ヘンゼルとグレーテル

 いつからか、その記憶はアタシの心の中に棲みついていた。


 思い出されるのは、楽しくて素晴らしかったキラキラと光り輝いていた日々。


 断片的な記憶はけしてストーリーにはならなかった。


 それはアタシの妄想。


 こうでありたいと願う自分。


 そうなのだと思っていた。


 しかし、彼に会ってから、何度となくその記憶を思い出すようになっていた。


 特に、今までは幼い頃の記憶ばかり思い出していたのだが、彼に出会ってからというもの、大人になりつつあるその少女の記憶が、鮮明に思い出された。


 それが何故なのか分からない。


 カメラを構える彼の姿。


 自分に向けられるその黒いレンズ。


「スタート」


 この言葉をよく知っている。


 彼女は、女優だったんだ。


 そう気づくと、すべての謎が一気に解けてゆくのが分かった。


 だけど、いったいこの記憶はなんなの?


 この記憶は、いったい誰のもの?


 アタシじゃない誰かの記憶なの?


 考えてみても、分からなかった。


 妄想じみてる。


 きっと他の誰だって、こんな風に、自分の人生がまるで違っていたらどうなんだろうと思うことがあるだろう。


 そう、思っていた。


 あの話を聞くまでは。


『映画なんだよ』


 彼がそう言った時、アタシはとても信じられなかった。


 きっと似てるような話の映画なんてどこにでもある。


 でも、あの名前を聞いた時に、はっきりと自分の中で、記憶の中に浮かぶ文字が見えた。


『谷川 紫音』


 台本に刻まれたその明朝体の活字を、見たことがある。


 その漢字がきちんと自分の中でイメージできた。



 そして、あの海のシーン。


 あのシーンには、すごく思い入れがあった。


 何かすごく大事なことを考えていたような気がする。


 そして彼と別れた帰り道、自宅から最も近い大型レンタルビデオ店で、その映画を探した。


 それは意外にもすぐに見つかったのだ。


 結構古い映画としては有名なものらしかった。


 芹沢直哉の出世作なのだそうだ。


 今はもう、一流監督として有名な存在だった彼だが、昔は鳴かず飛ばずの時代もあったそうなのだ。


 そのことも、心に引っかかった。


 中学生の頃に見に行った映画を思い出した。


 あの頃、未来さえも見えなくて、自分が何者なのかも分からなかった。


 そして、あれから何年も経ち、大人と呼ばれるようになっても、何も変わってなんていなかった。


 自分の中で記憶に残る映画、それは彼の作品だった。


 自宅に戻り、プレイヤーの挿入口にそのDVDを差し込んだ。


 ところどころで、記憶に残るシーンがある。


 この紅葉のシーン。


 何故か、よく覚えてる。


 このシーンは、確か何時間もかかった。


 そして海に入るシーン。


 巻き戻して何度も見る。


 間違いない。


 このシーンだ。


 だけど…


 一つ言えることは、


 この映画を自分が見た記憶はないということだ。


 そして、おそらく、この映画よりも後の記憶もない。


 大人になって、結婚したり、子供を持ったり、おばあさんになったり、そんな記憶は一つもない。


 それは、一体何故なのか。


 一つは、やっぱり自分が幼い頃に見た映画を、おかしな形で記憶としてしまったため、それ以外の記憶は当然ない。


 というのが自然な考えだ。


 だけど、これは、今となっては絶対に違うと言い切れる。


 この記憶はそんなものじゃない。


 本当の彼女の記憶だと言い切れる。


 誰かに説明出来るようなものじゃない。


 だけど、間違いなくこの少女の記憶は自分の中にある。


『ごめんね』


 男の顔はよく見えない。


 というより、よく思い出せないという方が近い。


 体にその男の体重を感じる。


 甘い匂い。


 何の匂いだろう。


 よく知ってる匂いだ。


 首にかけられた何か紐状のものが、キツく食い込む。


 苦しい。


 でも、声にならない。


 意識が次第に遠のいてゆく。


 そこで、目に溜まっていた涙が流れ落ちる。


 そこで世界が真っ暗になった。


 深い悲しみが込み上げる。


「ごめんね、何度も同じことさせて」


 彼はまた謝っていた。


 桜井くんの、この『ごめんね』を聞いた時に、その記憶を思い出した。


 そういうことだったんだ。


 不思議と、驚きはなかった。


 薄々、彼女に何かあっただろうということを感じていた。


 だけど、まさか、殺されていただなんて…。


 思いもしなかった。


 そして、あの言葉。


「自殺、したんだよ。彼女」


 何かがおかしいと思った。


 自殺なんかじゃない。


 それは、アタシが一番よく知ってた。


 自殺する理由なんて、彼女には無かったんだから。


 彼は、心底驚いた顔を見せた。


 彼女が自殺したということが、世間で言われてることなんだと分かった。


 だけど、アタシは、そうじゃないことを知ってる。


 その夜は、そのことが気になって一睡も出来なかった。


 どうすればいい?


 アタシはどうしたいの?


 そして、目が覚めたのは夕方近かった。


 いつのまにか、眠ってたんだ…。


 ソファから重たい体を起こして、飲み物を取りに台所に向かう。


 その時、ケータイの着信音が鳴った。


 テーブルの上に置いてあったケータイに、手を伸ばし、画面を開く。


『兄』


 その文字に、心が揺れる。


 たまに、電話がかかって来ても、いつもアタシは、それに出ることはなかった。


 兄が、大学を辞めてしまってから、アタシはずっとそうやって兄を避けてきた。


 兄が大学を辞めなければいけなくなったのは、すべてアタシのせいだ。


 これ以上アタシに関わって欲しくなかった。


 兄がアタシを許していても、アタシは自分が、自分の醜さが、自分の愚かさが、許せなかった。



 着信音が止まる。


 アタシはそのケータイを見つめていた。


 これでいい。


 アタシと兄の住む世界は、もうずっと違っている。


 その時、また着信音が鳴った。


『兄』


 どうすればいいの…。


 アタシはどうすれば、いい?



 通話ボタンを押した。


 受話器を耳に当てる。


『美夜里?』


「……」


『元気にしてる?』


 懐かしい声だった。


 高校に入ってから、アタシは当時付き合っていた男の家に住むようになって、母が再婚した時に、完全に家族ではなくなった。


 もちろん、再婚相手はアタシの父ではない。


 母の籍からは抜けて、父の籍に入った。


 父は、アタシが中学生の時に、本当の家族に見捨てられた。


 そのため、父はアタシが籍に入ることに特に反対も賛成もしなかった。


 アタシのことは、どうでも良かったというのが、実際のところだろう。




 アタシは、父を恨んでいた。


 恨んでも恨みきれないほど憎んでいた。


 だけど、もう兄や母と一緒にいるつもりは無かった。


 兄や母といると、息が詰まる。


 少しずつ、自分が死んでゆくのが分かる。


 自分が、自分への嫌悪と憎悪で満たされてゆく。


 自分の愚かさに、自分という存在そのものに、何の価値も見いだせなくなる。


 そして、優しかった母への憎悪も増した。


『美夜里…。父さんの葬式、来なかっただろ?』


「…アタシが行ったってあの人は喜んだりしないし…アタシには関係ない」


『お墓参りに行こう。俺が一緒に行くから』


「行きたくない」


『父さん、美夜里のこと、心配してたよ』


「父さんだなんて、呼ばないで」


 あなたの人生を狂わせた男なんだよ…。


『美夜里、美夜里は…さ、家族ってなんだと思う?』


「そんなの…分からない」


『家族って、血が繋がってるから家族で、そうじゃなかったら他人、そういうものじゃないよ』


「血が繋がってたって家族だと思えない人間だっているよ」


『美夜里は、父さんのこと、家族じゃないって思うの?』


「あんなヤツ家族なワケないじゃん。…そんなこと、お兄ちゃんが一番よく分かってんじゃん!」


『俺はさ、美夜里。今の父さんとは一緒に暮らしたことないし、俺の父さんはあの人だと思ってるよ』


「…どうして、お兄ちゃんは、…いつも、そうなの? どうして、誰も責めたりしないの?」


『美夜里、どうして美夜里は、ちゃんと戸籍があるんだと思う?』


「何…言ってんの?」


『いいから、考えてみて』


 戸籍がない人なんて、世の中にいるの?


「アタシが生まれて、お母さんが出生届を出したからでしょ?」


『美夜里を妊娠した時、母さんはまだ俺の父さんと結婚してたんだ』


 兄は、どうしてこんなに悲しいことを平気で言えるのだろう。


 兄の気持ちを思うと、胸が押しつぶされそうだった。


『一緒には、住んでなかったんだけどね。まだ俺も小さくて、覚えてることは少ない。だけど、母さんと俺は、父さんが怖かった』


「どう…して?」


『俺の父さんは……なんてゆうか、すごく…暴力的…だったんだ…』


 ドメスティック・バイオレンスという言葉が頭の中に浮かんだ。


『ある時、母さんと俺の住む家に父さんがやってきた。すごく、怖かった。それだけはよく、覚えてるんだ。それで、おじさんがボコボコにされた』


「おじさん?」


『うん。美夜里の父さんだよ。俺と母さんを抱きかかえたまま、めちゃくちゃに殴られた。そのうち警察が来て、俺たちは助かったんだ』


「…そのくらいされて、当然…なんだよ。そのくらいのこと、したんだから」


『うん。そうかもしれない。だけど、美夜里? そんな状態で、美夜里の認知をするのは、どれだけ大変だったか、分かる?』


「自分の子なんだから、認知するのなんて当然…じゃん」


『まず、そんな状態じゃ離婚だって簡単には出来ないし、離婚する前に妊娠した子供は、夫の子だと推定される。だから出生届を出した後に、親子関係は存在しないって書類を夫が提出しなくちゃいけない。そうなって初めて、美夜里のことを父さんは認知出来るんだ。だけど、そんな状態で素直に聞いてもらえたと思う?』


「アタシだったら…お母さんを、許せない」


『うん。俺もそうだと思う。実際どうだったのかは、俺も知らない。だけど、おじさんが俺に約束してくれたことがある』


「……」


『おじさんと君のお母さんは、君のお父さんにとても悪いことをした。だから君は、君のお父さんを許してあげるんだ。そして、おじさんは、一生君と君のお母さんと君の兄弟を守り抜く。私たちは、家族になるんだ』


 なんて、自分勝手な言い訳なんだろう。


 自分は、自分の家庭は、ちゃんと別にあったくせに。


『自分勝手だって思う? 俺は、そうは思わないな。実際父さんは、俺と母さんを大切にしてくれた。キャッチボールも一緒にしたし、美夜里が生まれた時は泣いて喜んでくれた。よく覚えてるんだ。美夜里が生まれた夜のこと。父さんに起こされて、一緒に病院に行って、ずっと父さんは何も言わないで俺の手を握ってた。それで、生まれたばかりの美夜里を抱えて、聡、良かったな妹だぞって言ってくれたんだ』


 アタシは、泣いていた。


 どうしてかは分からなかったが、涙が溢れ出ていた。


 お父さんと、仲良く手を繋いで歩く、兄の嬉しそうな後ろ姿を思い出していた。


 兄にとっては、あの人が、本当の父親だったという事実が、切なかった。


 あんな父親なのに、あんな母親なのに、アタシたちの子供時代は、笑顔で溢れていた。


 家族だった。


 いびつで、不自然なアタシたちでも、それでもやっぱり、家族、だったのだ。


 兄は、ずっとそれを理解していたんだと、初めて分かった。


 家族というのは、血の繋がりや、紙の中に書かれる文字じゃない。


 家族というのは、自分たちの心の中にある絆だったのだ。


 そして、それを失ったのは、手放したのは、自分自身だった。


『美夜里、一緒に行こう。父さんのとこに、行こう』


 電話越しに頷いた。


 その声が兄に届いたかは分からなかったが、兄は、日時を告げて、電話を切った。



 それでもアタシは、やっぱり父と母のしたことは間違ってる。


 そう思っていた。


 アタシたちの笑顔の裏には、泣いて苦しんで、死にたいくらいに傷ついた人たちがいる。


 アタシ以上に、父や母が帰って来ない家で、寂しさを押し殺していた幼い兄がいた。


 それを、すべて許せるほど、アタシは強くない。


 ただ兄の、兄の気持ちだけは、痛いほど理解出来た。


 それだけだった。


 アタシは、ケータイを開くと、桜井くんにメールを打った。


『来週の撮影、ちょっと用事ができちゃったから、先に伸ばして欲しいんだ。


 ごめんね』


『ううん。大丈夫。


 ちょっと予定が前後しちゃうけど、桜が咲いてる間に最後の方のシーンが撮りたいから、また連絡するね。


 それより、あの後…大丈夫だった?


 なんか、あれからちょっと気になってて、なんてゆうか、あんまり気にしない方がいいよ。


 気になるなら、ぼくが調べてみるよ。


 実は、谷川紫音の映画は、ほとんど見たことあるんだ。


 今日、図書館に来てるから、ちょっと調べてみる。』


『うん。


 なんか、いつも、ごめんね。』


 それから、アタシはまた、ソファに横になった。


 いろんな思いが波のように寄せては返した。


 桜井くんは、誰かに似てる。


 それは、初めて会った、あのビルの屋上で、彼に抱きしめられた時から、感じていたことだ。


 柔らかくて、あったかい。


 待ち合わせにはいつも早めに来て、本に目を落としている。


「待った?」と聞くと、「待つのが、得意なんだ」と笑顔を向けた。


 絵コンテを描く手つき。


 手の形はまるで違う。


 描いているものも、まるで違う。


 姿形もまるで違う。


 だけど、彼はよく似ていた。


 兄に、よく似ている。


 優しすぎて、いつも傷ついてばかりいる兄によく似ていた。


 だけど、それは男として、魅力的というものとは違うような気がしていた。


 どこか、自分に近い存在、そんな感覚だった。


 アタシと桜井くんは全然違う。


 似ても似つかない。


 だけど、何故か一緒にいると心が休まった。


 彼ならきっと、分かってくれると思えた。


 彼と一緒なら、安心して眠ってもいいんだと、思えた。


 出来れば、もう誰とも恋愛なんてしたくない。


 あの人の冷たい横顔を思い出した。


 あれから、1回も、メールも、電話も来ない。


 何もする気は湧かないのに、何もしていないと彼のことばかりが頭に浮かんだ。


 メガネの左側を摘んで、外す仕草。


 ウイスキーを呑む、氷の音。


 手帳を親指を使って、開く仕草。


 そのすべてを、今でも愛してる。


 そのすべてが、まだ思い出にならない。


 苦しみを抱えたまま、あとどれくらいの夜を過ごせば、これが苦い思い出に変わるのだろう。


 先は、見えなかった。


 暗く深い森の中に迷い込んでいた。


 だけど、一人ぼっちではなかった。


『ぼくの母さんは、自殺したんだ』


 桜井くんのあの表情が脳裏に焼き付いている。


 雪の降る夜、アタシに手を差し伸べてくれた、彼の姿。


 道に迷っているアタシに、手をいっぱいに伸ばしてくれていた。


 彼と一緒にいれば、何かを見つけられるのかもしれない。


 アタシ以上に、きっと生きるということと闘いながら生きてきたに違いないのだから。


 優しすぎるその心で、何かを掴もうとしてきた人なのだから。


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