お菓子の家
ブライアン・L・ワイス
アメリカの精神科医。
彼の書いた著書『前世療法』。
精神科医であるワイスは、治療として患者のトラウマの原因となった過去の出来事を見いだす治療として、催眠療法を行っていた。
そして、その過程で、退行催眠を進めると、患者の生まれる前の別の人間の記憶が蘇るという事例に直面した。
長い間、精神科医として、このような事例に直面し、現在患者の抱えているトラウマや精神疾患が、その別の人間の記憶に起因しているであろう事例に遭遇したのだ。
ワイスは、この記憶の歴史的な正確さと、患者自身が知り得ない情報を含む発言について、考察を重ねた。
彼の出した結論は、この記憶は前世の記憶ではないかというものだった。
そして、この著書の出版により、一大前世ブームが到来した。
しかし現在、前世療法を行う施術者や施設は、病院や医院ではなく、オカルトや占いまがいの施設が主流である。
医学的な見地から、前世などという不確かなものにアプローチするには、事例が少なすぎるということだ。
実際、ぼくはこの記事を見つけ、インターネットで検索をしてみたが、どれも信憑性には欠け、あるいは詐欺まがいと思われるものが多く存在した。
体験者も、実際に前世の記憶を体験したものはほとんどいないようだった。
そして、半ば諦めようかと思っていた時、テレビで紹介された前世療法を行っている人を見つけた。
彼女の前世療法では、かなり高い確率で前世が見えるのだという。
だけど、本当に彼女を連れて行って大丈夫なんだろうか?
ぼくは、その施設に電話をかけてみることにした。
その先生は、予約がいっぱいで予約は取れないとのことだった。
ぼくは、聞かれるままに彼女の抱えている問題を話した。
彼女の置かれている状態は、切迫してる。
ぼくはそう思っていた。
彼女の自殺衝動と彼女の記憶は、何か関係があるのかもしれない。
少しでも、何か彼女の心配ごとを減らさなければ、いけないのではないか。
そう考えていた。
電話に出た女性は、その話に真剣に耳を傾けてくれた。
『ちょっと、心配ですね』
そう答えると、その先生は無理だけど、他の先生であれはすぐに予約を取ることは出来ると言ってくれた。
医療行為でないだけに、料金は安くない。
迷いはあった。
催眠だなんて、危険ではないのか。
もし本当に、彼女がなんらかの記憶を思い出したとして、逆に彼女を苦しめることにならないのか。
それから、彼女にはこのことを話すのは止めようと決めた。
彼女が望んでいないのに、そんな危ないマネはさせられない。
なにしろ、本当に前世だなんてものが存在するのか、自分でもよく分からなかった。
そして1週間が経ち、彼女から電話があった。
『私、調べてみようと思う』
彼女はそう言った。
その言葉を聞いて、ぼくの心の中につかえていたものも、彼女に打ち明けた。
前世なのではないか?
だけど、これは、ぼく自身がそうであって欲しいと願っているだけなんじゃないかと、思えていた。
自分が幼いころの初恋を、彼女に重ねているだけ。
そうなのかも知れない。
母さんが死んだあと、母さんの夢をぼくはよく見た。
学校から帰ると、母さんが、笑顔で迎えてくれる。
甘い匂いが家の中に漂う。
自宅の1階は、店舗になっていて、そこで母さんはケーキ屋を開いていた。
小さな小さな店。
母さんはいつもと変わらず、ケーキをぼくに差し出す。
「昨日の残りよ」
幸せに包まれる。
そこで、いつも目が覚めた。
そして、目が覚めると、母さんはいなかった。
死んでしまった人は、2度と帰ってこない。
どんなに、その姿形を鮮明に思い出すことが出来ても、絶対に2度と帰ってこない。
そして、その事実を受け入れることは、簡単じゃない。
どこかで生きている。
そう思えて仕方がない。
どこか、遠くに行ってしまっただけ、そう思えて仕方ない。
でも、本当に、もうどこにも母さんはいない。
それを、よく分かっている。
だから、誰かが死んで、誰かに生まれ変わるだなんて、信じたくない。
そんな風に、すべてを片付けて欲しくなかった。
でも…
その死の本当の理由を、知ることが出来るなら、それに意味はないのか。
自殺だなんて、思いたくない。
母さんが、ぼくを置いて行ってしまっただなんて、ぼくは思いたくない。
そう思ってる人が、そうやって苦しんだ人が、どこかにいるかもしれない。
春の桜が舞っていた。
そろそろ、桜も散り落ちてゆくだろう。
花の命はとても短い。
なんでこんなにきれいなのに、こんなに早く散って行かなきゃいけないんだろう。
ずっと、その花を見つめていたいのに。
それは、叶わない。
桜並木の真ん中に、少女が佇む、何パターンも、気が済むまでカメラを回す。
そして春の風に、桜が舞う。
合成では描けない、春の色。
春の空。
今、この瞬間の色は、どんな天才でも、どんなに技術が発達しても、2度と同じ色を再現することは出来ない。
それは、ぼくの記憶と、このカメラしか、記憶出来ない色。
それ以外の誰だって、再現出来ない瞬間。
その瞬間、その瞬間に、奇跡が生まれる。
「ミヨリさん、笑って」
遠くにいる彼女に呼びかける。
「え、どのシーン?」
「いいんだ。どのシーンでもない。どのシーンでもないシーン」
「なにそれ」
彼女は、笑顔を浮かべる。
本当は、彼女は笑顔が一番似合う。
彼女の泣き顔を何度も見た。
寂しそうに何かを見つめる横顔を何度も見た。
だけど、彼女は笑顔が一番美しい。
「もっと、笑って」
「おかしくないのに笑えないー」
遠くから彼女が大きな声で返事をする。
「笑ってるじゃん」
「笑ってるよ。桜井くんがおかしいから」
「中井美夜里は、笑顔が一番似合う女優だって、言わせてみせるよ」
「なにそれ。キザっぽい」
「なんとでも言って」
ぼくはカメラ越しに笑った。
笑顔が一番似合う。
こんなこと、確かにキザっぽい。
自分らしくない。
きっと昔だったら言えてなかった。
いや、きっと他の誰かじゃ言えてなかった。
彼女じゃなきゃ言えてなかった。
でもこれは、言えない。
君がぼくにとって特別だとは、まだずっと言えそうにない。
まだ、ぼくたちの未来は、映画になるにはずっと早かった。
「もしさ、最終選考に残ったら、ミヨリさんに話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」
「うん。またここで、会えないかな?」
「そんな先の約束、出来るわけないじゃん」
「いいんだ。約束じゃないから」
「なにそれ」
約束じゃないんだ。
最終選考に残ったら、勇気と自信を持って、彼女を誘おう。
秋になって落ち葉が舞ったら、
ぼくに、
最高の勇気を、
ください。
彼女は、暗い部屋のベッドに横たわり、目を閉じている。
ここは、思ったより、オカルト的な場所ではない。
どちらかと言うと、病院の診察室のような印象だった。
雰囲気づくりのためか、微かにアロマの香りが漂い、インテリア的にタロットカードが配されていた。
しかし、それさえも、病院にかけられた人体イラストのようにさっぱりとした事務的な印象を与えていた。
前回ぼくが一人で来た時にも、対応してくれた女性が彼女の脇に座っていた。
ミヨリさんを連れてくる前に、一度自分でも試しに来た。
その時は、前世なんてものは見えなかった。
しかし、おぼろげになった母の笑顔をはっきりと思い出すことが出来た。
3人で暮らしていた、あの小さな家までの道を、はっきりと思い出すことが出来た。
ぼくは、それだけで、十分にこの施設のあり方に、納得が出来た。
催眠療法を終えたぼくは、心の中に何かつかえていたものが取れたような気持ちになっていた。
思い出さないようにしてきたものは、思い出さないでおこうとする度に、自分の中で黒く、悲しく変色した思い出になっていた。
本当は、美しいはずの思い出だったのに。
思い出したく、なかった。
その美しい思い出を思い出してしまえば、何かを認めることになってしまうような気がしていた。
思い出の中の人は、もういない、そう認めてしまうようで、怖かった。
「リラックスしてくださいね」
施設の女性が、ミヨリさんに言った。
ミヨリさんは、ここに入る前、幾分か緊張しているようだった。
『なんか…ちょっと怖いな』
『やめてもいいんだよ』
『ううん。やりたい』
『うん。大丈夫。ぼくがそばにいるから、心配いらない』
彼女はうなづいた。
そうは言ったが、ぼく自身、彼女が心配だった。
むしろ、何も見えない方がいいんじゃないかと、思っていた。
そして、催眠療法は始まった。
見ているだけだと、どこが催眠なのかは分からない。
たまにカウントなどをしたりするが、その女性がただ質問をいくつかしているだけだ。
しかし、確実になにかに吸い込まれていく不思議な感覚を覚える。
声のトーンなのか、それとも何かもっと違うものなのか、全く分からない。
夢の中に引き込まれるような不思議な感覚。
「あなたは、今何歳ですか?」
「5歳…です」
「何をしてますか?」
「お兄ちゃんと、絵を描いて遊んでいます」
「楽しい?」
「はい。すごく、幸せです」
「じゃあ、もう少し時間をさかのぼって見ましょうか? あなたは、もっとずっと前の、お母さんのお腹の中にいます。暗くて温かい場所です。
そして、その前までずーっとさかのぼって行きます。
何が見えますか?」
「…台所に立ってます」
「誰の家の?」
「自分の家です」
「あなたは結婚してますか?」
「いえ、結婚してません」
「誰と住んでますか?」
「母親と、住んでます」
「あなたは、女性ですか?男性ですか?」
「女性です」
「あなたはいくつですか?」
「18歳です」
「あなたは台所で何をしてるのかしら?」
「紅茶を、入れるところです」
「そう。他に周りに人はいますか?」
「いえ、一人です。今度の映画の…台本を読まないといけないので」
「映画? 映画の仕事をしてるの?」
「はい」
「どんな仕事をしてるんですか?」
「女優です。演技をする仕事をしてます」
「あなたの名前は、なんですか?」
「紫音…です」
「シオン? どこの国の人だか分かりますか?」
「日本人です。日本の女優です」
「あ…そうなんですね。日本のどこに住んでるんでしょう?」
「あ、お…ば…、青葉台です」
「青葉台? 何県かしら?」
「神奈川です」
「そう。どんなおうちかしら?」
「新しい一軒家です。母が、1階でお店をやっています」
「お店?」
「はい。ケーキ屋です」
「どんな家?」
ぼくは、とっさに彼女に聞き返した。
催眠療法をしていた女性が驚いてこちらを見る。
「ちょっと…困ります」
小声でぼくに向かって言った。
「どんな…。どんな家って普通の…。あ、風見鶏が、ついてた…かな。お母さんが、洋風の家にしたいって言って」
「白くて、レンガの壁がある家だね?」
ぼくは女性が制止するのも構わず、無我夢中で聞き返していた。
「ちょっと! 困ります。今、施術中なんですよ!」
女性は、ぼくの方に振り向いて厳しい顔で言った。
「お菓子の家だ」
「え?」
「それは、お菓子の家です」
そう言うと、ぼくは目を閉じている彼女を見つめた。
ミヨリさんは、そのままゆっくりと目を開いた。
「付き合ってる人がいた。その人に、殺されたのよ」
「ちょっと、大丈夫ですか?」
施設の女性が割って入る。
「はい。大丈夫です」
彼女は、起き上がってそれに答えた。
「施術中には話しかけたりしないように、お願いしたじゃないですか」
施設の女性は、心配そうに彼女を見た。
「すみません」
「場所…分かるの?」
彼女は、まっすぐにぼくの瞳を捉えた。
「うん。分かる」
「行こう」
「うん…」
施設の女性は、何が何やら分からないといった表情だった。
ぼくと彼女は、そのままその施設を出て、『お菓子の家』に向かった――。
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