もう一つのアクアリウム

 あの日、一緒に朝を迎えたぼくたちは、それで関係が変わることはなかった。


 関係が変わるほどのことが、何もなかった。


 相変わらず、彼女のことは何も知らないままだった。


 彼女も話そうとしなかったし、ぼくも聞こうとはしなかった。


 でも、関係以外に変わったことはある。


 少なくとも、ぼくの中の彼女の存在は、友人や知り合いといったものとは違うものになった。


 彼女にとってのぼくの存在がどうなったのかは、知らない。


 あの日、いつのまにかソファで眠り込んでしまったぼくは、台所から聞こえる香ばしく何かが焼ける音と、フライパンに何か別の金属が当たる音で目を覚ました。


『朝からちょっとヘビーなんだけど、一番自信があるから』と言って、彼女が出してくれたハンバーグは、すごくおいしくて、懐かしい味がした。


 自炊はしないと彼女は言ってたけど、まんざらでもないように思えた。


 そんな、本当においしいハンバーグだった。


 それから、コンペのシナリオも活字におこして彼女に見せたり、ロケや撮影の打ち合わせを何回かして、撮影に入った。


 コンペの提出は、6月を予定していて、まだまだ制作日数には余裕があった。


 このコンペは、一般の学生を対象にした映像作品のコンペで、短編部門と長編部門があり、ぼくが応募しようと思っているのは長編部門だった。


 有名映像作家も多く排出してるコンペで、うちの学生の多くも、このコンペに出品する。


 審査は1次審査、2次審査とあり、2次審査に通過した作品は最終選考の大きなホールでやる上映会で発表されることになる。


 最終選考には多くの業界関係者や、プロの映画監督などが選考に加わり、賞に選ばれなかったとしても、最終選考で上映を果たした作品の作者は、少なからず注目を集める機会に恵まれる。


 最終選考は8月を予定していて、3年や4年などの上級生は、それで多くの学生の進路が決まる。


 だから、1年時や2年時は、その前に自分の腕試しとして、だいたいの生徒がこのコンペに出品することを目標にしてるのだ。


 しかし、それほどのコンペだけに、作品のクオリティは非常に高い。


 1次審査を通ることでさえ、けして容易ではない。


 だからこの時期は、学校内でもその話題が多くを占めていた。


 チームを組んで、結構な大作を製作するものもいれば、まずは一人で個性を出せる作品を作る者もいる。


 ぼくはどちらかと言えば大作よりは、監督として少しでも自分の個性を出せる後者のような作品を提出するつもりだった。


 大作を作るような人脈もなかったし、まだ卒業までにあと2回はチャンスはあると考えていた。


 今年は、自分らしい作品で勝負してみるつもりだ。


 そしてそのきっかけとなった一番の理由は、彼女という存在と出会ったということだった。


 彼女に演技経験があるかは別として、彼女は間違いなく映像の中で、その魅力を発揮出来る人物だと確信していた。


 そういうものは、技術や努力、容姿だけでは獲得しえない光のようなものだ。


 人に与える強い光を放つことの出来る、そういう女性であると、思った。


 それを引き出せるのは、ぼくの裁量に、きっとかかってる。


 そうでありたいと願っていた。


『台本の一字一句は気にしなくていいから、自分の言葉で話して欲しい』


 ぼくが最初に彼女に告げたのは、それのみだった。


 彼女はその言葉をよく理解してくれたようだった。


 彼女は、エキストラのようなバイトはした経験があるが、『演技』という経験は特にない。


 とのことだった。


 ぼくは、彼女が演技未経験者だということを踏まえて撮影は順撮りすることにした。


 普通、映画などの撮影は、前半と後半などで同じ場所などでのシーンがある。


 そういった場合は、同じ場所の別シーンをまとめて撮ってしまう方が効率的と言える。


 あとは日照や、ロケ先のアポの関係で、後半部分から撮影する場合もある。


 これは、演じるストーリー部分が前後するために、演じ手にはそのシーンへの役作りやテンションのコントロールをしてもらわなければいけない。


 通常ぼくたちのいる世界は時間が前後したりしないので、この感情の微妙な推移をコントロールするには経験値が必要となってくる。


 役者には、それが求められるのだ。


 これは、彼女には難し過ぎるだろうと考えていた。


 そして、クランクインを迎えた。


 そのころには、すでに3月になっていた。


 まずは一番始めの歩道橋のシーンから撮影することになった。


 歩道橋の上にいる少女にふと目が行くというシーンだ。


 ここには特にセリフはない。


 レンズ越しに彼女を見つめる。


 悪くない。



 歩道橋で佇む彼女の姿は、とても自然だった。



 しかし、それだけで画になる。


 もう少し演出をしてみてもいいと思い、何パターンか撮影した。


 次には、カメラだけのシーンがいくつか入るため、しばらくは彼女と会わなかった。


 そして、二人が出会うシーンの撮影。


 これはビルの屋上だ。


 ビルの屋上で腕を広げる少女に駆け寄るシーン。


 これは、書いている間にも何度も迷ったシーンだ。


 彼女に、嫌な思いをさせないか不安に思った。


 しかし、このシーンがなければ、この話は始まらない。


 ぼくが、まず思い描いたのがこのシーンだったからだ。


 人生に思い悩む青年が、ふとビルの屋上で手を広げる少女を見つけて、駆け寄る。


 飛び降りようとしているのではないかと思ったからだ。


 しかし、そうではない。


 そこは彼女のお気に入りの場所なのだ。


 空を飛んでいるような、そんな気持ちになれる場所。


 空に一番近い、元気をくれる場所。


「ビルの屋上で出会うなんて、そうはないよね?」


 2月の半ば、ぼくの部屋で、台本を読み終えた彼女が一番に言ったのは、この言葉だった。


「でも、実際にそういう二人もいるよ」


「うん。…なんか、こうやって読むと、運命的だね」


 粉のインスタントのチャイをすすりながら、彼女は言った。


「やっぱり…、なんてゆうか…、嫌…かな?」


「ううん。全然嫌じゃない。むしろ一番好きなシーンかも」


「…うん。ありがとう」


 彼女の笑顔は、綺麗だった。


 ぼくの部屋に来てみたいと言われた時は、正直緊張した。


 ぼくの部屋は彼女の部屋のように広くはない。


 でも、実際に隣に彼女がいると、緊張よりも安心感があった。


 見た目はとても華があって、もし知らなかったら絶対に話しかけようと思えないような彼女だったが、話してみると驚くほど波長が合った。


 そうやって他愛のない会話を、ずっと一緒にしていてもいいと思えた。




 あれからもう1ヶ月近く経とうとしていた。


 それでもぼくは、彼女の職業さえも、知らないままだった。


 屋上のシーンは、初めてセリフのあるシーンだ。


 彼女に演技指導のようなことはしなかった。


「スタート」


 録画が始まる。


 彼女がひと言目を発する。



 いいな。



 彼女が最後までセリフを言い終わった。


 それでも、ぼくは何も言わずに、カメラを構えていた。


「あれ、もういんだよね?」


「うん。いいよ」


「止めないの?」


「うん」


「え?」


 彼女が笑う。

「やだ。止めてよ」


「いいんだ。ここからは撮影じゃないから」


「何それ。変なやつ」


「カメラ小僧」


「キモーイ」


「なんとでも言って」


 彼女はまたくるりと背中を向けて、空を眺める。


 それを、移動して横から撮る。


 彼女の視線は、ずっと遠くにある。


「今度は、水族館のシーンだね」

 彼女は呟いた。


「うん」


「行ったことあるの」


「サンシャイン水族館?」


「うん」


「ぼくも子供の時行ったことあるよ」


「…そういうんじゃなくて…」


 そこで彼女は口をつぐんだ。


「何?」


「もう一つの記憶がある人っていると思う?」


「もう一つの記憶?」


「うん」


「どういうこと?」


「もう一つ、別の人生の記憶があるってこと」


 彼女の言いたいことの意味は、よく分からなかった。


「はっきりとじゃなくて、まるで夢の記憶みたいな、曖昧なものなの」


「夢とは違うの?」


「うん。夢…なのかもね。だから、誰にも話したことない」


「どんな人生なの?」


「……すごく好きなことがあって、子供の頃からいろんな場所に行って、いろんなことをするの。大人に混じって、大変な時もあるんだけど、すごく楽しい。雪山に行ったり、林の中を歩いたり。泣いたり、笑ったり」


「なんか不思議な話だね」


「何をしてるのかよく、分からなかったんだけど、最近になってあれがなんなのか分かったんだ」


「何?」


「うん。映画を…撮ってるんだと思う」


「映画?」


「うん」


「映画の撮影してるの?」


「ううん。撮影してるのは、大人の人。アタシは、撮られる方」


「役者なの?」


「うん。そう。古い家で、こたつに入って台本を眺めてる。セリフが長くて、忘れやすい部分を赤いペンでなぞる。

 泣くシーンは得意なの。難しいのは、怒るシーン。興奮するとセリフが飛んじゃうから」


「うん」


「あとは、食べるシーン。口に入ってるとうまくセリフが言えないから、口に入れたらマル飲み。それで、むせて大変なことになったことがあった…かな」


「不思議な夢だね」


「…うん。一番大変だったのは、海に入るシーン」


「え?」


「『もう、生きていても意味がない』そう呟いて、海に入るの。撮影は秋の終わりで、もう海がすごく冷たくて、波に本当にのまれそうになって、海水もたくさん飲んじゃって、本当に死ぬかと思った。

 …なんて、夢かもしれないんだけど」


 彼女はこちらに笑顔を向けた。


「待って。もう一度、もっと詳しく話して」


 ぼくはカメラを外し、彼女をじっと見つめた。


「え?」


「だから、その映画のストーリーをちゃんと話して」


「…どういうこと?」


「お願い。ちゃんと思い出して」


「え…。あぁ、なんてゆうか全部はちょっと思い出せないんだけど、ミステリー映画みたいな感じ。お母さんが殺されて、その犯人を、娘のアタシが探すような…多分そんな感じかな」


「間違いない?」


「…間違い…ないと思う。あの頃の記憶は、結構はっきりしてて…。映画だとは、思わなかったんだけど…」


「映画なんだよ」


「え…うん。多分そうだと思う」


「違う。そうじゃなくて、それと全く一緒の映画を知ってる」


「うそ…?」


「嘘じゃない。男の人が海に入ってくでしょ? 君を追いかけて」


「…刑事…役の人、だったよね?」


「そう。若槻翔太。背が高くて眉毛の濃い」


 彼女の目は見開かれた。


「本当に見たことあるの? その映画」


「……その話が、本当だとしたら…、ってゆうか、その記憶が…本当に現実にあったことの記憶なんだとしたら…、その記憶は…」


 それ以上言葉を続けていいのか、もうぼくには分からなかった。


「誰なの?」


「谷川紫音しおん…以外、有り得ない」


「谷川…紫音…」


 そう言ったきり、彼女は考え込むように黙りこんでしまった。


 幼少期に見た映画の印象が、記憶となってしまうことがあるのだろうか?


 ぼくは、信じられない気持ちで、彼女の言ったことを、思い出していた。


『水族館に行ったことがある』


 それは、きっと谷川紫音主演の、『深海魚』のことだ。


 あの映画に、水族館が出てくる。


 あれが、彼女の最後の作品になった。


 そんなに有名な作品じゃない。


 きっと、彼女が主演じゃなかったら、ぼくだってきっと見ていない。


 偶然、子供のころにその映画を見たんだとして、その記憶が何故か谷川紫音にまつわることだったなんて、なんとなく不思議な感じがした。


 不思議というか、偶然というより、運命的と言った方が近いような気がしていた。


 こんなにも、不思議な感覚に包まれたことはない。


 偶然にも、彼女もぼくも同じ映画の記憶が印象深く残っていたのだ。


 そして、同じあの小さな可憐な少女の。


「でも…」


 彼女は、何かを言いかけた。


 その時、春の風がぼくたちを通り抜けた。


 何かをさらうような勢いの突風が体の横から、ぶわっと沸き起こった。


「きゃっ」


 彼女は小さな悲鳴を漏らして、スカートに手をやる。


 彼女のワンピースが風に羽ばたく。


「大丈夫?」


 駆け寄ろとした時に、白いものが視界に入った。


 紙だ。


 無数の紙が空を舞ってゆく。


「あ…」

 ぼくと彼女はそれに同時に気づく。


 地面に置いていた台本がバラバラになって空に舞い上がっていた。


 気づいた時にはもう遅かった。


 白い紙が春の空に舞い上がってゆく。


 遠く、遠い空の彼方へ引き寄せられるように飛んでゆく。


 それは、なんとも不思議な光景だった。


 彼女もその光景をただ眺めている。


 ぼくは、手に持っていたカメラを再び回した。


 無数に飛び去る白い紙を、長い髪を抑えながら眺めている少女。


 遠くには高層ビルが立ち並ぶ。


 紙が時々光を反射してほのかな光を放つ。


 少女の目は、それを見つめる。


 その目には、微かな感動の色。


「あーあ。やっちゃったね」


 彼女はカメラを見て、はにかんだ。


 甘い色に心が満たされてゆく。


 そんな不思議な感覚に満たされてゆく。


 そして締め付けられる、心。


 ぼくは…


 これがなんだか、知っている。


 これは、誰かを美しいと思う気持ち。


 誰かのそばにいたいと願う気持ち。


 自分の心の中に、誰か違う人がじわりと入り込んでくる感覚。


 誰かを愛しいと、思う気持ち。



 目の前で笑顔を作る可憐な輝きを持つ女性。


 それをレンズ越しに見つめるぼく。



 ぼくは…



 この人が好きだ。



 ぼくの中で彼女が、恋に変わった瞬間


 だった。


 そして、ぼくはあの彼女が言いかけたことを聞くタイミングを失ってしまった。


 彼女とあの映画の関係はもちろん気になったが、ぼくの中で、それよりも目の前にいる彼女自身の存在の方が、ずっと不思議で、ずっと素晴らしいもののように思えた。


 そしてもしも仮に、彼女が谷川紫音と似ていると感じていたとしても、ぼくが彼女を好きになったこととは関係はないことだと思った。


 飛んで行ってしまった台本をまた印刷し直して、彼女に渡したりしたが、そのまま、あの時の会話の続きをすることはなく、水族館でのシーンの撮影の日になった。


 このシーンは、今回の映画で多くの時間を使う。


 ぼくは何パターンか絵コンテを書いて、頭の中でシミュレーションをした。


 納得行かなかったら、また再度撮影をしに行くつもりだ。


 一番ロマンチックに彼女を撮りたい。


 彼女の持つ光すべてを映像にするつもりだった。


 その気持ちは、このシナリオを書いた時よりも、強いものになっていた。


 彼女やぼくが心を寄せたあの映画よりも、あの少女よりも、もっと素敵な映像にしたい。


 今、彼女が持つ輝きを映像の前にいるであろう人たちすべてに伝えたい。


 今、彼女の輝きすべてが、どんな映画よりも、ぼくにとって一番鮮明なものになる。



 平日の水族館は、来館者もまばらで、撮影にはちょうどいい。


 サンシャイン水族館は場所柄土日はいつも人でごった返している。


 昔からあるビルの一角にある水族館だ。


 少々暗いが、今のカメラの性能があれば、十分雰囲気を出せる。


 ぼくは、何度も場所を変えて、カメラのアングルや魚の動きを検討して、彼女にぼくの中のイメージを伝えた。


 何度となく同じシーンを取り直した。


 彼女はそのたびに、うなづいて、ぼくの言葉に耳を傾けた。


「ごめんね。いろいろ言っちゃって」


 ようやく十分に納得がいったのは、もうすでに閉館間近だった。


 撮影を終えたぼくたちは、大きな水槽の前に並んで、優雅に行き交う海の世界を見つめていた。


「ううん。楽しかった」


「良かった」


「水族館なんて久しぶりに来たし」


「うん」


「映画に出るのは、これきりにしようかな」


 彼女は一人言のようにつぶやいた。


「…やっぱり、ちょっと大変…だったかな?」


 胸が痛んだ。


「違うんだ。やっぱりなんか…、なんかね…」


 彼女はまた言い淀む。


「言って。なんでも。ぼくに、言っていいから」


 ぼくは水槽を見つめたまま静かに、そう言った。


 彼女も、水槽を見つめていた。


「あれから、桜井くんが言ってた映画、見たよ」


「うん」


「正直、驚いた」


「うん」


「やっぱり、思い出すの。彼女のこと」


 彼女…


 ミヨリさんの言う彼女とは、きっと谷川紫音のことだ。


 ぼくはじっとその言葉に耳を傾けた。


「また、今日、思い出したことがあって」


「うん」


「死んだ…んだよね」


「あ…」


 ぼくは彼女の横顔を見つめた。


「…自殺、したんだよ。彼女」


「自殺?」


 彼女は、ぼくの言葉を繰り返しながら不思議そうな顔でこちらを見た。


「うん」


「自殺じゃないよ」


「え?」

 ぼくは彼女の言葉に驚いて聞き返す。


「自殺じゃない。彼女…殺されたんだよ」

 彼女は、こちらをまっすぐに見つめて言った。


 その目は水槽の中の海の色が投影されて、静かに揺らいでいた。


「きっとこれは、夢なんかじゃ、ない」

 彼女はもう一度、しっかりとそう言った。


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