ジャンポールエヴァン

「ミサキさん。ミサキさん」


「あ、あぁ、何?」


「あ、ご指名です。4番テーブル」


「分かった」


 ぼぅっと古い記憶を辿っていたアタシは、うつろな気持ちで、立ち上がった。


 そしてテーブルにつくと、少し気持ちは和らいだ。


「こんばんは」

 お客さんの顔を見て、驚いた。


 とても端正な顔をした、30代半ばの男性だった。

 ジャケットは着ていたが、ネクタイはしておらず、細淵のメガネも非常に個性的なデザインだった。


 そして…、まったく知らない顔だった。


「あの…、指名されたのはアタシで良かったでしょうか?」


「はい。ミサキさんですよね」


「あ、あぁ、はい」


 間抜けな返事をしてしまっていた。


「あの…」

 アタシが話しかけた時、男性は胸ポケットから名刺入れを出し、その一枚をアタシに差し出した。


『新生出版 週刊クロスウェーブ編集部 編集長


 城之内じょうのうち まこと


「あっ!」


「どうも。はじめまして。近くまで来たものですから、打ち合わせも兼ねて」


 ははっと笑っていた。


 笑顔が大人の男のそれのようであり、また少し違うような気もした。


「あ、あぁ。あ…ふふ」

 アタシは、なんとなくつられて笑っていた。


「本当に来てくださるなんて、思いませんでした」


「うん。本当に近くに来たから、寄ってみたんです。あまり酒は強くないんですけどね」


 アタシは、ヘルプの子をはけさせた。


「もしかして、都合悪かったかな?」


「いいえ、全然。実は今日いろいろあって、仕事する気が沸かなかったんです。ちょうどいいところに来てくれました」


「さすが、上手だなぁ」


「え?」


「男心を掴むのが」


 悪気はないようだった。

 きっと嫌みとかじゃなくて、本心からそう思っているのが分かった。


「そういう仕事ですから」


 アタシは8タングラスに薄めの水割りを作り、彼に差し出した。


 そして自分用の6タンをひっくり返してアイスを入れようとしたところで、彼の手がそれを遮った。


「好きなの頼んでください」


 アタシは彼の横顔を見つめていた。


「あ、じゃあ…いただきます」


 アタシは黒服の男の子を呼び止めた。


「ラムコークを一つ」


 横を見ると、城之内さんは、微かに笑っていた。


「なんか、アタシ変なこと言いました?」


「いや、てっきりシャンパンとかロマネコンティとか入れられるかと思ったから」


 今度はアタシが笑っていた。


「そんなことしませんよ。初めてのお客さんに」


「失礼。それもそうだね」


「ラムコークなんて子供っぽいと思ったんでしょ?」


「するどいね」


「いつも言われますから」


 城之内さんは、それから本当に仕事の話をして帰って行った。


 あんなに颯爽としているのに、本当に嫌みのない人だった。


 きっと、キャバ嬢と聞いて、本当に仕事を頼める人間なのか値踏みしに来たようなところだったのだろうと思った。


 感触は、まずまず大丈夫だっただろうと思う。


 少しは気に入ってもらえたような気がしていた。


 城之内さんは、話す時に、たまにカランとグラスを鳴らした。


 意識的ではなくて、無意識的に。


 癖のようなものだと思った。


 その音は、心地よく、会話にとけ込んで、緩やかな時間を感じている自分がいた。


 マンションまでのタクシーの中で、ほろ酔い気分で、そんなことを思い出していた。


 また、お店に来てくれるだろうか…。


 いや、多分もうお店には来てくれないだろうな。


 もうすぐ、クリスマスだ。


 イルミネーションがとても綺麗だった。


 イルミネーションが綺麗だなんて当たり前のこと、思ったのはいつだったろう。


 明日は京香さんのバースデーイベントだ。


 そう思いながら眠りについた。


「あ、中井さんのデスクはここになるから。てゆーかバイトの子はここって決まってるから、よろしくね」


「あ、はい」


 雑然とした編集部の片隅で、あれこれと目まぐるしく説明を受けた。


 アタシの勤めることになった編集部は、女性用のホテルやレストランやエステなどを紹介する情報誌の編集部だった。


 女性誌と言われていたので、てっきりファッション雑誌かなんかだと思っていた。


 だけど、むしろこちらで正解かもしれない。


 高級レストランの類は、行き尽くしてる。


 そんじょそこらのOLとはワケが違う。


「今日ね、クリスマス特集のライターさんから原稿上がってくるはずなんだけど、写真素材の点数多いから写真の入稿遅れそうだって言われたのよ。だから、取りに行ってきてくれない? 今日中に入れないとスケジュール詰まってるから」


「あ、はい」


「住所置いとくね。よろしく。領収書忘れないでねー」


 バタバタと説明だけして、戸田さんという女性は去って行ってしまった。


 領収書っていったいなんの?

 タクシーかな?


 聞く暇もなかった。


 取りあえずパソコンから地図を印刷した。


 隣の島はクロスウェーブ編集部と書いてある。


 編集長の席には誰もいなかった。


 今日はいないのかな…。


 会社を出て、とりあえずタクシーを拾おうとすると、ふいに肩を叩かれた。


「どこ行くの?」


 振り向いたそこには、城之内さんの笑顔があった。


「あ、城之内さん。いらっしゃったんですね?」


「うん。また出かけるけどね」


 彼は鞄を掲げて見せた。

 皮の黒いヴィンテージ風。

 いかにも彼らしい大人の男のセンスだ。


「どう? 大丈夫そう?」


「正直分からないことばかりです。会社で働いたことなんてないですし。地図の印刷だけで手間どりました」


「そう。すぐ慣れるよ。今日はどこ行くの?」


「あ、写真素材を取りに」


「あぁ上田さんとこか」

 アタシの手にしていた地図に目を向けた。


「タクシーで行くの?」


「やっぱり、違います?」


「ハハっ。領収書忘れないでねって言われたんでしょ」


「あ、はい」


「領収書忘れるなってのはさ、この業界の口癖みたいなものだから。細かい精算は後でやるから。バイトの子にはいつも言うんだよ」


 そういうことか。


「電車代とかは申請出せば領収書なんて要らないから」


「あぁ、すみません」


 城之内さんは通りの向こうから走ってきたタクシーを止めた。


 ドアが開くと、「乗って」と言った。


「あの…いいんですか?」


「俺も別案件で向かうとこだったんだ。上田さんとこ」


「あぁ」


「この距離で二人だと大して電車代と変わらないからね」


「“兼ね合い”なんですね」


「うん、兼ね合い。交通費なんて必要経費だからね、俺たちの場合」


「はい」


「なんの写真取りに行くの?」


「あ、クリスマス特集の…」


「クリスマス限定デザートだ」


「あ、よく分かりましたね」


「うん。毎年やってるからね」


「今年は、チョコレートデザートだそうです」


「そっかぁ。女の子は好きだもんね、チョコレート」


「男の人だって好きですよ」


「そう?」


「ほらバレンタインとか」


「あぁ、そっか、そうだね。確かに嬉しいかも。ゴディバくらいしか知らないけど、最近はショコラティエなんていうのが流行ってるみたいだしね」


「最近はゴディバ以外にもおいしいショップたくさんありますよ」


「そうなの? 知らなかったな。中井さんは、どこか好きなメーカーあるの?」


 名字で呼ばれたので、なんだかくすぐったい気持ちになった。


 名字なんて、キライだったけど、たまには悪くない。


「あ、アタシは…、やっぱ最近だとジャンポールエヴァンですかね」


「へぇ。フランス人か…」


「あ、はい。なんか宝石みたいに綺麗にショーウィンドウに並んでいるのを見ると、ついつい欲しくなって。でも食べると無くなっちゃうから、宝石よりも貴重に思えちゃうんですよね」


 城之内さんは、クククと笑っていた。


「宝石とチョコレートを比べるなんてなんか可愛いな」


「あっ…」


 言うんじゃなかった。


 確かに子供みたいな発言かな、と思った。


 しかし、あのチョコレートのショップを見れば、アタシの言いたいことはきっと理解出来るはずだ。


 チョコレートショップごときに、ドアマンがいて、出迎えてくれるのだ。


 そして暗めに落とされた照明。

 ショーウィンドウに輝く、ボンボンショコラ。


 なにしろ味が、普通のチョコレートとは雲泥の差なのだ。


 ジャンポールエヴァンのショコラにはいつも驚きがある。


 箱を開けた瞬間のショコラの香り。


 口に入れて味わうと中からは想像もしなかったショコラ以外の味わいが口の中に広がる。


 まさに黒い真珠という名に恥じない素晴らしい宝石なのだ。


 それでも、やはりなんだか子供っぽく見られたようで恥ずかしくなり、アタシはそれから口を閉ざしてうつむいてしまった。


 彼もそれ以上特段話すことはないようで、目的地まで特に会話はなかった。


 編集部の仕事は、予想外に順調に進んだ。


 取材同行などもこなし、だんだんと自分が社会人であるという違和感にも慣れてきた。


 そして、今年もクリスマスイヴが来た。


 クリスマスは、キャバ嬢も稼ぎ時だ。


 お客さんからのプレゼントも相当な数になる。


 やはり銀座という土地柄、いくらキャバクラとは言えど、新宿などとは比べものにならない。


 あれから、城之内さんとは何回か社内で会うことはあったが、特に目立って話すこともなかった。


 今更何を期待していたのだろう。


 彼は、水商売の女にハマるような人ではないのに…。




 お店の中も女の子もすっかりクリスマス仕様だ。


 アタシのお客さんもたくさん来てくれた。


 今年ももう終わるんだな。


 いったいこの1年で何があっただろう。


 きっと変わったことは何もない。


「ミサキさん4番テーブルご指名です」


 アタシは、シャンパンのラッシュに気分も上々に4番テーブルに向かった。


 そこにいたのは、予想もしていなかった人物だった。


 いや、予想していなかったと言えば、嘘になる。


 ただそれは妄想的な希望だっただけ。


 その人は、まったくいつもと変わらない笑顔でこちらを見つめていた。


「あ……」


「ハハ、驚いた?」


「あ、はい。また来てくださるなんて思ってもなかったんで」


「こないだ話した時クリスマスも仕事だって言ってたからさ」


「あぁ…」


 アタシは8タンに手を伸ばした。


 その手に彼の手がそっと伸びてきて、重なる。


「今日はクリスマスだから、シャンパンにしようか?」


「あ、あ…はい」


 なんとなく自分の心拍数が上昇しているのが分かった。


 また、来てくれた。


 アタシに会いに…。


 今日は仕事のことなんて関係ない…はずだよね?


「ちょっとしたクリスマスプレゼントを届けに来たんだ」


 城之内さんは、脇に置いてあった紙袋をアタシに差し出した。


 ゆっくりとその綺麗に包装されたものを取り除く。


 大きな雪だるまが見えた。


 懐かしいほどにオーソドックスなブッシュドノエル。


 丸太をかたどったガトーの上には、小さな家と大きな雪だるま。


 袋にはジャンポールエヴァンのロゴが書いてある。


「これ……」


「君が、好きだって言ってたから、ちょっと寄ってみたんだ。あの時は笑ったりしてごめんね。ショーケース見て、君の言うとおり、まるで宝石みたいだって思ったよ」


 次の言葉を探している間に、シャンパンをボーイの子がテーブルに置いた。


 彼はアタシの手からそのボトルを取ると、二つ並んだグラスにそれを注いだ。


「メリークリスマス」


 チンと小さなグラスの当たる音がした。


 何も言えないでいるアタシの頭に、彼はポンと右手を乗せた。


「そんなに驚かないで」


 美しいほどの笑顔だった。


 すべてが夢のようで、自分とはとてもかけ離れているように思えた。


“きのう”と名前がつけられた美しいブッシュを目の前に、アタシは未来を見つめていた。


 きっと大した意味はない。


 彼にとって、このブッシュも、その右手も…。


 だけどアタシにとって、それがすべてになった。


 アタシの何もない人生に、小さな甘いショコラの香りがたちこめた。


 口に入れてしまえば溶けてしまうほどの、儚い宝石がアタシの心の中に輝きだしたのだ。



 それから何を話したかなんてまるで覚えていない。


 ただ、何度も作る彼の笑顔に、心奪われているだけだった。


 優しさがにじみ出るようなその笑顔に、何度も何度も心を奪われた。


 そしてあっという間に時間が来て、彼はチェックを済ませてお店から出て行く。


 アタシは、お店の外まで見送りに出た。


「今日は楽しかったよ。普段こんな綺麗な人がたくさんいるとこでなんて飲まないから」


「いえ、こちらこそ」


「また、会社でね」

 いつもと変わらない彼のさっぱりとした挨拶。


 後ろを振り向いて歩き出す。


「あの!!」


 アタシは思わず声を出していた。


 彼がゆっくりと振り返る。


 銀座の街は、イルミネーションがまぶしいほどに光輝いていた。


「あの、あと少し、待っててもらえませんか?」


「え…?」


「仕事が終わるまで待っててください。二人で……。このブッシュドノエル一人で食べるにはもったいないから!」


 彼の顔に眩しい笑顔がまた現れた。


「いいよ! 待ってる」


 彼は右手を上げて、銀座の光の中に消えて行った。


 彼と初めて愛し合った、夜のことだった。


 彼のどこにそんなに惹かれたかなんて、今となっては分からない。


 きっかけは、とても小さなこと。


 しかし、今まで付き合ってきた、男たちとはとても比べることは出来なかった。


 彼の体は温かかった。


 その人柄と同じくらい温かかった。


 アタシは、彼に愛されたかったわけじゃない。


 アタシが、彼を愛したかっただけ。


 そこに、果たして兄への儚い慕情を重ねていたのかは分からない。


 父は、その冬にあっけなく死んだ。


 もちろん病院にも行かなかったし、葬式にも出なかった。


 あの人を見捨てて出ていった家族が、最後を看取ったそうだ。


 ずいぶんご愁傷様な話だ。


 アタシには関係ない。


 結局どこの家族にも属せなかったのは、アタシ一人だ。


 寂しくなんてなかった。


 それは、アタシが選んだこと。


 アタシは兄のように立派な人間にはなれない。


 兄のようにすべてを許すことは出来ない。


 兄の夢を奪い去ってしまった自分さえも、許すことは出来なかった。


「美夜里…、明日は夜の仕事あるの?」


 アタシの家の大きなダブルベッドの上で、彼は気だるそうな声を出した。


「明日はバレンタインだからね。ダルいけど、行かなくちゃ」


「夜の仕事。いつまで続けるの?」


「やめて欲しいの?」


「なんてゆうか…うちの社員になって欲しいって戸田ちゃん言ってたよ」


「うん。だから3月からにしようかと思って」


「そう」

 彼は起き上がると、床に転がるシャツを手にした。


「今日、おうち帰るの? たまには泊まって行けばいいのに」


「昨日と同じ格好でなんて出勤出来ないよ。誰かに何か言われたら嫌だろ」


「それならうちに洋服置いとけばいいじゃん」


「同棲みたいなの俺いやだからさ」


「…そうだよね」


 アタシは、目の前に映し出されるケーブルテレビの映画のチャンネルを意味もなく回した。


 あの聖なる日から、もうすでに2ヶ月が経とうとしていた。


 アタシたちは、激しく愛し合ってた。


 求めても、求めても足りないくらい。


 心と心でその情熱を愛撫しあった。


 もうお互いなしでは、生きていけないほどに、抱き合った。


 だけど…、一人になると、それはまるでアタシだけの幻想なのかもしれないという不安が襲った。


 帰らないで、と懇願すれば、きっと彼はそばにいてくれる。


 いつもの優しさで包んでくれる。


 だけどアタシは、彼の言葉に頷くことしか出来ない。


 どこかでそれ以上彼には、踏み入ってはいけないと思う自分がいた。


 そんな冷静さが、彼にはまだ残っているんじゃないかと、思えて仕方がなかった。


 バレンタインの1日は、とても忙しかった。


 昼間は、ゲラ印刷に目を通したり、穴の空いたページの埋め合わせなんかに、追い立てられた。


 夕方に会社を出ると、そのまま美容院に行き、スペシャルデー仕様に美しく決めてもらった。


 そしてその足で、新宿まで向かうと、伊勢丹の地下に足を運んだ。


 予想以上の混雑に気圧されながら、アタシは目的の場所にたどり着いた。


 今日は、これを渡そうと決めていた。


 右手には、先日買ったばかりの、真新しく艶を放つ黒いベルルッティのキーケース。


 表面に施された美しくも、シックなカリグラフィに一目惚れした。


 彼のお気に入りのあの鞄と同じブランドだった。


 そして、その中には、真新しく光る一つの鍵。


 今日こそは、これを彼に渡そう。


 そう決めていた。


 お店で接客している間も、アタシの心は上の空だった。


 このあと、彼にあのプレゼントを渡したら、彼はいったいなんて言うだろう。


 そのことばかりを考えていた。


 期待と不安で、逃げてしまいたくなるほど、心はあっちに行ったりこっちに行ったりと揺れ動いていた。


 こんな風に誰かを愛してしまうなんて、初めてだった。


 そして、仕事も終わり、彼の住むマンションに、向かった。


 今日ここに来ることは彼には言ってない。


 あの時彼がアタシにしてくれた小さなサプライズ。


 そのマネを、しようとしてる。


 寒さに震えながら、彼の家の前に立つ。


 なかなかチャイムを押す勇気が出ない。


 まだ、起きてるよね…。


 このマンションに来るのは、初めてだった。


 いつも、会うのは会社から近いアタシの家だったから。


 だから、余計に緊張していた。


 ガチャリ


 ふいに玄関のドアが開く音がして、


 無意識に、玄関から離れた。


「ちょっとコンビニ行ってくるねー。雄太郎の明日の保育園の準備しといてくれる?」


 女性はそういうと、玄関から出てきた。


 そばにいたアタシと目が合う。


「あ、こんばんは」


 にっこりと女性に挨拶をされた。


 アタシはただ頭を下げることしか出来なかった。


 女性はアタシを通り過ぎで廊下の突き当たりのエレベーターの方へ向かう。


 再び閉まったドアの横の表札に目をやる。


『城之内』


「あ、裕子、ついでにこないだの支払いもしてきてよ」


 その声と共に、再びドアは開かれ、よく知っている男の顔が見えた。


 一瞬にして、時が止まる。


「ああ、忘れてた」


 小走りに女性が走り寄ってくる音が聞こえた。


 目を見開いていた彼は、すぐに視線をアタシの後ろの人物に戻した。


 何も言わない。


 アタシは彼のその表情をじっと見つめていた。


 女性はまたアタシの横を通り過ぎでゆく。


 チラリとアタシの顔を見た。


 その瞬間に、アタシは彼から視線を外した。


「あの、鍵なくされたんですか?」


「…いえ、大丈夫です…」


 アタシはそのまま階段をかけ降りた。


 最後の段で、足を引っ掛けて崩れ落ちた。


 手にしていた袋からは、黒い真珠が、ばらまかれて無残に飛び散っていた。


『口の中に入れたら消えてなくなっちゃうから、宝石より貴重に思えるんです』


 アタシはそれをかき集めて、また袋に放り込んだ。




 立ち上がると、どこへともなく走り出した。


 手の温度で少し溶けてしまったチョコレートが、優雅に施されたキラキラと輝くネイルの隙間にこびりついていた。


 美しいジャンポールエヴァンの香りに包まれながら、アタシの心はもうどこにも無かった。


 高いヒールのソールが割れる音がした。


 足に激痛が走っていた。


 立ち止まりうずくまると、カカトからは激しい靴擦れで血が流れ出していた。


 今日のために買った、ヴェルサーチのパンプス。


 ピンク色のストール。


 それらを抱きしめながら、涙が止まらなかった。




 何も知らなかったのは、アタシだけ。


 このまま一緒にいれたら、そう願っていたのはアタシだけ。


 寒さに震えながら、自分のお腹に手を当てた。


 今日は、あなたに話したい話がたくさんあった。


 アタシたちの未来のことを、話したいことがたくさんあった。


 アタシの中にうぶく、美しい宝石。


 それは小さくて儚い宝石。


 それを、あなたに笑顔で、祝って欲しかった。


 あの時のように、頭に手を置いて、良かったねと言って欲しかった。



 アタシの、“家族”になって欲しかった。



 でもそれは、絶対に叶わない。



 すべてが夢だった。


 あなたと出会って、愛し合って、感じた温もりすべてが、今はもう夢だった。


 アタシは何も望んでない。


 豪華な家も、高級な宝石も、素晴らしく美しい華々しい人生も望んでない。


 ただ普通に、大切な人の隣で笑い合える、そんな小さな幸せしか望んでない。


 だけどそれは、けして叶うことはない。


 他の人たち全てが、生まれながらに感じることが出来るそんな小さな幸せは、アタシにとってとても大きくて、光り輝いて見えた。



 19歳の冬。


 アタシにはもう失うものは無かった。


 愛することも、愛されることも、アタシには難し過ぎた。


 明日世界が終わらないなら、自分で世界を終わりにしようと思った。


 通り過ぎる人たちの笑顔が、何よりも遠くの世界のことのように思えた。


 そして、ビルの屋上に立ち、その美しく光り輝く世界を見つめた。


「お兄ちゃん…ごめんね」


 アタシに青春というものがあったのだとすれば、それはアタシにとって、青や白ではない。


 青春の色。


 それは…


 流れ出る血の、赤。


 黒くこびりついて汚れた、赤い色。


 情熱の色とは違う

 どす黒く汚れきった赤い色。


 そしてアタシは、その世界への一歩を踏み出した。



 それでいいと、思えた。


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