キャラメルチャイ
「…じゃあ、少しだけ、おじゃまします」
部屋に入って廊下の突き当たりの扉を開けると、大きなリビングがあった。
皮のソファに、大きなテレビ、特徴的な観葉植物があり、部屋の隅には黒いワインクーラーが置いてあった。
予想はしていたけど、すごい部屋だな。
彼女はソファに体を投げ出した。
「何か、飲む?」
と言っても自分の部屋ではないのだが、声をかけてみる。
彼女は首を振った。
「ちょっと、横になったら? ベッドに」
彼女は目を開いた。
不安の色がうかがえた。
「起きるまで待ってるから」
「…ここで、いい」
「こんなとこじゃダメだよ」
「もう立ちたくないし」
「寝室、あっち? 開けてもいい?」
彼女はまた目を閉じてうなづく。
辛そうだな。
寝室の扉を開けると、ソファに横になる彼女の隣に腰を下ろした。
ゆっくりとその体の下に手を差し込んで、持ち上げる。
正直、人を抱き抱えたことなどないから、自分に出来るのか不安だった。
満年文化部の細い腕に自信など無かったし。
でもなんとか、持ち上げることが出来た。
彼女は目を閉じたままだ。
寝てしまったかな。
ベッドまで運んで、布団をかけてあげる。
少し寒かったので暖房のリモコンを探して、電源を入れた。
寝室の扉を閉めて、リビングに戻る。
ペンとノートを広げて、シナリオの続きを書き始める。
時計を見ると、すでに8時を回っていた。
シナリオも、あとはクライマックスのシーンを残すのみだ。
クライマックスのシーンは、シナリオを書き始めた時から、だいたい頭の中で決まっていることが多いから、書き始めるととても早い。
シナリオの執筆に没頭する。
1時間ほどで書き終わった。
出来上がったシナリオを再び頭から読み始める。
悪くない。
あとは、自宅に帰って修正を多少しながら、活字に起こすのみだ。
ちょっと喉が乾いたが、人の家の冷蔵庫を開けるわけにはいかない。
外に買いに行くにしても、オートロックのため出たら入れなくなる。
どうしょうかな…。
少しお腹も空いたし。
とりあえず台所に立って、置いてあったコップに水道水を注いだ。
ソファに戻り、口を潤す。
こんな時にすることは、決まってる。
ぼくはカバンからハードカバーの本を取り出す。
挟んであった紐のしおりを摘み、引き上げる。
紙の、すべやかな感触が手に伝わる。
今読んでいるのは、珍しく恋愛小説だった。
ラブストーリーはいつの時代も変わらない王道だ。
恋愛経験などほとんどないぼくだったが、共感する部分が大いにあった。
登場人物たちの細やかな感情の動きに、心なしか先を期待してしまう。
この二人の未来は、いったいどうなるんだろう。
自分もシナリオというストーリーを書く人間として、技術的な部分にも目を向けなければいけない。
だけど、読んでいるうちにそんなことをすっかり忘れてしまう作品がある。
心奪われる。
そう形容するのが最も近いとぼくは思ってる。
文章の技術的なうまい下手ということは文章を書くときには、重要なことだと思う。
それとはまた別に、自分の心が揺さぶられるような、その小説の世界に引きずり込まれるような、そんな作品がある。
読んだあとにもしばらくその世界を引きずってしまう。
その結末について何度も反芻してしまう。
たんたんと書かれている文章なのに、非常に心を動かされる作品がある。
美しく表現豊かな文体でもなく、特徴的で個性的な文体でもない。
しかし、その物語から放たれる作者の秘めたる情熱と苦悩に、圧倒的に支配されてしまうのだ。
ぼくは、そんな作品が好きだ。
自分の作品も、そうでありたいと思ってる。
技術的な映像美だけじゃない。
ストーリーの面白さだけじゃない。
何かを、伝えたい。
何か、けして言葉にならないものを伝えたい。
「何…読んでるの?」
気づくと寝室の扉の前に彼女が立っていた。
「うん。小説。唯一の趣味」
「映画も撮るじゃん」
「あれはまた、趣味と違うよ」
「アマチュアのくせに」
彼女の顔には笑顔が戻っていた。
少し休んだからか、先ほどまでの張り詰めたような感じがなくなっているような気がした。
しおりを挟み、パタンと本を閉じた。
「お腹空いてない? なんか買ってこようか? それともお粥とかにする?」
「お米…あったかな。正直あんまり自炊なんてしないから。…最近は」
「買ってくる?」
「ううん。デリバリーにしよう」
「うん」
ぼくたちは、山ほどあるデリバリーのチラシから、無難に宅配ピザを選び注文した。
すでに11時になろうとしていた。
ピザが到着すると、二人でソファに並んでそれを食べた。
大した会話はなかった。
それでも彼女の穏やかな表情に、安心感が込み上げた。
「あ、飲み物…何飲む?」
彼女はテーブルの上の水の入ったグラスを見て申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「うち飲み物だけはなんでもあるから」
「うん。じゃあ、紅茶ください」
「ストレート? ミルク?」
「うん、ミルクティー」
「ダージリン? セイロン? ほかの茶葉もあるけど」
「え? あぁ、どうしよう…あんまり詳しくもないから、なんでもいいです」
彼女が台所に立ち、紅茶の準備をした。
その時だった。
こんな光景前にもあったな、という感覚がよぎった。
『ダージリン? セイロン?』
そう聞かれて、台所で彼女が紅茶を入れる。
けど、そんなはずはない。
彼女と会ったのは、まだ2回目なんだ。
デジャヴというやつかもしれない。
子供の頃にはよくあった。
なんか、ここ前に来たことがある気がする。
こんな会話前にもしたような気がする。
そんなやつだ。
大人になってからは何故か少なくなった。
子供に戻ったようで、少しおかしな気分だった。
そう言えば、たった一度しか会っていない女の子の家にいるんだということを改めて思った。
リビングがとても広いので、思ったより緊張感はない。
むしろ二人で部屋にいることは、とても自然なようにさえ思えていた。
彼女にはそんな自然な雰囲気があった。
「はい。どうぞ」
彼女がトレーからティーカップと透明なティーポットに入った紅茶とミルクをぼくの目の前に置いた。
ティーカップには2本シュガーが添えられている。
彼女は、取っ手のついていないマグカップのようなコップを彼女の方へ置いた。
そちらにはすでに何か飲み物が入っているようだ。
キャラメルのいい匂いが漂ってくる。
中の飲み物に目をやると、美しいクリームベージュ色をしていた。
なんだろう。
「こっちが良かった?」
見つめていると彼女がそう聞いてきた。
「いや、なんだろうと思って。すごくいい匂いがするから」
「うん。キャラメルチャイ」
「チャイ…か」
ぼくの頭には近所のハンバーガー屋さんにあるそれが浮かんだ。
「女の子ってそういう飲み物好きだね」
「そういうって?」
「うん。なんか…不思議の国の飲み物みたいなやつ」
自分のカップに紅茶を注ぎながら言った。
すると隣から、フフフと笑い声が聞こえた。
「不思議の国の飲み物って。何それ?」
彼女は笑いをかみ殺すようにそう言った。
「あ、なんか…ちょっと変な言い方しちゃったね…」
ぼくは慌てて、自分の紅茶に口をつけた。
恥ずかしくて顔が熱くなった。
いい年して不思議の国はないよな、と自分でも思った。
「ううん。なんか、結構、的を射てる。だけど、なんか…ウケる」
「うん。なんか、子供っぽいね」
「いいんじゃない?」
彼女はキャラメルチャイに口をつけた。
その横顔を見つめた。
やっぱり、すごく綺麗な人だ。
まつげが外国の女優さんみたいに長い。
いつか見たモノクロの映画を思い出していた。
髪は今日はこないだと違って下ろしている。
長くて、少し下に緩やかな曲線が混じる茶色い髪。
笑顔から覗いた真っ白な歯も印象的だった。
いくつ…なんだろう。
女性に年齢を聞くのは、ちょっとはばかられる。
こないだはあんまり焦ってたから、ぼくも彼女も思わずタメ口で話していたから、なんとなくその惰性のままそうしてる。
だけど、よく見ると彼女の雰囲気はぼくの年齢よりもずっと落ち着いて見えた。
本当は、ずっと年上なのかもしれない。
だけど、初めて見た笑う姿は、ずっとあどけなくも見えた。
女性の笑顔は、女性の涙よりももっと可憐なものなのかもしれない。
そう思った。
「そんなに飲んでみたいなら、一口だけあげるから」
じっと見つめていたぼくにふと彼女がそう言った。
「あ、いや…えっと、違うんだ」
「ふふ。どうぞ」
彼女はそのキャラメルチャイをこちらに差し出した。
ぼくはそれ以上いい言い訳も思いつかずに、カップを受け取った。
キャラメルの甘い匂い。
一口、口に含む。
スパイシーな香ばしい香りが広がる。
そして、甘いキャラメルの魅惑の風味。
やっぱり…
「不思議の国の飲み物みたい?」
彼女は笑う。
「…うん」
ぼくも笑った。
きっとこんなことは誰にだってあること。
それでも、ぼくは彼女に小さな恋を重ねた。
懐かしく、あったかい、あの昼下がりのカフェ。
まだ何も知らなかった自分。
今はどうしているのかも分からない人。
ぼくの短い映画のワンシーン。
「何か書いてたの?」
テーブルの隅にあるノートを見て彼女が言った。
「うん。今度のコンペのシナリオ」
「こないだ言ってたやつ?」
「うん」
「どのくらい書いた? 読んでもいい?」
「ラストまで書いたよ。どうぞ読んで」
彼女はそれを手に取った。
気づくともうとっくに12時を回っていた。
「あ…、やっぱりまた今度でいい?」
「え?」
「もう終電無くなるかも」
「帰るの?」
「あ…なんていうか…うん」
微妙な間が訪れた。
だって、女の子の家に泊まるわけにはいかないし。
そう言いかけた時。
「帰らないで」
そう言った彼女の顔は、とても切なくて先ほどまでの穏やかな表情は、少しも残っていなかった。
「でも…」
涙が、流れた。
それが頬を伝う。
きっと、ぼくという存在じゃない何かを引き止めようとしてる。
そんな涙だった。
「…うん。じゃあ………、今日は帰らない」
心臓がバクバクと鼓動を打ち鳴らすのが分かった。
ぼくにとっては、その一言は
その一言を言うには、
人生最高の勇気が必要だった。
それでも、今は彼女のそばにいてあげたい。
ただそれだけだった。
それは、恋なのか、友情なのか、同情なのか、心配なのか、自分でもよく分からなかった。
ただきっと、今彼女のそばにいてやれる人は、ぼくしかいなかった。
彼女は再び、涙を流し続けていた。
その内に秘める苦悩のひとかけらも、ぼくには分かってあげれないだろう。
手を伸ばして、彼女を抱き寄せる。
彼女の体温が体中に伝わる。
ぼくは、ただずっと、そんな彼女の背中をさすってあげることしか出来なかった。
それでも、ぼくは、ただ彼女のそばにいてあげたかった。
不器用な自分でいい。
優しいだけの男でいい。
そんな自分でも、誰かを支えることは出来る。
苦しくて寂しさに押しつぶされそうな時、そばに誰もいてくれないという孤独を、ぼくは知ってる。
どこかに逃げ出したくても、どこにも逃げる場所がないということを、知ってる。
ただ泣きたくても、涙を受け止めてくれる人がいないという苦痛を、知ってる。
たった一人、何かと闘わなきゃいけない。
ぼくはそれを、よく知ってる。
だからぼくは、それだけの男でいい。
強い男に憧れたこともある。
意気地のない自分を情けないと思ったこともある。
ヒーローや映画の主人公に憧れたこともある。
だけど、誰かを傷つけて、誰かを犠牲にして、自分だけ満足すればいいという生き方はぼくには出来ない。
そんな生き方が、間違いじゃないと思いたい。
誰かを傷つけて生きるなら、自分が傷ついてボロボロになった方がいい。
それだけは、いつも間違いじゃなかったと、信じたかった。
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