すべての記憶を消して
ぼくは、ケータイを取り出すと、彼女にメールを打った。
『ミヨリさん
会いたいんだ。』
返信を待つ間は、何十年にも感じるほどの時間が流れた。
『いいよ』
『あの木の下で、待ってる』
そしてぼくは、またあの街にたどり着いていた。
穏やかな時間の流れる街。
大きな木は、秋の装いで、その葉は、はらはらと舞い落ちていた。
秋、だったんだよな。
ぼくたちが死んだのは。
いや、ぼくが彼女を殺してしまったのは。
そして、母さんが死んだのも。
もう、終わりにしたい。
巻いてきた、マフラーを手に握りしめた。
もう一度生まれ変わったら、もう二度と、君とはめぐり逢いたくない。
全く別の場所で、ただ同じ時間を、過ごしていたい。
遠い空の下で、ただ同じように、幸せな時を、過ごしたい。
そうで、あってくれ。
目を閉じて、彼女の来るのを待っていた。
手には、汗がびっしょりと吹き出していた。
これでいい。
これでいいんだ。
何時間経ったのか、分からなかった。
彼女は、現れない。
固く心に決めた意志が揺らぎそうになる。
やっぱり、ぼくが、怖いの?
ぼくは、そのまま木の根元に仰向けに倒れこんだ。
目を開ける。
思考は空を舞った。
落ち葉がぼくの顔に舞い降りる。
青い空と、大きく手を伸ばした、枯れ葉をつけた木の枝が見えた。
秋の冷たい風が吹く。
手に持っていたマフラーの温かい感触が柔らかく感じられた。
そして、それを自分の首に巻きつけた。
やっぱり、ぼくのラストシーンに、彼女は、いなかった。
会ってどうしたい?
止めてもらいたいのか?
彼女に一目でも会いたかった。
ただ、それだけ。
それすらも叶わないことなのか?
それ以上、もうぼくは何も望んでいない。
これが、ぼくの記憶の最後になるのだから。
もう傷ついていないフリをしなくても、いい。
涙をこらえてうずくまらなくてもいい。
寂しさを紛らわすために、何かに熱中しなくてもいい。
二度と帰ってこない人を、どこかでいつか帰ってくるかもしれないと思い続けなくていい。
窓辺から見下ろす庭の木に、言葉にならない恐れを感じなくていい。
夜が来る度に、記憶の中で繰り返される、償いきれない罪に、心をかき乱されなくていい。
すべての忘れられなかった記憶を、もう忘れて、いい。
すべての運命を、終わりにしていい。
「…もう生きていたって、意味がない…」
白いマフラーが、枯れ葉を白く染めていた。
そこに流れ込んでゆくように、ぼくの涙は止まることはなかった。
流れ行く白い稜線の先には、古い記憶の中の誓いの証がある。
『美咲』
その横には
『遼太』
何かその上に、新しく彫られた文字があった。
『藤が丘駅前のイチョウ並木』
イチョウ並木。
柔らかい光が差し込んだ。
その言葉に、古い記憶が蘇る。
ぼくの映画のワンシーン。
オレンジ色に染まる夕日。
黄色く舞うイチョウの葉。
そして、赤く色づいた彼女の頬。
雪のように敷き詰められた、イチョウの葉。
どうして…。
どうして、こんな美しい記憶を、思い出させるの?
とても、残酷だった。
幸せな記憶さえも、今は違う形に見えた。
どうして、すべてを忘れることは出来ないんだろう。
忘れたいと思うほどに、記憶はより鮮明になる。
見ないフリをしても、その形は、ずっと変わらないままに、またその鋭い輪郭でぼくを突き刺した。
ぼくは、ようやく立ち上がると、歩き出していた。
どうすればいいのか、自分はどこをどう歩いているのか分からないままに、記憶の中の美しい景色を求めて歩いていた。
あれはどこのイチョウ並木だった?
誰と一緒に歩いた道だった?
記憶は重なり合い、曖昧になった。
そして鮮明に思い出せることは
彼女の首を締める感触。
母さんの、白く悲しい顔。
ミヨリさんに、自分がかけた守れなかった約束。
涙が溢れていた。
もう、その涙を隠すこともしなくていい。
今思うことは…
最後に、誰かがぼくに見せてくれる彼女の姿を、ただ心に焼きつけたい。
そして、そのワンシーンをぼくのラストシーンに。
ぼくの
美しいラストシーンに
させて
欲しい。
イチョウの葉は、秋の歩道を埋め尽くしていた。
犬の散歩をする母親と子供。
寒そうに縮まりながら歩く老夫婦。
走り抜けるランドセルをしょった子どもたち。
そのずっと先に、一人の少女が佇んでいる。
その後ろ姿を見つめる。
長い髪。
細くて長い手足。
両手の親指と人差し指で四角いカメラのフレームを作る。
秋の風景。
美しく眩しいほどの黄色。
秋風が吹き、足もとのイチョウの葉を舞い上げる。
とても美しい。
まるで、映画のようだ。
そして、フォーカスはその少女に定まり、次第にズームインしてゆく。
少女が振り返る。
カメラを見つめる少女。
その少女は、笑顔を作った。
「桜井くん。どのシーン?」
「……」
「ねぇ、どのシーン?」
ぼくが何と答えたらいいのか逡巡している間に彼女はもう一度、あどけない笑顔でそう問いかけてきた。
「…どのシーンでもないシーン…だよ」
彼女は1歩ずつ近づいてくる。
「桜井くん、笑って」
「…笑え…ないよ」
「ふふ。じゃあ、アタシが笑おう」
ぼくは、両手を下ろした。
彼女は、楽しそうに、笑っていた。
屈託のない、とても純粋な眩しすぎるくらいの笑顔を、こちらに向けていた。
「桜井くん、今にも死にそうな顔してる」
彼女は口元に笑顔を残したまま、少し目を細めてそう言った。
「……」
「アタシね、桜井くんの、お父さんに、会ったよ」
「え?」
「お父さんて、有名な人なんだね。知らなかった」
「あぁ…うん」
「お父さんに、桜井くんのお母さんのこと、聞いてきた」
「え…なんて?」
「うん。どうしてあのおうちを借りたのか、どうしてお母さんは亡くなったのか」
「え?」
「聞いたこと、ないんでしょ?」
「…うん」
「あのおうち設計したのって、お父さんらしいよ」
「え?」
「だから、谷川紫音があのおうちで亡くなったのも、知ってたよ」
「そう…なんだ」
「それで、借り手がつかないから取り壊すみたいな話になって、あそこ、自分で買い取ったんだって」
「……そんなの、聞いたことないよ」
「お菓子の家って名前つけたの、お母さんなんだって。桜井くんの。二人の思い出のおうちなんだって」
「……」
「お母さん、病気だったらしい。統合失調症…だったみたいだよ」
「うん。それは…なんとなく知ってる」
「統合性失調症って、小さな出来事から妄想が出来上がっちゃうんだって」
「そうなんだと、思う」
「お母さん、怖かったんじゃないかな?」
「何が?」
彼女の瞳は、イチョウが映り込んで黄色く染まっていた。
「大切な人を傷つけてしまうことが」
ぼくは何も言うことが、出来なかった。
「遼太って名前、お母さんがつけたみたい。
これはアタシの勝手な想像だけど、お母さん、あの木にあった名前、見たことがあるんじゃないかって思う」
「どうして?」
「だって遼太っていい名前じゃない。口にすると、胸の奥が、ふわっとあったかい気持ちになるもの」
彼女の黄色く染まった瞳は、うるみを帯びた。
そして、頬はほんのりと赤く染まった。
この世に、これ以上美しいものはないと思った。
「多分、偶然じゃないんだと思う。
運命って、偶然じゃなくて、必然が少しずつ重なり合って、運命になるんじゃないかな」
「運命なんて、残酷なだけだよ」
彼女は寂しそうに瞬いて、イチョウ並木を歩き出した。
「覚えてない? この道」
「…子供のころに、来たことあるよ」
ぼくはつぶやくように答えた。
「一緒に、来たことあるでしょ?」
意味がよく分からず、並んで歩いていた彼女の顔を覗き込んだ。
「アタシと」
「…ないよ。初めてだよ。ここに来るの」
「初めてじゃないよ」
ぼくは立ち止まった。
彼女の歩く姿を見つめていた。
クリーム色のワンピース。
その裾が、歩くたびに揺れた。
どこかで見たような風景。
「アタシがさ、ミニスカートはいてきて、怒ったじゃない?」
『ミニスカートなんてはいて来るなよ』
『だって好きなんだもん』
『それじゃなくても目立つのに…』
『いいじゃん。今日ぐらい』
「あ…」
ずっと遠い、記憶。
愛する人と歩いた道。
記憶とともに、苦痛が広がる。
いまさらながら、彼女にもその記憶があることを、思い知る。
「ごめん…。ぼくなんだ」
ふと、口から言葉がこぼれ落ちた。
「何が?」
「…君を、殺したの」
彼女は、その歩みを止めた。
「ぼく…なんだよ」
出来ることなら、知られたくはなかった記憶。
目をつぶって、忘れてしまいたかった記憶。
「ぼく…だったんだ」
涙が頬を伝う。
出会ってはいけない運命の人。
その美しい瞳は、まっすぐにぼくを捉えていた。
「やっぱり、誤解してたんだね」
「誤解じゃないよ」
「違うよ。あれは自殺だったの」
「え……」
「ようやく思い出したんだ。アタシたちが、この並木道で、約束したこと」
「約束?」
「もう一度生まれ変わったなら、誰の目も気にすることなく、誰にも邪魔されることなく、ただ一緒に手を繋いで、この並木道を歩こう。そう約束した」
その瞳に吸い込まれるように、新しい記憶が次々と蘇ってゆく。
『放してよ! 私がいなければ、誰も傷つかなくていいんだから』
『美咲! そんなこと言ってないだろ!』
『どうすればいいのよ! 富田さんも私のせいで辞めさせられたのよ。遼太だって、私のせいでドラマも降板させられちゃったじゃない』
『美咲のせいじゃないよ』
『私のせいに、決まってるじゃない! 社長がなにか言ったに決まってる』
『そんなこと、ないよ。俺たち、もう付き合ってないんだから』
『そんなの、誰も信じてくれやしないわ。言葉だけ別れたって言っても、まだ私たちの中で終わってない。だから、何を言ったって信じてもらえっこないわ』
『……』
『もう、こんな生活イヤ。終わりにしたいの』
『なら、俺を殺して』
『え?』
『美咲が死ぬ前に、俺を殺して』
『そんなこと…出来ない』
『その方がいい』
『そんなの、ズルいよ。そんなこと、出来るわけないじゃない』
『…俺だって苦しいよ。美咲がいなくなったら、俺だって生きてけないよ。美咲が死んだら、俺もどうせもう生きてけない』
『そう…だね』
『自分勝手なこと言うなよ』
『遼太、もう終わりに、しよう』
『え…?』
『一緒に、私と死んで欲しいの』
「どうして、あの時彼は一緒に死ななかったのかな?」
彼女は、黙ったままのぼくを見つめていた。
しかし、その言葉はぼくに向けられたものではなく、彼女自身に向けられたように聞こえた。
「……ぼくにも、分からないんだ」
記憶はところどころ曖昧で、思い出せるものも限定的だった。
だから彼があの時、そしてあの後、何を考えていたのか、ぼくにもよく分からなかった。
「うん。分からなくていいんだと思う。でもね、きっとアタシたちの知らない理由が、あったんだよ」
彼女は、また歩きだした。
そして、ぼくの左手を優しく掴んだ。
小さい手の温もりが、ぼくの体を包む。
「芹沢直哉の新作、今やってるね」
「うん」
「映画、一緒に見に行かない?」
イチョウ並木はずっとずっと先の方まで続いていた。
落ち行く葉は、日の光を受けてキラキラと反射していた。
ぼくはただ何も言えずうなづいた。
心が激しく締め付けられていた。
溜まっていた涙は、その瞬間にまたこぼれ落ち、頬を伝った。
「傷つけ合っても、悲しい結末になっても、誰かを愛した記憶は、自分にとって大切な記憶になる。悲しすぎるその形を、変えることが出来るのは、きっと自分だけだよ」
「うん」
「自分だけの視点では、いつだって真実なんて分からない。大切なことは、本当はどうだったかなんてことじゃない。
その人の中の真実を分かってあげようと、思う気持ちじゃない…かな」
「うん」
ぼくはまるで子供のように、彼女の言葉に頷いていた。
「なんて、桜井くんに会ってなかったら、分からなかったことなんだけど。…あの時、終わりにしてたら、絶対に分からなかった」
彼女は、とても朗らかに笑っていた。
「ラストシーンがどうなるかなんて、分かってる映画なんか、つまんないし。
悲しいだけの結末なんて、有り得ない」
「うん。そうだね」
どんなに苦しい記憶も、どんなに悲しい記憶も、自分が分かり合おうとすれば、きっといつかは、違う色になり、違う形を持ち、違う味わいになる。
きっと彼女は、そうぼくに伝えるために、ここに来たのだ。
「桜井くん、笑って」
「おかしくないのに、笑えないよ」
ぼくの顔には、幾筋もの涙の跡と、笑顔があった。
「笑ってるじゃん」
「笑ってるよ。ミヨリさんが、好きだから」
何の躊躇もなく、自然と言葉がこぼれた。
「え?」
「ぼくと、付き合ってください」
驚いた表情の彼女を抱きしめると、そのまま唇を重ねた。
柔らかいその感触は、ただ涙の味だけがした。
甘くて、しょっぱい。
不思議の国のお菓子の味。
背中に回された彼女の手は、その答えをぼくにくれた。
ぼくたちの映画は、今始まったばかり。
ラストシーンにはまだ早い。
何も始まってなど、いなかった。
ぼくの初恋の色。
それは、何色でもない。
ぼくの初恋の味。
それは、何の味でもない。
ぼくの初恋。
それは、いつも未来にあった。
叶わなかった初恋は、いつも未来の初恋へと繋がってゆく。
そしてそれは、いつまでも忘れられない記憶として、心の中で輝き続ける。
初恋の記憶。
それは一つじゃない。
いろんな色を持ち、いろんな味わいを持ち、違った形になってゆく。
そして、それら一つ一つのすべて違う輝きは、いつだってぼくの初恋になる。
同じものは、二度とない。
にゃぁん
イチョウ並木のその真ん中に、白い猫が座っていた。
「あ、あの猫…」
「ノラかな? 可愛いね」
ミヨリさんはその猫を抱き上げた。
にゃぁん
白い猫はもう一度鳴いた。
『遼太、自転車乗れたんだってね。すごいねぇ』
記憶の中の、その声が聞こえた。
お菓子の香りを纏った、優しい笑顔の似合う女性。
――新しい初恋の記憶が、今始まる。
初恋のキヲク 林桐ルナ @luna_rin
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