お菓子の家

 青葉台の駅を出て、郵便局のある交差点を右手に曲がる。


 まっすぐ伸びるもえぎ野公園までの坂を登る。


 この道は結構開けていて見通しがいい。


 そしてまた下り坂になる。


 その手前の曲がり角を左に曲がる。


 駅前は割とお店などがあり、栄えているが、少し歩くと閑静な住宅街が広がる。


 東京方面に出るにもそれなりに便利なこのあたりは、横浜でもベッドタウンといった様相だ。


 そんな住宅街の片隅に、『お菓子の家』はある。


 目印は小さな風見鶏。


 白い小さな家の周りには、赤いレンガの壁が続き、ちょっとした外国の小さな家を想像させる。


 現在は誰も住んでいないのか、ガランとしていて、綺麗にガーデニングをされていた当時の印象はカケラもなかった。


 小さな家だとの自覚はあったが、まさかこんなにこじんまりとした家だったとは、思わなかった。


 懐かしさとともに、いろいろな思い出が思い出される。


 隣に立つ、彼女の顔を見る。


 彼女はその目の前の家の細部まで見渡している。


「ここだね」


 そう独り言のように呟いてうなづく。


 この辺で風見鶏なんていう珍しい装飾のついている家は、ぼくはここしか知らない。


 店の脇には茶色い小さな玄関がついていて、ここから出入りするのだ。


 そして、反対側の脇からは、裏にある小さな庭にたどり着くことが出来る。


 賃貸だったんだなと今更思う。


 今更ながら、ここが『お菓子の家』とみなに呼ばれていた理由が少しずつ分かってきた。


 ぼくたちが住む前から、ここはケーキ屋さんだったのだ。


「この辺に、住んでたの?」


 彼女は思い出したようにぼくに向かって聞いてきた。


 まだぼうっとしている表情をしていた。


 思い出しかけたたくさんの記憶を、頭の中で繰り返し眺めているようだった。


 ぼくが、何故この家を知っているのか、そんなことよりも、彼女の意識は谷川紫音の記憶を取り戻すことに向いているような気がした。


 いったい、どうしてこんな偶然があるのか、ぼくには分からなかった。


 まさか、谷川紫音の住んでいた家が、ぼくの住んでいた家だなんて、とても信じられない。


 そんな話、一度も聞いたことがない。


『お菓子の家には、魔女が住んでるらしいぜ』


 幼いころに同級生の男の子に言われたことがある。


 ぼくは、なんて子供じみた発想なんだろうと思った。


 しかし、その時に担任の先生が、その子を厳しい表情で叱りつけたことを覚えている。


 あれは、いったいどういう意味だったのだろう。


「誰も、住んでないみたいだね」


「不動産屋に、聞いてみよう」

 ぼくはそこに貼られていた不動産屋の貼り紙を指差した。


「うん」


「今日は、もう遅くなっちゃったから、また出直そうか。ぼくが調べておくから」


「うん…。中に、入りたいな。ずいぶん汚くなっちゃったけど、すごく懐かしい」


「…うん」


「ここに、青い帽子を被った彼が、レンガの壁にもたれかかって立ってる」


「え…、ここ…に?」


「うん。別れたいって言ったんだ、アタシ。もう会わないって」


 その場所は、いつも父が、母の死んだあと、ガランとした店舗を立ち尽くして眺めていた場所だった。


 その姿に、ぼくは何とも言葉をかけることは出来なかった。


 泣いていたワケじゃない。


 ただ、ぼうっと、そこにずっと立って眺めていたのだ。


 母が亡くなったあとに、父はずいぶんと親戚から罵声を浴びていたことを覚えている。


「人殺し」


 何度もそう言われていた。


 そして母さんのお母さんは、ぼくを引き取ると何度も言いにきた。


 父は何も言わなかった。


 しかしぼくは、それを断った。


 確かに、母が死んだのは、きっと父のせいなんだろうと分かっていた。


 父さんは、けしていい父親ではなかった。


 よく、母さんの泣き叫ぶ声を聞いた。


 その度に、父は母に手を振り上げた。


 母は、もともと精神的に不安定な部分が多く、いつも薬がないと眠れなかった。


 そのため、一度泣き出すと、止まらずに泣き続けることがあった。


 それでもやはり、殴りつけて黙らせるのは、違うと思っていた。


 違うと思ってはいたが、ぼくにはどうしようもなかった。


 ただとても恐ろしくて、自分の部屋に閉じこもるばかりだった。


『そんなに死にたいなら、俺が殺してやる』


 その父の声を聞くと、本当に体から血の気が引いてゆくのが分かった。


 扉を開けて、父と母の部屋の入り口に立ち、『お父さん、もう止めて』と繰り返しつぶやくことしか出来なかった。


 それは止めたわけじゃない。


 母をかばったわけでもない。


 ただの、懇願に過ぎない言葉だと、よく分かっていた。


 だからぼくは、父を責めたり出来なかった。


 母さんが死んだのは、お前のせいだと言うことは出来なかった。


 泣きわめく母さんに、何もしてやれなかったぼくは、母さんを殴りつける父の痛みが、分からないでもなかったのだ。


 どうして母さんは、あんなにも、泣いていたのだろう。


 父さんは、母さんを愛していたはずなのに。


 そうでは、なかったのか…。


 バラバラと空を舞う疑問は、次第に吸い寄せられるように繋がってゆく。


 もやもやとした霧が形になり、大きな疑惑となる。




 あの映画のビデオは、借りてきたものじゃない。


 父の部屋の隅にあったものだ。


 父の、持っていた映画なのだ。


 父は、けして映画好きではない。




 何故、あのとき、あそこに、あの映画があったのか?


 何故、ぼくたちは、この家に住んでいたのか。


 何故、父はあの壁にもたれて、店舗を眺めていたのか。


 それは…


 父が、谷川紫音を殺した、その男だったから。


 そうではないのか?


 父が、谷川紫音のいなくなったこの家に、住んでいたからではないのか?


 父の愛する人が、別の女性だったからではないのか?


 言葉にはならなかった。


 とても、この疑問を彼女に打ち明ける気にはなれなかった。


 むしろ、それが真実なら、そんな真実は、到底受け入れらるるものでは無かった。


 ぼくたちは東京に戻ったが、最後まで、彼女とはうまく話せなかった。


 母が死んだことを、それが自殺だったことを、誰にも打ち明けられずに生きてきた。


 同情されるのもいやだったし、自分自身も受け入れられなかった。


 誰にも、とても理解してもらえない。


 分かると言われたところで、分かるわけなんてないと拒絶してしまいそうで怖かった。


 そのことから、ずっと目を、そらして生きてきた。


 ただ自分は、生きなければいけないんだと、なんとか生きて行かなければいけないんだと、そう暗示のように繰り返して、繰り返して、忘れようと、していた。


 逃げられは、しないのに。


 ぼくはそんなに、強くないのに。


 それから、彼女から連絡があっても、電話に出ることはなかった。


 どうしたらいいのか分からず、ただ撮り貯めた映画の編集を続けた。


 何日かそうやって外にも出ないで過ごした。


 幸いバイトは、このコンペのためにしばらく休むことにしていた。


 ケータイの電源は、もう切ったままだった。


 いつもの姿勢でパソコンの画面を見つめていた。


 そこには彼女の笑顔があった。


 玄関のチャイムが鳴る。


 誰だろう…。


 もし彼女だったとして、ぼくは…いったい何を話せばいい。


 こうしていても仕方がない。


 まだ、コンペの作品も全てのシーンを撮り終えていないのだから。


 ぼくは、ゆっくりと立ち上がり、玄関の前に立った。


 今更、どんな顔をして会えばいい?


 鍵を回して、扉を開く。


「おい桜井。お前大丈夫か?」


 今西が手に大きなビニール袋を下げて立っていた。


「久々に、飲もうぜ」


 そのビニール袋を上にかかげた。


「って余計なやつもいんだけどさ」


「桜井くん。学校サボって抜け駆けはよろしくなくってよ?」


 上原…千佳だった。


 同じ学科の女の子だ。


 ぼく自体はあまり話したことはないが、今西は結構この子と仲が良かった。


 彼女の作品も、実に独創的で、ぼくも嫌いではなかった。


「抜け駆けって…」


「入り口で立ち話もなんだし、勝手にあがるからー」


 上原千佳はそのまま強引にうちの中にあがりこんできた。


「なんだ。やっぱりコンペの作ってんじゃん」


「うん…まぁね」


「なんだよ。浮かない顔して。まさか学校行きたくないってわけじゃねーんだろ?」


 ぼくは、何も答えられなかった。


 きっと二人はぼくのことを心配して来てくれたに違いなかった。


 普通の大学とは違い、美大なんかは、途中で来なくなったり辞めてしまったりする人間が結構いた。


 自分の才能の限界と、自分より遥かに才能に溢れた仲間に圧倒されてしまうのだ。


「学校に行きたくないんじゃなくて…外に、出る気がしなくて」


「まぁ飲もうよ。ノートコピって来てあげたからさ」

 上原さんは束のルーズリーフを机の上に置いた。


「なんか…ごめんね」


「まぁ、飲もうぜ」


 3人でコンペの進捗具合や最近見た映画、どのアーティストのPVが面白かったなどと話しながら、久しぶりにお酒を飲んだ。


 途中でテンションの上がりすぎた上原さんは、部屋の隅で寝転がったまま眠ってしまった。


「お前さぁ…なんか、あった?」


 今西がテレビを眺めながら聞いてきた。


「原因…って、そのコ?」


 隅に押しやったパソコンの画面を指差す。


「原因って、ほどのことじゃないよ」


「お前さ、ひどい顔してるよ。ちゃんと飯食ってんの? ケータイまでオフってさ、何かないって言う方がおかしいだろ」


「彼女の、せいじゃないんだ…。彼女の、せいじゃなくて…。ぼくのせいなんだ」


「上原、お前のこと心配してたよ」


「そう…」


「そんなギャルっぽいの止めとけよ」


「ギャルって…。そんなんじゃないよ。彼女」


「なんつーの、まぁ美大にはいないタイプの女子だよな」


「まぁ、うん。そうだね」


「上原…さ、結構いいやつだよ。こんなんだけど」


「うん。そう思う」


「あーなんか、お前見てると、もやっとすんだよなぁ。保護者になった気分だよ」

 今西は、またビールを飲み干した。


「ごめん…ね」


「俺、帰るわ。明日バイトだし」


「え…? 上原さん…どうすんの?」


「どうするもこうするも、泊めてやれよ。こんな状態なんだし」


「そんな…無理だよ」


「無理って、別に寝かしとくだけだろ?」


「そうだけど…、上原さんが起きたらビックリするだろ?」


「ビックリしねーよ。お前に襲われるなんて、誰も思わないから」


「そういうことじゃなくて…」


「じゃーなー。上原ヨロシクー」


「ちょ…」


 パタンと大きな音を立てて、今西は出て行ってしまった。


 困ったことになったな。


 上原さんに毛布を掛けて、ぼくは部屋の反対側に足を折り曲げて座った。


 左手にあるパソコンを見つめる。


 正直、上原さんは個性的でオシャレだし、素敵な女性だ。


 だけど、そういうことじゃない。


 誰かがダメなら他の誰かなんてことは、ぼくには出来ない。


 パソコンの動画再生ボタンを押す。


「笑って」


「おかしくないのに笑えないー」


 一時停止を押す。


 彼女に、会いたいと思う自分がいる。


 そばにいたいと思う自分がいる。


 でもきっと、彼女にとってぼくは、友人以上の何かではない。


 彼女に、会うのが怖い。


 彼女に、嘘は、つけない。


 あれから、同級生に話を聞いた。


 あの家に、谷川紫音が住んでいたことは、間違いない事実だった。


 そして…父さんが、その後に、一人で住んでいたことも…。


 事実だった。


 あんな事件のあったすぐあとに、入居した人間がいたので、近所の人間は、よく覚えていたらしい。


 彼女の熱烈なファンじゃないかとの噂もあったそうだ。


 彼女が誰か男に付きまとわれていたということは、近所では有名な話だったらしい。


 そして、そのことで彼女が悩んでいることも、よく知られていた。


 ぼくの疑問は…、鮮明な輪郭を持ち始めていた。


 そしてこれを、どうやって消化したらいいのか、分からなかった。


 そうやって、ぼくは夢の中へまどろんで行った。



 あったかい。


 毛布がかけられてあった。


 上原さんは、ノートに何か書きながら、おにぎりを頬張っていた。


「おはよう」

 声をかけてみる。


「あ、おはよー。昨日はごめんねー。すっかり酔っ払っちゃって」


「今西は、バイトだって」


「うん。そっか。朝ご飯買ってきたから、食べなよ」


「うん。…ありがと。何してるの?」


「うん。コンペの絵コンテ。描き直してる」


「学校は?」


「うん。今日は午後のやつしか取ってないから大丈夫」


「なんか…。ごめんね」


「何が?」


「何がって…なんか心配かけちゃって…さ」


「そんなこと、謝ることじゃないし」


 彼女はようやく顔をあげた。


「じゃあ、私も帰るね。学校、ちゃんときなよ。来た方が気が紛れることだってあるし」


「うん。そうする」


「私…好きだよ」


「え?」


「桜井くんの撮る映像」

 一瞬、早とちりしてしまった自分が恥ずかしくて、ぎこちない笑顔を作った。


「あ、うん」


「諦めたりしちゃダメだって思ってる」


「うん。ありがと」


 机を挟んで見つめ合っていた。


 彼女の言いたいことが、胸に染みた。


「送ってくよ。駅まで」


「当たり前じゃん! 行き方分かんないし」


 上原さんは、笑顔を見せた。


 その明るさが、本当に、嬉しかった。


「うん。行こう」


 ぼくたちは、手早く準備して、二人で玄関を出た。


 外はだいぶ春らしくなり、暖かかった。


「あのコンペの女の子って、もしかして、彼女?」


 アパートの階段を降りながら、上原さんは聞いてきた。


「そんなんじゃないよ」


 ぼくは、笑顔を作った。


「そっか。ずいぶん綺麗な人だなあ、なんて思って」


 また笑顔を作りかけたその時に、通りの向かい側に目が止まる。


 ぼくのその表情に、上原さんもそちらを見た。


「あ…あの人…」


 その視線の先にいる彼女も、時間が止まってしまったかのように、微動だにしない。


 ぼくがそちらに向かいかけると、彼女は顔を落として足早に駅の方へ向かって、歩き出した。


「待って」


 大きな声で呼びかけるが、彼女の足は止まらなかった。


「お願い、待って」


 ぼくは、ようやく彼女に追いつくと、彼女の肩を掴んだ。


「お願い。待って」


「別に、隠すこと…ないじゃん」


「違うよ。誤解だから」


「なんで? 別に桜井くんが誰と付き合おうと、アタシには関係ないし」


「だから、彼女とはそんな関係じゃないんだ」


「別にどっちだっていい。問題は、なんで無視なんかするかってことじゃん」


「どっちだって良くない。彼女とは本当に付き合ったり、そういう仲じゃないんだ」


「いい加減にしてよ。桜井くんってアタシの何? 勝手におせっかいばっかり焼いといて、彼女が出来たら、突然無視とかするような、そんなヤツだったんだ?」


「……違うよ。無視したのは…、無視した理由は…さ」


「もういいよ! 心配なんてするんじゃなかった。男なんてみんなおんなじだね。嘘つきで、冷たくて、セックス出来れば誰だっていいんじゃん」


「何言ってんの? …ぼくが、君のこと、そんな風に思ってると思うの?」


 彼女はうつむいたまま答えようとしない。


「ねぇ、答えて」


「違うの? アタシに近づいてくる男は、みんな下心しかない。別に、そんなこと、慣れてるし」


「ぼくが君に、嘘ついたことなんて一度だってないよ。確かに、ミヨリさんはモテるんだろうけど、他の男と一緒にしないでよ」

 思わず声が大きくなり、まるで怒っているような口調で彼女の肩を握りしめていた。


「アンタ何様? 人の心の中までズカズカ入り込んできて、いい加減にしてよ」


 彼女は、ぼくの手を振り払った。


 彼女の手に持っていた紙袋が落ちて、いびつな音をたてる。


 袋からは、甘い匂いが漂った。


 彼女は、泣いていた。


 目を真っ赤に晴らして、涙をこらえていた。


 傷ついている。


 そう思った。


「無視…したのはさ、嘘を、つきたくなかったからなんだ…。あんなこと、話したくなかったからなんだ…。父さんのこと、話したくなかったからなんだ」


「え…?」


 彼女は、長いまつげを揺らして、こちらを見つめた。


「父さん…なんだ。父さんなんだ。谷川紫音を殺したのは、きっと父さんなんだ…よ」


「何言ってるの?」


「間違いない。あの家、谷川紫音が死んだすぐあとに、父さんが一人で住んでたんだ。それで、しばらく経ってから、母さんが引っ越して来たみたいなんだ。だから、偶然なんかじゃないんだよ」

 ぼくは張り裂けそうな気持ちをぶつけるように声を荒げて叫んだ。


 そして最後に、声を落として告げなければならないことを彼女に伝えた。


「あの映画も、父さんが持ってたものなんだ」


「何それ…」


「あの家、ぼくが小さい時に、住んでた家なんだ」


「うそ…」


「嘘じゃない。だから、だから君は、ぼくを見て、思い出したんだよ。彼女がぼくの中に、ぼくの父さんを見つけたんだ」


「思い…出したことが、あるの…。思い出したことがあって、それで、それを、伝えに来たの…」


「何?」


「でも…もう、いい」


 ひどく悲しい表情をしていた。


 それは、ぼくかもしれないし、彼女かもしれなかった。


「アタシは…、誰が彼女を殺したのか知りたかったわけじゃない。

 それを知って、その犯人にたどり着きたかったわけじゃない。


 彼女が死ぬ前に、何を思って、どんなことを誰に伝えたかったか、知りたかっただけなの。

 誰かを傷つけたり、誰かを責めたり、したかったわけじゃない。


 もう、誰も責めたりしないで、誰かを許してあげられる人になりたかっただけなの」


「自分でも、分からないんだ。ぼくがそれを知りたいのか、そうじゃないのか…。どこかでそうじゃないって思ってる」


 ぼくは、地面に転がる紙袋を拾い上げた。


 中からは、懐かしい生クリームの甘い香りがたちこめた。


「…何を、思い出したの?」


「きっと、それを調べたら、彼女を殺した人が誰なのか、分かっちゃう…と、思う」


 彼女のその言葉に、正直、迷っていた。


 父さんだったと、思いたくない。


 恋人を殺して、平気な顔で人生を送っていただなんて、思いたくない。


 だけど、父さんは限りなく黒に近かった。


 そして、その疑いの思いは、一生消えないと思った。


 時間を重ねるごとに、その心に生まれた黒い淀みが粘着性を帯びて、自分の体の中に広がってゆくのが分かった。



 消えることはない。


 けして消え去ることはない。



「教えて」


 それでも彼女は押し黙ったままだった。


「いいよ。教えて」


「名前を…書いたの。庭の、隅にある木の根元に二人の名前を、彫った」


「…うん。分かった」


「分かったって、どうするの?」


「それは、ぼくが決めるから。ぼくが、決めたいんだ」


「うん…」


「うち、上がってかない?」


「え…?」


「キャラメルのシロップ、買ってあるんだ。一緒に、これ、食べよう…か」


「もう、きっとめちゃくちゃだよ」


「形は崩れても、味はきっと変わらないよ」


「ごめん…、ヒドいこと、言ったね」


「ううん。その前に、友達を駅まで送ってかないと。待ってて。

 学校に来ないから、心配して来てくれたんだ。それで、なんていうか、その…昨日はもう一人…男の子もいたんだ。別に、ミヨリさんには…関係ないことかも、しれないんだけど…」


 彼女の表情を見つめていた。


 彼女が、ぼくのことをなんて思っているのかなんて、分からない。


 だけど…


 ぼくの気持ちは、彼女に伝わってしまったかもしれないと、思っていた。


「うん。ごめんね」


 彼女は、ぼくの左手を掴んだ。


 掴んだというよりは、もっと自然に、手を、繋いでいた。


 彼女が歩き出すのと一緒に、ぼくも歩き出した。


 あったかくて、柔らかい、小さな手だった。


 手を繋いだ温もりを、ずっと離したくなかった。


 彼女の一番近い隣で、笑っていたい。


 笑顔を、作っていきたい。


 そう願っても、いい?


 未来は、どうなるかなんて、分からないけど…。


 彼女を大切に、してあげたかった。


 そしてこの願いが消えてしまわないように、今はいない母に祈った。



 アパートの前に戻ると、上原さんの姿はなかった。


 ケータイを開くと1通のメールが届いていた。


『Break A Leg!』


 上原さんからのメールだった。


 Break A Leg


 それは、去年の課題でぼくが作った作品のタイトルだった。


 Break A Leg


 幸運を祈る


 そういう意味の、英語だった。


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