キャラメルチャイ

『映画…撮ってるの?』


『うん。美大の映画学科に通ってるんだ』


 彼女は長いまつげを揺らして瞬いた。


『…すごいね』


『すごくないよ』


 しばらくの沈黙。


『今度のコンペに出す作品のシナリオを書かなきゃいけないんだけど、なかなか思いつかなくて…。

 でも、今なんかちょっとだけ閃いた。

 だから…、どうかな?』


『うん。いいよ。…どうせ私、しばらく仕事は休むつもりだから』


『社会人なんだ? 何の仕事してるの?』


『あ……』


 彼女は、微妙な表情をした。


『あ、いいんだ。言わなくて。ちょっと聞いてみようと思っただけ。君の話したいことだけ話してくれたらいいから』


『…うん。ありがとう…』


 苦しげに笑顔を作った。


『名前、聞いてもいいかな?』


『……ミヨリ……』


 どこかで、聞いたような名前だった。


 ぼくの中でイチョウの葉が舞い落ちる景色が思い出された。


『素敵な名前だね』


『そう? キライ。こんな名前』


 また彼女はぼくに近づいた気がした。


 恋の香りのする女性だった。


 きっとぼくとは全く住む世界が違う彼女は、どことなくぼくの記憶にあるものたちを思い出させた。


 じんわりと。


 あったかくて。


 そしてちょっと、切ない。


「おい。桜井。こないだちゃんと帰れたか?」


 あの日遊びに行っていた友人の今西が話しかけてきた。


 ちょうど映像方法論の講義が終わったところだった。


「うん。まぁ、途中で終電がなくなって、歩いて帰ったよ」


「えぇー? だから終電調べとけって言ったのに」


「うん。いいんだ。おかげで、雪景色を収めることが出来たし」


「はは。お前らしーな。とりあえずいつもカメラ回してるもんな」


「うん」


 彼女との会話を思い出していたぼくは、ふと笑顔が漏れた。


「なんだ。そんなにいい画が取れたのかよ? にやにやしちゃって気持ちわりぃな」


「…なんでもないよ。気にしないで」


 それからコンペの話を少しして別れた。


 午後の授業が休講になったので、家に帰る道すがら、その辺の猫を撮影する。


 親子並んでいる黒と白の猫。


 車のボンネットで日向ぼっこをしているトラ柄の猫。


 毛のふさふさとしたペルシャ猫のような白い雑種の猫。


 キチンと座って胸元の毛づくろいをしている。


 ノラ猫にしては、結構気品のある猫だな。


 ぼくはカメラをしまって、ケータイを開く。


 メールは来ていない。


 アドレス帳から、ミのページを呼び出す。


『ミヨリさん』


 その文字を見つめる。



  にゃぁん


 猫の鳴き声が聞こえ、顔を上げる。


 先ほどの猫が、こちらを見つめている。


「分かってるよ。迷ってないでメールしろってことでしょ?」


  にゃぁん


 また小さく鳴いた。


 ぼくはケータイのメール機能を立ち上げ、新規メールを作成する。



『ミヨリさん


 こんにちは。


 あの後ちゃんとおうち帰れましたか?


 やっぱり送って行けばよかったかなって思ったよ。


 今家に帰る途中でノラ猫の撮影をしてました…』


 ケータイのキーを押す手が止まる。


 なんか用件のないメールだな…。


 やっぱり、送るのは止めようかな。


 ふと先ほどの猫を見ると、今度は少し立ち上がりぼくに近づいてくる。


 そして足元を通り過ぎた。


 もう1回鳴き声を上げる。



  にゃぁん


 ぼくは微笑み、もう一度ケータイの画面に目を落とす。


『…映画の話もしたいから、今日暇だったらご飯でも食べに行きませんか?』



 送信ボタンを押す。



 そしてまたケータイをしまい、カメラを取り出す。


 空を映した。


 晴れ渡った青い空。


 返事、返ってくるだろうか。


 そんなことを思いながら自分のアパートにたどり着いた。


 ストーブの電源をつけて、冷蔵庫の扉を開く。


 寒いから、あったかい月見うどんにしよう。


 ステンレスの小さな台所に立つ。


 湯気が部屋の中に広がり、ほんのりと体をあたためた。


 いびつに割れた卵を乗せて、少し煮込む。


 うどん皿に移して、こたつの上に置く。


 こたつの上にあるケータイに目をやる。


 LEDライトが点滅していた。


 お箸を口にくわえたまま、そのケータイに手を伸ばす。


 新着メール1件。


 キーを押した。





『桜井くん


 おはよぅ。


 ちょうど今起きたとこだった。


 とりあえずアタシは大丈夫。


 心配しないで。


 あれからあんま外に出る気もしないから、プチ引きこもり。


 出来ればあんま外出たくない。


 誘ってくれたのにごめんね。』


 ケータイの画面を閉じた。


 うどんを見つめて、ケータイを置く。


 やっぱり、そんなに簡単に気持ちを整理するなんて難しいよな。


 命を投げ出してしまいたいと思うほどのことがあったかもしれないんだ。


 やっぱり、メールしなければ良かったかな。


 うどんに口をつける。


 また箸を置いて、メールの画面を開く。


『ごめんね。無神経だったよね。


 また外に出たくなったら、いつでも連絡ください。』


 何度も読み返したが、それ以上何を書けばいいのか分からなかった。


 彼女からの返信は無かった。


 ぼくは、もやもやとする気持ちを切り替えて、ペンとノートを広げる。


『題名…ラプソディ・イン・デイドリーム


 登場人物…少女


 ストーリー…フリーター生活を続ける作家志望の青年が、不思議な少女と出会い一緒に1日を過ごすことになるロードムービー


 青年の目線で、撮影し、青年の登場はアテレコのみ。


 撮影予定場所…歩道橋、電車の中、商店街、水族館、etc』


 そこまで書くと、シナリオを書き始めた。


 だいたいもうどんな話にしようか決まっていた。


 そして何時間も時間を忘れて、手を動かした。


 気づくと、すでに夕方だった。


 ぼくはテレビをつけて、紅茶のティーバッグをコップに入れてポットのボタンを押した。


 その時、ケータイのバイブの低い音がした。


 紅茶にミルクを入れてかき回しながら、ケータイに目を落とす。


 ミヨリさん…からかな。



『ごめん。


 迎えに、来て』






 差出人を見る。


 やっぱりミヨリさんだ。


 いったい何があったんだろう。


 すぐに電話をかけてみた。


『はい…』


「どうしたの?」


『……今日、病院行ってきて……、すごく、具合が悪くて…、それで…』


「分かった。今行くから、病院の名前教えて」


 それから病院の名前を書き留めると、すぐに家を出た。


 戸津川産婦人科


 そう書かれたメモを見つめていた。


 電車に揺られながら、いろんな想像がめぐる。


 病気…なのかな。


 それとも…。


 いや、詮索するのは良くない。


 誰にだって人に聞かれたくないことがある。


 ぼくがそうだったように、きっと彼女だってそうなんだ。


 駅について、ケータイの地図に目を落とす。


 きっとこの辺のはずだ。


 戸津川産婦人科の看板を見つけると矢印の向いてる方へ曲がる。


 すっかり暗くなった産婦人科の駐車場の隅で、うずくまっている人がいる。


 彼女だ。


 静かに歩み寄り、そばに腰掛ける。


 そばには大きな木があった。


「大丈夫?」


 彼女は何も答えない。


 顔はうつむいていて見えないけど、きっと泣いてる。


 それだけはよく分かった。


 葉のすっかりなくなった木を見上げた。


「この木、桜かな…」


 一人言のように呟いてみる。


「桜は花が咲いてないと、すごく目立たない木だね。そこに桜の木があるのも気づかないくらい」


 彼女に顔を向ける。


 やっぱり、震えている。


「立てる?」


 彼女はうなづいた。


「ぼくタクシー拾ってくるから」


 また彼女はコクリとうなづいた。


 彼女の肩に、マフラーをかける。


「寒いでしょ。ちょっと待っててね」


 彼女は、突然顔を覆った。


 泣き声が響き渡る。


「優しくなんてしないで!! アタシなんて、誰かに優しくされる資格なんてない…」


 地面につきそうなほどに彼女は体を倒して、そう叫んだ。


「分かった。ごめんね。…ごめんね」


 激しく関を切ったように泣く彼女の背中を撫でた。


 彼女が落ちつくまで、そうしていた。


 彼女の嗚咽がやんでくると、


「すぐ来るから、ちょっとだけ待ってて」


 そう言って大通りまで出た。タクシーを拾い、病院の名前とケータイの地図を見せる。


 運転手はうなづいて、ハンドルを左にきった。


 病院の駐車場に着くと、彼女は先ほどの姿勢のままでうずくまっていた。


 タクシーを降りて、彼女を支える。


 ふらふらと立ち上がり、歩き出す。


 足取りがおぼつかない。


「大丈夫?」


 彼女はうなづいた。


 タクシーに乗ると、彼女は彼女の家までのルートを告げた。


 ゆっくりと車は発進する。


 街の灯りに目をやりながら、時々彼女の様子を伺う。


 具合、悪そうだな。


「そこで、止めてください…」


 彼女は大きなマンションの前で運転手にそう告げた。


 ぼくは財布を出した。


 彼女はその手を掴んだ。


「いいよ。アタシ払うから」


「いいよ。ぼくが出すから」


 彼女の手を彼女の膝に置いた。


 支払いを済ませると、ぼくは先にタクシーを降りる。


 彼女が体を起こして、タクシーを出る。


 ふらついて転びそうになった。


 その体をぼくは支えた。


「大丈夫?」


 その体を支えたまま、マンションのロビーまで向かう。


 ずいぶんと立派なマンションだった。


 もちろんオートロック式だ。


 彼女がオートロックの盤に手をかける。


「玄関まで送るから」


 彼女はうなづいた。


 自動ドアが開き、中へ入りエレベーターに乗る。


 彼女は10階のボタンを押した。


 玄関につくまでぼくたちはまったく会話をしなかった。


 玄関まで来ると、彼女は鍵を取り出した。


「じゃあ、帰るね」


 彼女は手を止めたが、何も言わない。


 ぼくは今来た通路をエレベーターに向かって歩き出した。


 静かな廊下に、彼女の声が小さく聞こえた。


「…一人にしないで…」


 ぼくは振り向いて彼女を見る。


 彼女は玄関の前に立ち尽くしている。


 戸惑った。


 多分一人暮らし…なんだよね。


 女性の一人暮らしの家に上がりこむのには、ちょっと抵抗があった。


 というか、女性の一人暮らしの家になんて、入ったことがない。


 まだ、彼女は立ち尽くしている。


 ぼくの足は、駆け巡る思考とは裏腹に、彼女の方へと向いていた。

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