重なり合うもの

 寒い冬。


 首に巻きつくマフラーは、やっぱりあったかい。


 友達の家からの帰り、終電が途中で終わってしまった。


 こんな住宅しか無い街で、どうしようかと思いあぐねていた。


 あれからぼくが選んだのは、前田さんや敷島さんとは違う美大だった。


 大学に入って1年目、環境が変わるとこうも毎日が違って見えるのかと、驚いた。


 ぼくの大学の映画学科は、正直言ってとてもレベルが高い。


 それこそ、敷島さんや前田さんのような人たちがごろごろといる。


 映画学科に入るくらいだから、当然と言えば当然だった。


 それにしても、少しはあった自分の自尊心は、才能豊かな同級生により打ち砕かれた。


 言葉にならない焦燥感に襲われてしまう自分がいた。


 だってぼくには、映画しかない。


 これで人より出来なければ、何も胸をはれるものはなかった。


 でも、悩んだって仕方がない。


 自分の選んだ道なんだ。


 信じてまっすぐ歩いてゆくしかない。


 空から雪が舞い降りてきた。


 どうりで寒いはずだ。


 手を広げるとふわふわした結晶が舞い降りては消えてゆく。


 やっぱり冬は雪が似合う。


 ぼくはカバンにしまってあった小型のDVカメラを取り出した。


 録画ボタンを押して冬の静かな街並みを映してゆく。


 綺麗だな。


 ふと、画面内に人のような姿が映った気がした。


 左手にあるビルの屋上。


 やっぱり誰かいるみたいだ。



 ズームを絞り、その人物を映し出す。


 女の子だ。


 そして驚いた。


 女の子が立っているのは、冊の内側じゃなかった。


 完全に冊の外側の淵に立っていた。


 ぼくは、DVカメラの電源を落として、迷わずにそのビル目指して走った。


 そして全力で階段をかけ上がる。


 お願い、間に合ってくれ。


 冊から身を乗り出し、その白い手を掴んだ。


「何してるの!」


 その瞬間に少女の片足は、ガクンとビルの外側に投げ出された。


 衝撃が全身に伝わる。


 ぼくは必死で彼女の体を支えた。


 全身の力を両腕に込めた。


「放して!」


 彼女は叫び声をあげた。


「放して! アタシなんかもう生きてたって意味がない!」


 ぼくの中に、突き上げるような感情が湧き上がる。


 ぼくは大きく息を吸い込んだ。


「生きてたって意味がないだなんて、そんな悲しいこと言わないで!」


「…最初から誰にも望まれてなかった。死んだって、誰も悲しまない」


「そんなの嘘だ! 生きてたって意味がない人なんていないよ!」


「……アンタにアタシの何が分かるのよ…偉そうなこと言わないで」


 だんだんと体重を支える手が痺れてきた。


 ここで諦めたら、ぼくは一生後悔する。


「ぼくの母さんは、ぼくが小学生の時に死んだんだ。自殺だった。このことは誰にも話したことないよ。でも、忘れたことない!! 一度だって忘れたことはないよ。


 どんなに苦しくても、どんなに辛くても、生きてたって意味のない人なんていないんだ。どんな幸せな家庭に生まれても、どんなに思い通りの人生でも、生きてるってことは、それだけで大変だよ。どんなに小さな出来事でも、ありふれたことでも、その人にとっては大変で抱えきれない重さになることもあるんだ。



 だけど、生きてるって、それだけで素晴らしいことなんだ。君の代わりの人なんてどこにもいない! だから、必死に生きていれば、大切なモノが見つかる。


   今諦めちゃダメだ。


 どんなに苦しくて、どんなに辛くて、心が張り裂けそうになっても、今諦めちゃダメなんだ! 生きていて意味のない人なんかいない。自分で自分を諦めないで!!」


 こんなにも大きな声で叫び続けたことはなかった。


 必死だった。


 無我夢中だった。


 それはいつも、あの映画を見ながら、心の中で叫んでいた言葉だった。


 映画の中の少女に、今はいない母に、そして、苦しくてたまらなかったぼく自身に。


「お願い…諦めないで…お願い…お願いだから…」


 もうだんだんと体から力が抜けてゆく。


 ダメかもしれない。


 寒さで、息も絶え絶えになり、視界は、自分の吐く白い息で、もう彼女がどんな表情をしているのかも分からない。


 その時、ぐっと引っ張られた。


 ダメだ。


 もうこれ以上ひと欠片の力も残ってない。


 すでに手からは、少女の手の感触は消え去っていた。


「あ…あ…、あぁ…うわぁ…ぁ」


 手を離してしまっていた。


 全身の力が抜けて、へたりこんだ。


 全身がブルブルと震えていた。


 言葉にならない嗚咽が、溢れ出していた。


 ぼくが、ぼくが、手を、離した。


 ふわりとピンク色の何かが視界に入る。


 温かいマフラーのようなものに包まれた。


 顔を上げると、その瞬間に抱きすくめられた。


 強く。


 しっかりと。


 ゆっくりと体温が体に伝わってくる。


 そしてほんのりとチョコレートのような甘い匂いが体を覆ってゆく。


「……ありがとう……」


 それはぼくが言った言葉か、彼女が言った言葉かは、分からなかった。


 どちらでもなくて、いいと思った。


 ただ彼女の体を夢中で抱き止めた。


 今これ以上大切なものはないと思えた。


 どこの誰かも分からず、名前さえも知らないぼくたちは、いつまでも重なり合い、お互いを感じていた。


「大切なもの、アタシにも見つかるかな……」


 彼女の体は震えていた。

 舞い落ちる雪のように、消え入りそうな声だった。


 その細い体をもう一度抱き寄せる。


 彼女が顔をうずめた左肩に、温かい感覚がじわりと広がってゆく。


「大丈夫。きっと見つかるよ」


 ぼくは彼女の頭を撫でた。


 少女が、その瞬間ピクリと動いた。


 ぼくは慌ててその手を離す。


 知らない女性だということも忘れて、無意識に触ってしまった。


「ごめん。驚いたよね」


 ぼくは、彼女から体を離した。


 その時、初めて少女の顔をはっきりと見た。


 なんて、綺麗な人だろう…。


 モデルさんかな…。


 なんというか、どことなくぼくの周りにはけしていないようなタイプの女性だった。


 華がある。


 一言で言えば、そんな感じだった。


 泣いていたせいか、きっと綺麗に施されていた化粧は、落ちきっているようだった。


 それでも、この女性の本質的な美しさを充分に感じることができた。


 ぼくは何をしていたのかも忘れて、その可憐な美しさに見とれていた。


「違うよ…。驚いたんじゃない」


「うん。…ごめん」


 ぼくは、視線を落とした。


 まるで、映画の中のヒーローにでもなったつもりのようで、恥ずかしかった。


 少しずつ、冷静になり、彼女との距離を感じた。


 知らない女の子なんだ。


 でも何故か、遠くはない。


 彼女とぼくは、遠くない。


 きっと全くぼくとは違う人生を歩んできただろう美しい少女から感じるものは、けして遠くはなかった。


 また彼女の瞳を見上げる。


 鼓動が高鳴った。


 雪は、彼女とぼくの間に、より大きな結晶になり、降り積もる。



「ぼくの、映画に



 出てくれないかな? 



 君を撮りたいんだ」



 そう告げた。



 チョコレートの味わいが、ほろ苦く、体を包んだ。

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