ごすなんて言ったが、予定を変更してミートスパゲティを作ることにした。朝ごはんを食べていなかったので腹もすいていたのだった。冷蔵庫から玉ねぎとひき肉とトマト缶を取り出し、棚から市販の〇・七ミリパスタを一五〇グラム分ほど取り出した。

 部屋に申し訳程度に設けられたキッチンは、とても貧疎なものだった。コンロは一つしかなく、シンクは狭く、排水口はしょっちゅう詰まった。

 コンロが二つあればと思う。二つあれば、パスタを程よく茹で上げる間に、ミートソースを同時に作ることが出来る。でも、僕のキッチンには一つしかコンロがない。文句を言ってもスパゲッティは出来ないので、先にミートソースを作り始めることにした。玉ねぎをみじん切りにし、フライパンに油をひいてひき肉と一緒にいためる。熱せられた玉ねぎはひき肉と一緒に色を変えていった。色が変わるにつれ、甘い香りを放った。肉汁が溢れてくると、トマト缶の中のトマトをフライパンにいれ、ぐつぐつと煮込んだ。肉汁にはうまみが詰まっている。トマトソースですばやく懐柔してあげねばならない。

 ヘラでソースをかき混ぜながら、メインストリートの向こう側から走ってきた、あの栗毛の女の子のことを考えた。宇佐木と一体どういう関係にあるのだろう。どこで出会ったのだろう。何を話していたのだろう。二人は、付き合っているのだろうか。宇佐木にそれとなくたずねてみても良かったかもしれない。

 彼女の持つ黒い瞳を思い出した。小石をひとつ落としてみればその深さも分かりやすいことだろう。もしかしたら、いつまでたっても底に当たる音はしないかもしれない。危険で、それでいて魅力的な瞳だった。きっと世の男みんなが瞳の奥を覗こうとして、ついうっかり、深い暗闇へと落ちているのではないだろうか。底知れないからいつまでも落ち続ける。

 それから、栗毛の短くそろえられた草原から顔を覗かせる、右耳の小動物のことを思った。ミーアキャットみたいだ、と改めてそう思った。


 ミートソースは少し焦がしてしまったけれど、上々の出来のようだった。それから湯をわかした。湯が沸く時間、ユーチューブをパソコンで立ち上げ、エリック・クラプトンの曲を流した。『いとしのレイラ』が流れた。一九九九年のマジソンスクエアガーデンのライブ音源だ。それから、パスタをゆでた。長い曲だ。

 パスタが茹で上がると、大皿に移し、少し冷めたミートソースをかけ、粉チーズを一振りかけた。食べ終えるとシンクの中に大皿やら、フォークやらフライパンなんかを放り込んだ。腹が膨れると、やはり眠くなったので眠ることにした。目覚ましも何もかけず、誰にも邪魔されない眠りを手に入れよう。



 雨が窓を激しく叩く音で眼が覚めてしまったとき、デジタル時計は七時五十分を示していた。いくらなんでも、と思った。

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