切れた翳

 男の追跡は困難を極めていた。


 夏の日差しがじん〳〵と肌を焼き、男の内にまで熱を届けていく。男は脱いだジャケットを肩にかけ、汗に濡れたシャツの中にぬるい風を送り込んでいたが、生憎と想定よりも涼は取れなかった。汗がアスファルトに落ち、太陽の熱で沁みが即座に乾いていく。


 男は、黒四二二八号の消息を追跡していた猟犬の一頭だった。諜報員とおぼしい者の調査を行い、存在の真偽を問う闇の調査員――其れこそが男の職業だった。


 諜報の世界に携わっている者にとって消息が掴めぬという事は『黒』――つまり、敵国側の間諜と認識される。自然、『黒』と判断された者は即座に存在を消去される。そういった意味では、黒四二二八号は掛け値なしに『黒』であるのだが、問題は彼の白黒の判定ではなかった。


 彼の依頼主は、既に黒四二二八号と呼ばれている者が『黒』である事はとうに把握しており、其の上で男を含めた幾頭もの猟犬を放っているのだから。そう、依頼主こそが黒四二二八号の飼い主であり、本来ならば此のような専門外の業務に男が駆り出される理由などないのであるが……。


 しかし、男が夏の日差しの元で熱に炙られているのは、其の黒四二二八号の経歴――足跡を辿る旅路の途中であるからだ。


 黒四二二八号――。今は、安曇野正義と名乗る老人の暗号名コードネームだ。間諜としての人生が圧倒的に長い、もはや自身の人生が偽りなのか真なるものなのかも曖昧となった男。


 既に潜入から五〇を越える歲月を経た老人……。当然、鼻の敏感さが自慢の猟犬も、其の辿った路に残った臭いが褪せて久しいともなれば、追跡は容易ならざる難事となる。

 其れほどまでに半世紀近くの時の降り積もりは、滔々と降る雪が覆い尽くすが如くに、足跡どころか路さえも白い闇に閉ざしていた。


 白い雪――汗が滂沱と流れる現在、其の想像をしても、生憎現にある熱さ相手には無聊の慰めにもならなかった。汗が眼に沁み、視界が透明な金平糖に散りばめられる。


 ――此れは、黒四二二八号の人生其のものを辿る旅……になるかもしれんな。


 当然、簡単な事ではない。余人ならともかくとして、相手は足跡を残さぬが旨と教育された男だ。当然、大きな動きをしている痕跡こそ見つかるものゝ、断定には程遠い情報のみ――言わば、本心を悟らせない動きをしている事だけは感じられた。


 男は日本海側の港町にいた。夏の日差しを受けて、遥かな水平線に向かって光る鱗は、海が一つの広大な生物に例えられる故か。綺羅〳〵きらきらしい真夏の光線を存分に反射して、波で砕く日本海の海原は無限の色彩に染まっていた。


 此の典型的な田舎町が、黒四二二八号の始まりの場所。半世紀という男の生涯を越える年月が、黒四二二八号の始まりの時だったのだ。


 漁船に偽装した船で密入国しての拉致、そして拉致した日本人を工作員に仕立て上げるという、侵略国の恐ろしき奸計。未だ根を張る拉致事件は実のところ、日本国がそうと認識するよりも早くに行われていた。


 最も極秘の内に進められた拉致事件――つまりは日本国が認識していない、拉致事件が存在した。其の後につながるモデルケースとして進められた事件は、日本政府の認識の約一〇年前から行われていたのだ。


 男が公共図書館で当時の新聞を確認したところ、古い昭和三〇年代の夏の日に一人の少年が神隠しにあったとされる小さな記事がひっそりと存在していた。其の後、記事は経過に従って更に小さくなり、数日には消えている。現在と異なり、情報網が確立されていない時代の、小さな記事が黒四二二八号の始まりと思われた。


 拉致にあった少年は諜報員、工作員としての訓練と洗脳を施され、二〇歳前後には日本での工作を充分にこなせるであろう人材として仕上がったといわれている。其の後、所属の変遷などを経て、約一〇年という歲月の後、もはや青年となった少年は、日本という国を侵略するための尖兵として再び入国したのだ。


 諜報の世界の任期は制限が無い。海外に出向いた工作員が祖国の土を踏めなかったといったケースも、決して珍しい話ではない。黒四二二八号は再入国以来、此の国で情報工作員として日本国の内部を混乱せしめ、其の弱体を任されて今に到っていた――筈なのだが。


 事此処に到って、黒四二二八号の動向に懸念を抱いた上層部は、猟犬部隊に命を下した。任務の内容は、黒四二二八号の見極め――其の最終的な目的が何処に在るのか――、そして秘匿していると思われる未知の兵器についてだ。

 後者については雲を掴む話であり、単体では尻尾を掴む事すらできぬが、どちらにせよ黒四二二八号が関わっているとなると、彼を調査する事が、即ち両方の目的を探るに等しい。


 まず、男はかつて少年だった黒四二二八号の生家に注目した。


 本来ならば、諜報員としての教育を受けた黒四二二八号が、生まれ育った生家に顔を出すなどあり得ないのだが、そういった考えの裏を突いている可能性は否定できない。


 男は、黒四二二八号の生家とおぼしい屋敷の前に立っていた。


 此の田舎において、スーツという装いは些か不釣り合いであったため、男は近年急増する外国人観光客の変装に切り替えていた。都心までは言わぬまでも、地方都市レベルであれば営業サラリーマンの扮装は巷に溢れ、装いが身分の確かさを欺瞞する。其の為、男のような職の人間はスーツスタイルを好むのだが、田園と北の海と山々が支配する土地に於いては、土地の人間ではないという点を差し引いても目につく。


 アロハシャツに半分にカットしたジーンズは、スーツより遥かに灼熱の夏に合っており、またアジアをはじめとする観光客は、日本のいわゆる僻地さえも姿を顕しているため、彼にとっては非常にありがたい服装であった。


 ――此処が、黒四二二八号の……。いや、決めつけはご法度だ。


 しかし、男の心の隅には確信めいた感触があった。


 木の表札は雨風に晒されて、朽ちる色を濃くしていたが、なんとか『渡辺』という名が読み取れた。黒四二二八号と推測されるかつての少年の苗字は『結城』であった。やはり、事前に調べていた通りだ。流石に、五〇年という時の経過は残酷に過去と現在を隔てていたとみえ、既に眼前の屋敷は他人の持ち物となっている。


 地元の図書館での調査をはじめ、聞き取りの行脚を続けた彼にとっては、既知の出来事である。


「我が家に何か御用でしょうか?」


 振り向くと、既に隠居していると思われる老人が立っていた。老人は麦わら帽子をかぶった簡易な服装をしていたが、何処か其の気配には気品さがある。また、ゆっくりとした丁寧な日本語は、外国人に理解しやすいようにと心を砕いた老人のはからいだろう。


 其れだけで、老人の人当たりの良さ――男にとっては汲みやすさが知られた。


「イエ、此処ハ結城サンのオ屋敷ダッタト記憶シテオリマシタガ……」


 男は、発音もたどたどしい日本語を口にした。無論、其の気になれば流暢な日本語を完璧に話すことも可能だ。現在の服装を鑑みた判断で、あえて日本語に不慣れな外国人を演じているに過ぎない。しかしながら、最近では珍しくない外国人観光客が門前に立ち尽くしていたとなれば、警戒されてもおかしくはない。


 老人は歲月を経て警戒心を掻き立てるものを既に無くしたか、男の声に柔らかく破顔した。


「ああ、結城様のご友人の方でしたか。私は……ああ、海外の方には漢字は難しいでしょうね――渡辺と申します」


 ――結城……様?


 まさか、結城の、黒四二二八号の家系の関係者が此処に住んでいようとは……。驚くべき事態にも、訓練で培った鉄面皮ポーカーフェイスは崩れぬ。一瞬の衝撃の後、願ってもないチャンスをもたらした天の采配に、男は内心でほくそ笑んだ。


「アリガトウゴザイマス。私ハ、ヤントイイマス。結城サントハオ知リ合イデ?」


 男は用意していた偽名を口にした。幾つもの経歴を準備ストックしている男の偽名の一つ、ヤン亞龍アーロン。名乗ると同時に、頭がヤンという架空の男に最適化されていく。経歴、癖、家族構成……其の他の詳細なプロフィールが、今では演技ではなく自分の一側面として引き出せるようになっている。


「ええ、ええ。懐かしいですね……」


 昔を言葉通りに懐かしんで、眩き過去という太陽に渡辺が目を細める。胸に去来しているであろう今では過去に流された追憶……特に、老境に差し掛かった者は、過ぎた時代に身を浸る事がまゝある。ヤンも其処は弁えていた為、老人がひとしきり時を遡行する様を見守っていた。


 暫し、とは言え渡辺老人の過去への旅は決して長くはなかった。思い出に浸る事が老人の特権であるならば、其処からの帰還も慣れたものなのだろうか。


「さあ、此処ではなんでしょう。お上がりください」


 男――ヤンは渡辺老人に誘われるがまゝに敷居を跨いだ。黒四二二八号の足跡を辿る旅、其の終焉を予感しながら……。

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