ブロークン・ウィンドウズ

尾田わらば

第1話 古い文明は黒板に書いてある

 水溜りが空を映している。風が吹き木の葉がひらひらと舞い落ちていく。長く風に乗って空中を泳いだ木の葉は、水溜りを不時着の場とした。木の葉が水面に触れた瞬間、波紋が広がっていく。木の葉は大海を往く巨大タンカーのように水溜りの上を流れた。

 昨夜から続いた雨は、今朝になってようやく治まった。灰色のアスファルトを黒く塗りつぶした雲は、もとの白さを完全ではないにしても取り戻しつつあった。

 今日は部屋干しをしないで済みそうだな、と僕は思った。ここ数日の雨続きのせいでベランダで洗濯物を干すことが出来ず、物干しをそう広くはない部屋に広げざるをえなかった。それは結構大きな物干しで、確実に居住空間を圧迫していた。そのうえ不幸なことに、一日中部屋で干したところで、完全に乾いてくれることなどほとんどなかった。


 古いウィークリーマンションをリフォームして出来た、僕の住むマンションの部屋には洗濯機を設置する防水パンもそのための排水口も用意されていない。

 数年前に僕は、遠方の暖かい片田舎から大学進学のためにこの地に引越し、住む物件をネット契約で結んだ。いざ入居して、まさか洗濯機を設置する場所すらないことに面食らったものだった。あるのは当然だろうとよく確認もせず、駅と大学の近さと、家賃の低さのみで決めてしまったのだった。

 十二階建ての元・ウィークリーマンションには、洗濯機を置く場所が部屋にない代わりに、共用のランドリールームが存在する。男性専用の洗濯機が5台、女性専用のそれが5台、乾燥機が8台備わったおおよそ20帖くらいの部屋だ。部屋の中央には、使い古されて革のひび割れたソファーが背中合わせに二対並んでおり、部屋の隅のほうに、自動販売機が一台、ほの暗い部屋を微力ながらもこうこうと照らしていた。自動販売機の隣にはトイレがあったが鍵がかけられており、ドアノブはご丁寧に南京錠と鎖でぐるぐる巻きにされていた。トイレの扉には


トイレットペーパーの盗難が相次いだので、トイレは使用禁止です。どうかご自分のお部屋をご使用くださいませ。管理人


と色あせた張り紙がしてある。僕が入居したときにはすでにトイレはトイレとしての役目を解雇されていたのだった。


 乾燥機がランドリールームに用意されているにも関わらず、狭い部屋で部屋干しを続けていたのには理由がある。一つは、料金がかかるということだった。洗濯機を一台回すのに百円。乾燥機を回すのに二百円かかった。洗濯物が多いときはそれぞれ二台ずつ使わなければならないことも人によってはあった。僕は金欠時には、ひいひい言いながら財布から小銭をだしたものだった。

 また、ランドリールームで人に会うこともあまり好きではない。大量の洗濯物を持っているところや濡れた洗濯物を乾燥機に移す姿などを見られるのが苦手だった。なんだか自分の内面が不意に晒されて他人に目撃されてしまうように思えたからだ。なるべくならば、人に会わないままにしておきたい、そういう思いからランドリールームを使うのは極力避けていた。使うときは、人のいない頃を見計らって使うことにした。



 退屈な一時限目の講義を聞きながら、窓の外を眺めていた。学部棟のサブ玄関前には、自転車置き場に無造作に自転車が置かれている。自転車置き場の前にある大きな水溜りをじっと僕は眺めていた。

 朝、マンションを出る前に洗濯機に百円玉を投入しておいた。この退屈な講義の出席票に自分の名前を書いたら、さっさと教室を抜け出しランドリールームに直行するつもりだった。

 二つ前の席に座る紫色のポロシャツを着た男まで出席票が回っているのが見える。

 すると隣の席に座る男が話しかけてきた。宇佐木という名の男で、髪色を金色に染め上げていた。それは、秋の風にそよぐ小麦畑のように美しい黄金で、地毛がもともとそういう色だったのではないかと思うほどだった。彼の白い淡白な肌に馴染んでいた。

「なぁ、今日も朝、せんたっき回してきたのかい?」とひそひそ声。

そうだよ、出席票に名前を書いたら教室を出るつもりだ、と僕もひそひそ声で答えた。丁度、前から出席票が回ってきたので僕は名前を書いた。

「それ、次俺にまわしてくれよ。俺も出る。」と言うやいなや、出席票の紙を僕の手から奪う。順番からいって、次に出席票の回ってくるはずだった、僕の後ろの席のやつはきっと、面食らっていることだろう。

 

 分厚いメガネをかけた老教授の講義は、容易に抜け出すことが出来るものだった。老教授はパソコンを扱えないらしく、パワーポイントももちろん作れない。したがってプロジェクターを使って講義をすることもなかった。老教授は講義内容が書かれたB4のレジュメを講義の最初に配った。レジュメには小さい文字がびっしりと埋まっていた。レジュメと出席票の紙を配り終えると教授は、その日の講義の流れを口頭で軽く説明した。その後は生徒に背を向けて、ひたすら黒板に板書をしていくのが常だった。

 B4の紙面に裏表に手書きでびっしり書かれた文字だけでは語り言葉は収まらないのか、老教授は黒板いっぱいに文字を書いた。隅から隅まで文字や記号で埋まっていく黒板は、さながら古代文明の黎明から滅亡までの歴史が刻まれた石碑のようで、芸術的とまで言われているらしい。そう、時々、宇佐木から聞いていた。僕はまだ一度もその古代文明の滅亡を目撃したことはなかった。そして、今日もまた見ることがないだろう。

 

 腕時計を見ると、針は九時十三分を示していた。洗濯機はすでに回り終えているころであろう時刻だった。宇佐木は出席票の紙を僕の後ろの奴に手渡した。わりぃな、と声を出さずに詫びを言った。それから、机の横にかけていた手提げかばんを取り、その中に無造作にレジュメを突っ込むと席を立ち、そろりそろりと教室の出口へ向かった。僕もレジュメをリュックの中に入れ、彼に倣って後をついた。相も変わらず、老教授は生徒に背を向けたまま、黒板に一文字一文字、滅び行く文明の進退を刻んでいる。


「こりゃあ、夕方にひと雨降るぜ」と、教室を無事抜け出し、学部棟のサブ玄関を出てすぐに宇佐木はうめき声をあげた。するとスマホを取り出し、なにやら検索し始めていた。

「けど、きれいに晴れてる。青空だし、太陽だって出てるよ」と僕は人差し指で空を指した。

「いや、降るんだって。ほら、ウェザーニュースで昼過ぎから雨だって。」スマートフォンの液晶画面を、紋所を見せつけるように僕の目の前に突き出す。十二時台から、太陽が雲に隠れ始め、一時には雲が空を占めるようだった。二時にはカサマークがついて、降水確率は六十パーセントを示していた。

「でも、所詮天気予報だし、外れることもあるって。この前の嵐の予報だって、まるっきり晴れたろう。それに、ここんとこ、部屋干し続きでうんざりしているんだ。こんなに晴れてるんだし、外に干したいよ。」

「まぁ、止めはしないさ。お前さんの自由さ。」そう言いつつも宇佐木は片方の眉を上げて、少し不服そうに見えた。

 

 水溜りは依然として、空の青と、雲のにじんだ白を映し出す液晶画面だった。天気の流れなんて、水溜りを見れば分かる。こんなにも晴れているじゃないか。

 学部棟のまわりは、大学が管理する芝生で一面が囲われている。ちょうど芝生の養生期間にあたるいまの季節は、芝生内に立ち入ることも出来ず、ロープでぐるりと囲われていた。芝生の中央を貫くように歩道が整備されており、僕らはそこを並んで歩いた。歩道は、大学構内の中央を走るメインストリートに通じている。ストリートの街路樹は、夜露をすっかり地面に落としきっていて、その葉は太陽に燦々と輝いていた。


 九時十九分。

「帰ってなにするんだ?」と宇佐木がたずねた。

「洗濯物をベランダに干す。その間、少し読書して、腹がすいたらパスタをゆでる。ミートソースをかけて食べて腹が膨れたら、昼寝でもする。」

「お前が羨ましいよ。」と彼はあきれたように言った。

「そうだな。洗濯機のタイマーと、パスタのゆで時間に程よく縛られている。」


「ウサギくん」と、明るい声がメインストリートの反対側の歩道から聞こえた。

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