ヘンゼルとグレーテル

 満開の桜が、きれいだった。


 4月に入り、少しずつ暖かくなっていた。


 久しぶりに見た兄は、また少し痩せていて、ちゃんと食事が取れているのか心配になった。


「美夜里、綺麗になったね」


 兄はそんなことを言った。


「お兄ちゃん…今、仕事は?」


「うん。建築関係の仕事してる」


「デザインは…もうしないの?」


「うん。あれは学生だったから、好きなことやってただけだよ」


「手…大丈夫なの?」


「そんなこと、美夜里は気にしなくていいから」


 アタシの頭に手を置いた。


「今はデザインもコンピューターが使えれば、充分に出来る。大学辞めたことは、怪我のこととはなんの関係もないよ」


「お兄ちゃん…、お兄ちゃんは、なんでそんなに、優しいの?」


「優しくないよ」


 兄は、立ち止まり、手に持っていた水桶を置いた。


 反対の手に持っていた花束を、その墓に飾る。


 白いカサブランカ。


 お母さんの好きな花だ。


「誰かに優しくしてないと、傷つけそうで怖いんだ。自分の価値が分からなくて、誰かのせいにしたくなって、怖くてたまらなくなる」


 兄は、そう言うと、静かに目を閉じて、手を合わせた。


 兄の横顔。


 いつも見つめていた、その優しい横顔。


「だから、誰も否定しない。人を許して生きる方が、人を許せないまま生きるよりも、ずっと楽になれる」


 兄は、静かに目を開いた。


「美夜里、もう許してやって欲しいんだ。美夜里自身のことを」


 遠くには子供の手を引く家族の姿が見えた。


「父さんや、母さんのことを」


 涙が頬を伝った。


「アタシは…、アタシは…許せない。いつだって、許せない。お父さんも、お母さんも、アタシ自身も許せない。

 誰かを傷つけたまま平気な顔で、笑ってられない。

 お兄ちゃんが、許しても、お兄ちゃんが違うって言っても、お兄ちゃんの手がうまく動かなくなったことも、お兄ちゃんの人生にお兄ちゃんのお父さんがいなくなったことも、全部許せない。

 お父さんがアタシに言ったことも、お父さんが呆気なく死んだことも、お父さんの葬式の喪主が知らない人だってことも、こんな自分も、許せない」


 体の底から、言葉にならない感情が渦を巻くように、溢れていた。


 体に火が灯ったように、熱く激しく、燃え盛っていた。


 兄がアタシの体を抱き止める。


 体からは、力が抜け落ちて、膝から崩れ落ちた。


「お父さんが、アタシたちの家族じゃないなんて、認めたくなかった。

 お父さんに、望まれてない子供だったなんて思いたくなかった。

 アタシたちが、家族じゃないなんて、認めたくなかった。


 認めたくなかった」


「美夜里…もういんだよ。もう、…いいんだ。誰も責めなくて、いいんだ。

 自分を否定したまま生きていくことなんて、誰にも出来ない」


 兄は、あったかかった。


 いつも、そうだったように、いつも、そうしてくれたように。


 柔らかくて、あったかかった。


「父さんは、美夜里が思ってるほど、冷たい人間でも、悪い人でもないよ。ただ、美夜里と同じように、自分の気持ちをうまく言葉に出来ない人なんだ。

 だから、父さんが本当はどう思ってたかなんて、俺にも分からない。

 父さんが、最後に何を思ってたのかなんて、父さんにしか分からない。


 だけどね、……父さんが美夜里に残したものがあるんだ」


 兄は、1枚の写真を私に差し出した。


 そこには、スーツを着て、赤ん坊を抱えて笑う、若い父の姿があった。


「これ、父さんの使ってた財布に、入ってたんだって。美夜里に渡して欲しいって、頼まれたんだ」


『美夜里 お宮参りにて』


「父さんが最後に美夜里に言いたかったこと、分かってあげられるのは、美夜里だけだ」


「お兄ちゃん…、お兄ちゃん…。こんなの、こんなの、…ないよ。今さらこんなの。もう…遅いよ」


 涙が枯れるほどに泣いた。


 その写真の端は擦り切れて、丸みを帯びていた。


 その年月を、体で感じる。


 お父さん…


 お父さんは、ベッドの上で、最後に何を思ったの?


 どんなことを、思い出したの?


 それはきっと、もう永遠に分かることはない。


 もう真実は、お父さんしか、知らないことだった。


 人の死には、何か意味がある。


 何か、最後に、言いたかったことがある。


 それを告げられないまま、死んでゆくのは、どんなに悲しかったことだろう。


 誤解されたまま、言いたいことを言えずに死んでゆくのは、どんなに寂しかっただろう。


 アタシの心には、また彼女の記憶がよぎった。


 言葉にならない悲しみ。


 その意味を、見つけてあげたい。


 彼女の言いたかったこと、それを分かってあげれるのは、きっとアタシだけだった。


 これが真実なら、その真実を確かめたい。



 父を死ぬまで理解出来なかった自分。


 今もきっと、そのすべてを理解なんて出来ていない。


 だけど、アタシは探してあげたかった。


 最後に、誰かが死を迎える時に、思っていた大切なことを、見つけてあげたい。


 今のアタシに出来ることは、そのくらいしかないんだと、思えてしかたなかった。


 アタシは、その写真を胸に、墓地をあとにした。


 兄と別れる時には、笑顔で手を振ることが出来た。


「お兄ちゃん、またね」


 兄も笑っていた。


 その右手を上げて、手を振っていた。


 ようやく自分に、何かが見え始めていた。


 前を向いて歩こう。


 つまづいて、苦しくて、もうダメだと思っても、前を向いて歩こう。


 桜がきれいだった。


 そこに桜が植わっていたなんて気づかなかった場所にも、桜は咲いていた。


 彼の顔を思い出す。


 アタシはケータイを開き彼に電話をかけた。


「どうしたの?」


「うん。やっぱり、調べてみようと思って」


「谷川…紫音の、こと?」


「うん。もしかしたら、彼女がアタシに、伝えたいことが、あるんじゃないかって、そんな気がするの」


「…うん。一人で、調べるつもり?」


「うん」


「あの…さ、良かったら、ぼくも一緒にやらせてくれないかな? やっぱり、気になるんだ。ミヨリさんの言ったことが、気になって、調べてみたんだ。


 それで…、もしかしたら、その記憶って…」


「何?」


「うん。…ミヨリさんの、前世の記憶なんじゃないかって、思うんだ」


「前世?」


「うん。そういう記録が、あるらしいんだ。生まれた時から、別の人の人生の記憶のある人が、いるみたいなんだ。それで…それは、前世の記憶なんじゃないかって、言われてる、みたいなんだ」


「彼女は、いつ、死んだの?」


「うん。22年前、映画の公開前に死んでる。もう一つ、映画があって、その作品が遺作なんだ。でも、実際に最後まで撮ってたのは、あの『木漏れ日の秋』なんだよ。

 ぼくも知らなかったんだけど、あの海のシーンが結構押して、最後の最後に撮られたものらしいんだ」


「アタシの生まれる、前だね」


「うん。これは単なるぼくの思い込みなんだけど、やっぱり彼女、何か抱えてたんじゃないかって思うんだ。

 だから、警察も自殺したんじゃないかってことに、なったんじゃないかな?」


「うん。何か、見つけて欲しいことが、あったのかも、知れないね…」


「前世があるかどうかは、分からないんだけど、精神科の催眠療法で、全く別人の記憶が蘇る人が、いるらしいんだ。その理由は、まだ、よく分かってないみたい。

 それで、すべてを思い出すことが出来たら、谷川紫音が、本当に殺されたのかも、分かる気がするんだ」


「うん」


「…ちょっと、簡単には信じられない話…だよね?」


「ううん。やってみたい。信じられないなんて、思うわけない。アタシが一番、信じたいの」


「うん。催眠療法、受けてみる?」


「うん。受けてみる」


 桜井くんは、そのまま黙ってしまった。


 何か、迷っているようでもあった。


「…苦しい記憶、かもしれないよ?」


「うん。大丈夫。一緒に来て、くれるよね?」


「うん。もちろん」


「アタシが迷ったら、また手を引っ張ってくれるよね?」


「うん。もちろん」


「なら、大丈夫」


 不思議と、笑みがこぼれた。


 もしかしたら、すごく悲しい事実や、醜い人間関係を見てしまうかもしれないと思ったけど、それでもきっと、大丈夫なんだと思った。


 たとえ、彼女を殺してしまった誰かが、まだ生きていたとしても、今は、それを許してあげられると思えた。


 彼女が伝えたかったことは、きっとそんなことじゃない。


 そこには、きっと何か、違う事実があるような気がした。


 それは、アタシと彼女にしか、けして分かることのない記憶なんだと思った――。

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