すべての記憶を消して

 ぼくは迷っていた。


 一人になったアパートの部屋で、唯一持っていた家族3人で撮った写真を眺めていた。


 秋の公園。


 オレンジ色の木の葉に囲まれたベンチ。


 写真の中のぼくはすごく小さい。


 あどけない表情で笑顔を作っていた。


 父さんとは、もう随分連絡を取ってはいなかった。


 父さんからの連絡も、あまり無かった。


 関係は何も変わっていなかった。



 二人とも、二人だけになってしまったことを、受け入れているようで、受け入れきれていなかった。


 だからってぼくは、何も、してあげたわけではなかった。


 ただこうやって、少しずつ距離をとって、その悲しい記憶を、消し去ってしまいたかった。


 父さんを憎んだことは、正直、一度もない。


 父さんは、いい父親じゃなかったかもしれないが、父さんなりに、苦しんで生きてきただろうと思っていた。




 迷っていた。


 すべてをはっきりさせてしまうことに。


 それでも夜がくれば、何度も子供のころの記憶が蘇った。


 父さんと自転車の練習をした道。


 何度もくじけそうになった自分に、『諦めるな、諦めたら終わりだ』そう言ってくれた父。


 そして、同級生から聞いた話が、何度も頭の中によぎった。


 こうやって、じっとうずくまっていれば、毎日何かを一生懸命やっていたら、どんなに悲しい記憶も、忘れられる。


 そう思っていた。


 だけど、人はすべてを忘れることは出来ない。


 深く刻みこまれた激しい感情を、忘れ去ることは出来ない。


 ただ、その大きすぎて、痛み過ぎるその形を、見て見ないフリをすることしか出来ない。


 自分が、逃げているままじゃ、その形はずっと変わらない。


 ぼくはまた何も変わらない朝を迎えると、その写真をカバンに入れ、アパートから出た。


 もう、後戻りは出来ない。


 不安で押しつぶされそうだ。


 青葉台の駅を降りて、暖かくなったその静かな街並みを歩く。


 子供のころの記憶が、昨日見た夢のようにじんわりと思い出される。


 あの小さな裏通りは、まだ変わらないだろうか。


 よく行った本屋さんは、まだあるだろうか。


 店のおじさんは、まだレジに座って本を読んでいるだろうか。


 すべてが懐かしかった。


 何年も経つのに、忘れていない記憶。


 この街は、やっぱりいいな。


 穏やかな時間が流れている。


 穏やかで、優しい。


 ただ闇雲に足を進める。


 行き先はない。


 ここまで来て、やはりあの家に向かうことを迷っている。


 どうすればいいのか、分からないまま。


 そして…


 それでも、やはり、辿り着いてしまうだろう記憶の中の場所に、すべての意識が重なる。


 足は自然と歩き慣れた道を辿る。


 遠くに見える、ぼくの大切な場所。


 今はくすんでしまった、レンガの壁。


 緑色の、小さな風見鶏。


 それらが、少しずつ近づいてくる。


 またここに、辿り着いてしまった。


 記憶の中に、いつも残る小さな家。


 足が、すくむ。


 逃げ出したい気持ちを、両手で必死に押さえつける。


 体は小さく震えていた。


 雑草で覆われた脇の細い通路に足を踏み入れる。


 雑草が絡みついて、なかなか前に進めない。


 見覚えのある小さな庭。


 すぐに視界には、一番奥の隅にある大きな木が、映る。


 目を閉じて深呼吸をする。


 体は微かに震えている。


 あの木には、あの日から近づいたことはない。


 ぼくの母さんを奪った場所。


 そして一歩ずつ、その歩みを進める。


 幹にそっと手を触れた。


 うずくまり、震える体に力を込める。


 そして、その幹の裏側に手を伸ばす。


 確かに、何か彫られている。


 そして、静かにその部分の前に体を押し込む。


 ゆっくりと、目を開いた。


 時間は、止まった。


 全く予想もしていなかった名前が、並んでいる。


 左には


『美咲』


 と彫られている。


 これが、谷川紫音の本名なのかもしれない。


 そして、右には



『遼太』


 と、書かれていた。



 ぼくの…名前だ。


 なぜここに、ぼくの名前が?


 分からなかった。


 父の名前は、『幸彦』という名前だった。


 なぜ、ここに、ぼくと同じ名前が彫られているのか…。


 奇妙な感覚に襲われる。


 なぜか、見覚えがあるような気がしてならない。


 いつ?


 どこで?


 これを、見た?


 ただ、ぼうっと、その名前を見つめていた。


 分からない。


 やっぱり思い出せない。


 いったい、どうなっているんだ。


 自分でもよく分からないままに、庭に面した家のガラス扉に目を向けた。


 あそこから、誰かと、この木を見つめた。


 ぼくの体は、そちらに吸い寄せられるように向かってゆく。


 子供の頃の記憶じゃない。


 だけど、霧にかかったようでうまく映像にならない。


 思い出せない。


 腕に力が入る。


 ガタンと音がした。


 ガラス扉が横にスライドしていた。


 開いてる。


 ぼくは、その扉に手をかけて、中に入った。


 懐かしい風景が蘇る。


 リビングだ。


 ここに、テレビと、テーブルとソファがあった。


 ぼくは、そのテレビの前で、うずくまって映画を眺めていた。


 一歩一歩、奥へ進む。


 キッチンだ。


 母さんが、いつも立って料理をしていた場所。


 ケーキの焼ける匂いは、ここまで漂ってくる。


『ダージリン? セイロン?』


 ふと、声がする。


『ケーキ屋のくせに、スナック好きだよなぁ』


『ハッピーターンて、どういう意味だか知ってる?』


『どういう意味?』


『幸せが戻ってきますようにって意味なんだって』


『へぇ。お菓子なのに、なんか変わってるね』


『だから、食べたらなんか幸せな気分になって、止まらなくなっちゃうらしいよ』


『何言ってんだよ。ただお菓子が食べたいだけだろ』


『ははは』


 笑い声がこだまする。


 頭が痛い。


 割れそうに痛い。


 笑い声がこだまする。


「あぁっ…うああああぁぁぁーー!!」


 叫んだ瞬間。


 いろんな記憶が頭の中で壊れたテレビのように、ぐちゃぐちゃに映し出される。


『別れたいの』


『…どうして?』


『どうしてって…仕方ないでしょ?』


『俺は別れたくないよ』


『無理だよ。みんなに迷惑かかるんだよ?』


『迷惑ってなんだよ。芸能人が恋愛したらいけないってゆーの?』


『そうじゃないけど、今は、一番大切な時期だから…』


『富田さんに言われたの?』


『私たちのこと思って言ってくれてるんじゃない』


『谷川紫音というブランドを守りたいだけだよ』


『記者の人に、目をつけられてるみたいなの。映画の公開前にそんなことになったら、遼太くんも大変なことになるって言われたわ』


『……』


『ようやく掴んだ道じゃない。ここでダメになったら、私、それこそ一緒にいられない』


『…なんだよ。それ…』


 台本を叩きつける大きな音。


『映画の撮影が終わったら、もう遼太くんとは会わない』


『若槻翔太とは会ってくれるの?』


『……何それ。そんなのズルい』


 そんなのズルい…。


『ごめんね…』


 庭の木の根元にいる。


 ぼくは、何かの上に乗っている。


 下を向くと、愛する女性の美しい顔がある。


 先ほど食べたばかりのショートケーキのクリームの味わいが口の中に広がる。


 女性はその美しく可憐な眼差しをまっすぐにぼくに向けていた。


 首には、細いロープが巻き付いている。


 その両端には、手袋をはめた自分の手が見える。


 ぐっと力を込める。


 悲しみと怒りで、体が支配されてゆく。


 ひどく苦しむ彼女の顔。


 目を閉じた瞬間に涙が流れる。


 その唇に、ぼくの唇を重ねた。


『ごめんね』


 やめてくれ。


 こんなもの、見せないでくれ。


 こんな記憶、思い出したくないんだ。


「やめてくれ!」


 叫んだ。


 何度も思い出されるその感触を忘れてしまいたくて、何度も叫んだ。


 だけど、それは、叫ぶほどに、それまでの彼女との思い出が、思い出のシーンが、鮮明に蘇っては消えた。


「お願い…。もう…、やめてくれ」


『あそこのお母さん、庭で首吊ったんだってね。もうあの家、誰も住まないんじゃない?』


『子供がかわいそうよねぇ。これからどうするのかしら?』


『お菓子の家には、魔女が住んでるらしいぜ』


『お父さん、ギャンブル好きのアル中だったって言うじゃない? 奥さんも大変だったんでしょうね。殺されたようなもんじゃない?』


『人殺し!』


『遼太、母さんが死んだ。意味…分かるな? 母さんとは、もう2度と、会えない』


『母さんは、遼太と父さんの記憶の中に生きてる。記憶の中で、生きているんだ』


 涙が、止まらなかった。


 心に刻み込まれた言葉が、次々に鮮明に思い出された。


 苦しい。


 谷川紫音を殺したのは…


 若槻翔太だったんだ。


 海の中で抱きしめ合う彼女の体の感触。


 凍えそうに寒いのに、心は燃え盛る炎で焼き尽くされそうだった。


『愛してる』


 そう耳元で囁いた。


 そして、若槻翔太は…


 ぼく、だった。


 ぼく自身だったのだ。


 若槻翔太は、あの映画の公開後に死んでる。


 飲酒運転で、側道に突っ込み事故死している。


 主演の二人が相次いで死んでしまったために、当時話題になったらしかった。


 そのことを知ったのは、ミヨリさんの記憶を調べている時のことだった。



 そして、その2年後に、ぼくは生まれた。


 間違いない。


 ミヨリさんを殺したのは、ぼくだ。


 その感触をはっきりと思い出せる。


 ぼくの中のもう一人の自分が、彼女の中のもう一人の彼女を探し出したのだ。


 運命なんてものじゃない。


 偶然なんてものじゃない。


 彼の激し過ぎる愛が、すべてを強く結びつけたのだ。


 そして今も、激しく、彼女の輝きを、求めていた。


 ミヨリさんに、会いたい。


 会ってすべてを打ち明けたい。


 この苦しみを、分かって欲しい。


 誰にも言えなかった孤独を、打ち明けたい。


 ぼくはそんなに強くないと、伝えたい。


 すべての痛みや苦しみを、忘れてしまうことが出来ないと泣き叫びたい。


 一人でいたくない。


 誰か側にいて欲しいんだ。


 頑張ったねと、誉めて欲しかった。


 辛かったねと、慰めて欲しかった。


 ただ彼女の側で、こんな弱い自分を認めて欲しかった。


 だけど


 もう、ぼくには、彼女に会う勇気がない。


 すべてを打ち明けることなんて出来ない。


 怖いんだ。


 怖くてつぶれてしまいそうだ。


 愛する人の命を奪ってしまった罪悪感は、ぼくの体の隅々に行き渡り、体中を縛り付けた。


 分かるんだ。


 彼の悲しみが。


 彼の苦しみが。


 彼の罪の重さが。


 そしてこの記憶は、一生消えることはない。


 もう2度と、消え去ることは無かった。



 何も出来ないまま、ただ時間だけが進んでいた。


 一日中ただパソコンの中で笑う彼女のすべてを見つめていた。


 何も答えは見つからないままに。


 コンペに出せるものはない。


 これ以上撮影なんて出来そうになかった。


 ただ美しく可憐な彼女の形を、つなぎ止めるように、ぼくの中の彼女を描いた。


 ストーリーにはならない。


 思いつくままに、ぼくは言葉を綴る。


 彼女に伝えられなかった記憶を、その中に残す。


 こんなことに意味はない。


 彼女に、伝えることは出来ない。


 そして、誰にも理解出来るはずもない。


 なのに、ぼくの心は彼女を描く。


 思い出は美しかった。


 コンペの応募締め切りは近づいていた。



「おい、何やってんだよ!」


「何にもやってないよ」


「だから、何やってんだよって聞いてんだろ!」


 今西は激しく怒鳴りつけた。


「もういいよ。ぼくに構わないで」


「ふざけんなよ! ぶっ飛ばされてーのかよ」


「ぶっ飛ばせばいいだろ? ぶっ飛ばしてすべてが変わるならぶっ飛ばしてくれよ」


 今西は、ぼくの顔を睨みつけた。


 いつまでも大学に来ないぼくのアパートに、今西はやって来た。


 何も言い返すこともない。


「どうしちゃったんだよ。こんなの、お前らしくねーよ」


「もうどうでもいいよ。疲れたんだ」


「何言ってんだよ。コンペの作品作ってんだろ」


「一応出来たけど、こんなくだらないもの、作品だなんて呼べないよ」


「くだらないかどうかはお前が決めることじゃねーよ」


「誰にも理解出来るはずがない」


 今西は立ち上がると、ぼくのノートパソコンを掴み上げた。


「これ、借りてくから」


「え…?」


「応募するかどうかは、俺が決める」


「出したところで、そんなものに意味なんかないよ」


「意味のないもん作れんのかよ! 何か伝えたいもんがあるから、作るんだろ? 伝える人がいるから、作品になるんだろ? お前に意味なんかなくっても、これを見た人が何か感じたら、それは意味があるもんになるんじゃねーのか?」


 今西の言葉は強かった。


 突き刺さるように、強い言葉だった。


「ふざけんなよ。そうやっていつも自分の殻に閉じこもって。

 甘えんじゃねーよ!


 お前の…高校の卒業制作見て、俺正直すごいと思った。

 こいつタダもんじゃねーなって思ったよ。

 悔しいと思った。お前の才能が、羨ましくて仕方なかった。

 こんなんで、諦めるのかよ。

 こんなお前を超えられたって、嬉しくもなんもねーよ!」


 こんな俺に、怒鳴りつけてくれる友達がいる。


 辛かった。


 彼の気持ちが、死ぬほどありがたくて、それに応えられそうにない自分に、ただ絶望していた。


 今西、もう何もないんだ。


 光を見失ったぼくの世界には、何もなかった。


 蜘蛛の巣に絡まった蝶のように、もがけばもがくほど、乗り越えられやしない記憶の呪縛に、はまってゆくようだった。


 何もやる気は湧かなかったが、ただ今西のため、こんなぼくを心配してくれる友人のため、ただそれだけのために、学校に通い続けた。


 あれから今西は、コンペの話はしなかった。


 ぼくも、もうこのまますべての記憶を消して、ただ今まで通り、穏やかで何もない生活を続けていたかった。


 夜には、睡眠薬を飲まないと、眠りにつけなくなっていた。


 何もしていないのに苦しくて、何をしていても苦しかった。


 このまま死んでしまえたら、どんなにいいだろう。


 諦めてしまえたら、どんなに楽になるんだろう。


 母さん、母さんは、今幸せですか?


 生きていることよりも、その選択は、あなたを幸せに導いてくれたのですか?



 夏になろうとしていた。


 8月の始め。


 家のポストには、見慣れない白い封筒が入っていた。


『東京シネマピクス国際映画祭実行委員会』


 暑さに汗が流れ落ちてくる。


 なんだろうと思いながら、部屋に入った。


 今西、あれ送ったのかな…。


 どうせ、予選落ちの連絡に決まってる。


 あんなもの、ぼくの独り言以外の何ものでもない。


 誰のために作った作品かも分からないものなのに。


 封筒の端を手で千切り、中の紙を取り出す。


 チケットのようなものが出てくる。


 三つ折りに折り畳まれた紙を広げた。


『桜井 遼太 様


 東京シネマピクス国際映画祭 学生コンペティション 短編部門に応募された【ラストメッセージ】は、1次審査・2次審査を通過いたしまして、最終選考上映会にて上映されます。


 日時と場所は以下の通りです。』


 驚いた。


 しかし、嬉しいという感情は込み上げてはこなかった。


 なんであんな作品が、最終選考に残ったのかも、正直よく分からなかった。


 最終選考に、行くつもりは、無かった。



 8月の終わり、今西から電話がかかってきた。


「久しぶりだな。最近あんま連絡取ってなかったし」


「バイトが結構忙しくてね。ごめん」


「なんか撮ってんの?」


「…撮ってないよ」


「どうして最終選考来なかったんだよ」


「あの作品は、もういいんだ。選ばれても、選ばれなくても、もう2度と見たくないし」


「……何があったのか、よく分かんねーけど、彼女、会場に来てたぜ」


「え?」


「だから、中井美夜里さん? あの子会場に来てたよ」


「どう…して?」


「お前が話したんじゃねーの?」


「話すわけないよ」


「なんか…様子がおかしかったよ」


「うん。いいんだ。それならそれで」


「よくねーだろ? いったいなんなんだよ」


「うん。きっと、ぼくと彼女にしか分からないメッセージだから。もういいんだ」


「それは違うな」


「……」


「俺だって、審査員だって、あのメッセージの意味くらい分かるぜ」


「誰にも、分からないよ」


「誰かを激しく愛することで、自分を見失ってく。そして、見失った自分は、愛する人を傷つける。それが一番怖いんだ」


 今西は一見して明るくて能天気に見えるが、本当に鋭い感性を持っている人間だった。


「彼女を傷つけるのが、怖いんだ。そうだろ?」


「そうだよ」


「でも、一番傷ついてるのは、お前だよ。そんなこと、彼女が一番よく分かってんじゃねーの?」


「もう、終わったことなんだ。これ以上、何も変わらない。一緒にいて傷つけ合うくらいなら、もう2度と彼女に会えない方がマシだよ」


「好きにしろよ。そうやって何もしなければ、全部忘れられるくらいの気持ちなら、あんな作品作ったりしねーだろ」


「お前に何が分かるんだよ。誰にもぼくの気持ちなんて分かんないよ。彼女にも、今西にも、分かんないよ。分かったようなこと言うなよ」


「自分だけが可哀想だなんて思うなよ。誰だって、忘れられない記憶の一つや二つあるんだ。傷ついたり、悩んだりすることがあるんだ。迷ったり、臆病になったりすることもあるんだ。誰にも分からない感情なんてあるはずないだろ」


「お願いだから…もう、全部、忘れさせてくれ…」


 今西は、そのあと何も言わずに、電話を切った。


 友人の言いたいことは、頭ではよく理解できた。


 でも、心は、いつまでも彼の言葉を受け入れることは出来なかった。


 結局、あの作品は賞に撰ばれることは無かった。


 審査員の作品評価には、こんな言葉があった。


『映像の効果や演出、色使いなどには独特の感性があり、主役の女性の魅力を最大限いかせていました。


 カメラワークはやや意図の不明なものもあり、まだまだ未熟さを感じてしまいました。


 作品テーマとしては、とても詩的で、ストーリーとして理解しにくい点などが多く見られましたが、不思議と作者の感情が心に響いてきました。


 今回の作品は、芸術的な要素が強く、審査員の中でも意見の分かれるところとなりましたが、作者の繊細な感性や伝えたいメッセージは見るものに十分伝わるものだったと思います。


 作者の、心に秘めたる情熱と苦悩を感じることが出来ました。


 次作に期待しております。』


『次作に期待しております。』という言葉は、ぼくにとって鎖のように重たいものだった。


 ノートを広げて、作品を書こうとしても、何も浮かんではこなかった。


 もう、限界なのかもしれない。


 誰かに、伝えたいものは、何もなくなってしまったのかもしれなかった。


 自分は、何をしたいのか、何をしようとしていたのか、すべてが曖昧で、よく分からないものになっていた。


 10月に入り、課題作品の提出もしなかった。


 仲間たちは、次々と新しい作品に精力的にチャレンジしていた。


 自分は、何のために大学にいるのかも分からなかった。


 明日が見えない。


 歩き出そうとすると、忘れられない記憶たちが、ぼくの足もとに絡みついた。


 退学届の書類を手に、何日も見つめて過ごした。


 今度また、芹沢直哉の新作映画が公開される。


 いつも公開初日には必ず見に行っていた。


 今はもう、それすらも、出来ないだろう。


 映画というものに、興味が無くなってしまっていた。


 ぼくには、これしか無かったのに。


『諦めるな。諦めたら終わりだぞ』


 父さん、終わりにしたいから、諦めるんだ。


 何もかもを、終わりにしたいから、諦めるんだよ。


 11月になり、気温はめっきり冷たくなり、古いマフラーを取り出した。


 ぼくは、それを巻いて、家を出た。


 ぼくを縛り付けるすべての記憶を、殺してしまえば、いい。


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