ラストメッセージ
あの日、すっかり崩れてしまったケーキを、彼の部屋で二人一緒に並んで食べた。
彼は二人分のチャイを入れてくれて、それにキャラメルのシロップを落として飲んだ。
『ケーキはやっぱりショートケーキが一番だね』
そう笑顔を見せた。
特になにか話したわけじゃない。
二人並んで、彼の家にあった映画を見た。
彼の気持ちは、よく分からなかった。
好きだと言われたわけでもないし、キスをしたわけでもない。
体を重ねたわけでもないし、付き合って欲しいと言われたわけでもなかった。
ただ、手を繋いだだけ。
『小さい手だね』
そう言われただけ。
二人で並んで、映画を見ただけ。
アタシにとって、彼がどういう存在なのかも、分からなかった。
ただあの時、ヒドく傷ついている自分がいた。
彼の部屋から出てくる二人。
笑顔で笑い合う二人のその姿に、ヒドく傷ついた。
あの人が、奥さんに話しかける横顔を見た時よりも、傷ついた。
彼はそうじゃないと、いつのまにか信じていたのかもしれない。
もう誰も信じたりしないと、誰も好きにはならないと、固く誓ったはずなのに。
それでも彼は違うと、願ってた。
だから、余計に、傷ついた。
でも、一番傷ついていたのは、彼だったのかもしれないと、今更思っていた。
その苦しみを、いつだってアタシみたいに吐き出したり、当たり散らしたりせずに、ただうずくまって目を閉じて耐え続けているような、そんな人だった。
だから、もうアタシは、彼が選んだ道を、責めたりしない。
責めたり出来ない。
あの日を最後に、彼からの連絡は無かった。
映画の残りの撮影もしなかったし、アタシから連絡することも無かった。
そして3ヶ月以上が経ち、季節は夏になった。
アタシは、もと住んでいた日本橋のマンションから、荻窪に引っ越した。
分不相応な、マンションじゃなくて、小さなワンルームの部屋に越した。
人生初めての就職活動をして、小さな出版社に就職出来た。
給料は、ケタ違いに悪かったが、充実していた。
兄とも、たまにご飯に出かけるようになり、母とも買い物に付き合ったりするようになった。
アタシは20歳になっていた。
世界は、美しかった。
自分が、見方を変えるだけで、そこには、とても穏やかで、小さな幸せを見つけ出すことが出来た。
あの時、彼が諦めるなと言ってくれなかったら、見えなかった景色。
それだけで、アタシは十分だった。
「中井ちゃん?」
編集長の滝下さんだった。
クーラーは省エネ設定のため、35度くらいになると、じわりと汗が出てくる。
そのため、彼女はパタパタと紙で顔を仰ぎながらやってきた。
「あ、はい」
「今度さ、東京シネマピクス国際映画祭ってあんだけど」
「はい」
「毎年、特集組んでるから、取材お願いねー」
「あ、はい」
「資料デスクに置いとくから」
デスクに戻り、資料に目を通した。
去年の特集を引っ張り出してきて、眺めていた。
そして、資料の片隅に、目が止まった。
『東京シネマピクス国際映画祭 学生コンペティション部門
最終選考で選ばれた作品は、東京シネマピクス国際映画祭にて上映されます。
最終選考上映会は著名人による審査があり、一般の方も入場できます。
上映会の詳細は、下記を参照してください。』
学生コンペティションという言葉が、目についた。
コンペってこれのことだったのだろうか…。
だとしたら、結構本格的な製作をしなければいけないのかもしれなかった。
きっと、出品出来なかったに違いない。
すべてのシーンを、撮り終わることは無かったのだから。
8月の終わり、アタシは、そのコンペティションの最終選考会場である会場に来ていた。
来ていたというよりも、来てしまったという表現の方が、正しかった。
学生コンペティションの最終選考なんて、取材しなくてもいいに決まってる。
優秀な作品は映画祭で上映されることになっているのだから。
アタシは、少し時間を過ぎてから、会場に入って行った。
あたりはすでに上映が始まっているため、暗くてよく見えない。
後ろの方の開いている席に座る。
プログラムを手にした瞬間、すぐに目にとまった。
『短編部門
ラストメッセージ
桜井 遼太』
そういえば、アタシは、彼の下の名前を知らない。
大学の名前も、バイト先も、何も知らなかった。
アタシたちの関係は、本当に不思議なものだった。
アタシだって、彼だって、お互いのことを、ほとんど話さなかった。
なのに、どこかで、何故か、強く結びあっていた。
そして、『桜井 遼太』さんの作品の上映が始まった。
『笑って』
『おかしくないのに笑えないー』
今でもはっきりと思い出せる桜の舞うあの並木道。
スクリーンの中のアタシは、何故かすごく綺麗だった。
桜が舞い落ちる。
そして、青い空が映る。
『ぼくが恋をしたのは、映画の中の少女だった。
いつも一人で、誰も帰って来ないその家の中で、ぼくは彼女に恋をした。』
聞き覚えのある優しくて柔らかい声。
『その遠く、手の届かない恋は、ぼくに映画という素晴らしいプレゼントをくれた。
そして、ぼくは、映画の中の少女と出会う。
笑顔の一番似合う人。
だけど…
初めて会った時に、彼女は泣いていた。』
アコースティックギターの甘いメロディーに乗って、女性の透き通る歌声が流れてくる。
あの、ビルの上のシーンだ。
口は動いているが、セリフは聞こえない。
セリフの代わりに、そのメロディーが流れる。
女性の横顔が映し出される。
そして、空を舞う、白い紙片。
『彼女が、好きだと、気づいたのは、この時だった。
彼女の見つめるその先には、自分じゃない他の誰かがいるんだろうと気づいたのも、この時だった』
そして水族館のシーン。
シーンというより、移動の間の何気ない風景。
この時、何の話をしていたんだろう。
思い出せないのに、アタシの表情は、とても生き生きとしていた。
すべてのシーンは、映像効果がつけられていて、まるで別の世界のもののようだった。
不思議の国
そんな感じのする、世界だった。
そして、リアルなのは、ただ一人、その中に映る少女だけだった。
『だけど、ぼくは…
彼女にぼくの気持ちを伝えることは、無かった。
真実を、打ち明ける勇気が無かった』
スクリーンが、真っ赤に染まる。
そして揺れ動くその赤い物体が次第にその形を作り出す。
真っ赤に染まる両手。
『映画の中の君は、君じゃない。
そうは分かっていても、ダメなんだ。
君の才能に嫉妬したり、君を束縛したいと願ったり、それでも君の未来や才能を優先してしまう自分。
君を、殺してしまった記憶。
それが、忘れられない』
赤い色は次第に色味が薄くなり、ピンク色になる。
それが、桜の花びらになり、桜が吹雪のように舞い上がる。
また始まりのシーン。
『笑って』
『おかしくないのに、笑えないー』
春の美しい桜並木。
『ぼくたちのめぐり会いを、運命だなんて、残酷な言葉で片付けないで。
ぼくが奪った光を、妄想だなんて笑ったりしないで。
怖いんだ。
怖くて…。
ただ、とても怖いんだ。
君を愛しすぎて、傷つけてしまうかもしれない自分が。
傷つけてしまったもう一人の映画の中の自分が。
許せないから。
さよならを君に。
ラストメッセージを君に。
君の好きな甘い香りと一緒に。
臆病だった恋と、切なすぎた愛の記憶を君に。
忘れられない、美しいぼくの記憶を君に。
ラストメッセージ』
エンドロールが流れる。
そこには、あの小さなお菓子の家が映る。
脇から裏庭に入り、生い茂る雑草の奥の、大きな木の根元が映し出される。
そこには
愛し合っていた二人の名前がぼんやりと映る。
次第に、フォーカスが定まり、名前が浮かび上がる。
これ…
どういうこと?
この名前は…、誰の名前?
この記憶は…誰のもの?
激しい頭痛が体を襲った。
並木道…。
最後の彼の言葉。
『君を殺した記憶』
そういうことだったの?
そういうことだったんだ。
すべてを思い出せた。
アタシも彼も、知らなかった本当の記憶が、蘇った。
誰も知らなかった本当のラストメッセージが、そこにあった。
甘く切ない歌声が、真っ黒に染められたスクリーンの中で響いていた。
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