第2話 ミーアキャット、それからウサギ

  声の主は、栗色の髪をした女の子だった。

 メインストリートを走る車がないことを確認すると、小走りで道路を横断してきた。ショートヘアーから覗いた耳が小動物のようだった。それは大きな耳で、右耳の耳たぶにはピアスの穴が二つ開いている。草原からひょっこり顔を出すミーアキャットを思わせた。瞳は、どこまでも深い黒色をしていた。覗き込んでしまえば、落ちてしまいそうだった。

 やぁ、と宇佐木は軽く返事をした。そして、なんとはなしに二人で世間話をし始めた。

 僕は、他人だ。二人の話を聞くのはあまり許されることじゃないだろう。腕時計を見ると、九時二十三分を示していた。僕は彼らから二、三歩離れて雲の行方を眺めようとつとめた。一言、宇佐木に声をかければ、彼はきっと、女の子に別れを告げて、また僕と帰り道を歩いてくれるだろう。しかし彼は楽しそうに女の子と会話している。女の子は実に魅力的だった。右耳に空いた二つの穴にいつのまにか見とれていた。ここで、「ねぇ、雨が上がってよかったですね。そういえば宇佐木と友達なんですか。どうぞ僕とも以後お見知りおきを。」などと下手くそに会話に入っていくことも出来たかもしれない。だけどこの名前の知らない女の子は、宇佐木の友達であって、僕の友達ではない。


 宇佐木は、大学における僕の唯一の友達と呼べる男だった。

 宇佐木とは、同じ県生まれだった。彼は海を展望できる小高い丘の上に通っており、僕は街の中心から2キロメートルほど離れた進学校に通っていた。大学一年の頃にたまたま同じクラスになった。同じ故郷ということで彼の方から気さくに話しかけてくれた。


「じゃあまたね。講義遅れちゃう。そこのあなたもウサギくん借りちゃってごめんね」と栗色の女の子は舌足らずに喋った。僕は不器用にはにかみ、軽く頭を下げた。

「もう遅れてるって。また迷ったりするなよ。」宇佐木はからかった。

「しないもん」と彼女は、はははと笑った。ちょうど日の光が芝生を照らした。養生中の芝生の葉はまだ湿っていて、光が当たってキラキラと輝いていた。彼女の笑顔はみずみずしい芝生と似ていた。

 彼女は芝生の向こう側の学部棟へと走っていった。


「わりぃ、待たせた」彼は僕に謝った。かまわないよ、と僕は言った。僕らは再び歩き出した。黙って歩いた。

 メインストリートの南の端に生協のコープがある。そしてその生協の横に小さな入り口があった。高さ六十センチほどの鉄柱で仕切られていた。その仕切りを出てすぐのところの横断歩道を待つ間、口を開いた。

「なぁ、お前27クラブって知ってるか?」僕は首を横に振った。

「世界に名を轟かせたミュージシャンがみんなこぞって27で死んじまったんだ。溺れ死んだり、オーバードーズ、ヤクの決めすぎで死んだり、自殺したりさ。バカバカしい死に方だよな。あんなに命を削ってさ、最後に残ったのは骨だけだぜ。ジミヘンもジャニス・ジョプリンも大バカだよ。そう思わないか?」

「でも、彼らの音楽は今でも残ってる。そうだろう?」

「そうだな。きっと100年後にだって残ってる。地面の下に眠ってる、かつて生きてたしかばねのつくった音楽を俺たちは聞いてるわけだ。」宇佐木はじっと地面を見つめた。「なぁ、俺たち死んだらなんか残るかなぁ」

「さぁね、やっぱり骨しか残らないよ。悔しいけど、僕らはギターも弾けないし、歌も歌わないじゃないか」

「そうだな」

しばらく沈黙が訪れた。赤信号の時間は思ったよりも長く、濡れたアスファルトの上を走る車の音だけがいやに耳に残った。

「お前、クラプトン聞いたことあるか?」宇佐木は思い出したように言った

「ないよ。名前くらいは知っているけれど」

「聞くといいよ。クラプトンは特にいい。なんせギターの神様だ。それに、まだ生きてるし」

 腕時計を見るともう九時三十分近くになっていた。洗濯機が回り終わってもう三十分ほど過ぎているはずだ。

「うん。聞いておくよ、今度ね。ユーチューブで」信号が青に変わった。

「おう。じゃ、俺はバイトに顔出さなきゃなんねぇから、またな」彼は横断歩道を渡らずに、バイト先へと歩いていった。信号が青になるまで一緒に待っていてくれたらしかった。僕のことなんて待つ必要はないだろうに、さっき僕を待たせたことへの罪滅ぼしみたいなもんだろうか。僕はそんなこと気にしていないんだけれど。

「じゃあ、またなウサギくん」

「その呼び方止めろって。濁点なんてつかねぇんだぞ」


 僕は一ヶ月前にバイトを辞めた。三ヶ月前に宇佐木に誘われて一緒にはじめたバイトだった。そこは、高架下のCDやDVD、漫画なんかをレンタル販売する大手チェーン店だった。毎日毎日、電車が天井を揺らしていた。ガタンゴトンといつか電車が抜け落ちてくるのではないかと思うほど、天井は揺れていた。


 僕が一ヶ月前にバイトを辞めるとき、宇佐木は僕に謝った。「俺がムリに同じバイトしようって誘っちまって悪かった」と、罰の悪い顔をしていた。何も彼が誤ることなんてなかった。彼には人を気遣える、そういう優しいところがあった。率直に言って、僕は彼の人柄を好いていた。誰にでも分け隔てなく接することが出来る彼は、店長やバイトの同僚から信頼を得ていたし、お客からも慕われていた。

 また、僕は彼に少なからず憧れを抱いていた。僕も彼のように振る舞ってみたかったけれど、難しいことだった。彼が放つ独特の光というのは、時にたしかな重さを持ったものだった。彼が放つ光が眩しすぎることだってあったかもしれない。


「なんで辞めようと思ったんだ?」と、彼が聞いてきたのはバイトを辞めて数日経った満月の夜のことだった。僕らはしばしばビールを片手にメインストリートを散歩した。

「怖かったんだよ。あそこ、天井が揺れるだろう?そのうち天井が抜け落ちて、電車が落っこってくるんじゃないのかなって。あの揺れが、ストレスだったんだ。たぶん。」僕は、よく分からない嘘をついた。宇佐木は黙って残ったビールを一気に飲み干した。彼はなにも言わなかった。

 彼は、まだ天井の揺れる高架下のレンタルショップで働いている

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