名もなき花

林桐ルナ

名もなき花

 名前は思い出せないのに、何度もその存在を思い出す人がいる。


 私には、そういう人がいる。


 たった一つの、そして無数にあるだろう名もなき花。


 あなたにも、そういう人が、いるのだろうか。


 ◆◆◆


 私が、中学三年の夏、あの人が妊娠した。


 気が狂ったのかというほど彼女は泣いて、だから私は、彼女の子供の父親になろうと決めた。


 出来ることや、やるべきことは分からない。


 ただ私は、自分のことがどうでもよくて、それで彼女が救われるのなら、死んだって構わなかった。


 それほど大切な人では、なかったけど。


 私が彼女の部屋の家賃と生活費を稼ぐのに選んだのは、キャバクラのバイトだった。


 今ほど規制も厳しくなくて、妙に老けて見える子供だった私は、何の障害もなくそこで働き始めた。


 お酒も好きだったし、しゃべるのも好きだったし、そこのお店の客は今から考えると大人の社交場においてのルールをわきまえてる人が多くて、正直言って毎日が、楽しかった。


 学校の友達が子供っぽいということはなかったけど、周りはみんなお嬢さんで、どんなに一緒に悪ぶったことをして遊んでいても、結局は違う人種なのだと思ってしまう自分がいた。


 帰る場所がある人と、そうじゃない人。世の中の人はそのどちらかで、そこにある壁は永久に越えることは出来ない。


 そんな風に思っていたのかもしれない。


 そんなことはけしてない、今はそう断言出来る。


 そこにある壁は、自分が思うよりもずっと儚い。


 ガラスで出来た心の容れ物だ。簡単に割ってしまえる。助けて欲しいと泣きじゃくる勇気さえあれば。


 自分は、手を差し伸べて貰いたいだけの、弱くて小さなモノなのだと認めることさえ出来れば。


 働き始めてすぐに、仲良しが出来た。


 レイカとシュウ。


 私の働く店は、年齢が高い社交(キャバ嬢をこう呼ぶ)が多くて、私たち三人は年齢が近いということで、すぐに仲良くなった。


 レイカは私と同い年の18ということになっていて(後に彼女は本当は17だと知った)、シュウはイッコ上の19だった。


 私たちはお店が終わってからもよく三人で夜な夜な遊び回った。


 私たち三人はまるで違い、そして同類だった。


 レイカは、外見は背の高いモデル体型の美形なのに、しゃべると完全にコギャルで、三枚目。だからなのか、指名する人はあまりいなかった。彼女の場合、オジサンと営業電話が嫌いだったということもあるかもしれない。


 シュウは逆に、見た目は完全にギャル風だったけど、クールで格好いい女。無数のハイライトが入ったストレートの長い髪と、面長の顔に浮かぶキツネのように切れ長な目で、落ち着いて話すのが印象的だった。


 私はというと、大した顔でもスタイルでもなかったが、とにかく指名は一番多かった。栗色の髪に緩いパーマをかけたようなヘアスタイルで、よく笑い、よく話し、よく人の話を聞いた。人に話を合わせるのは嫌いで、どんな常連客でも、思ったことは何でも口にした。要するに、まだ子供だった。


 生意気な女に金を出したがるのは、男の支配欲からくるものなのだろう。


 しかし子供には、お金の価値は分からない。1ヶ月働き詰めで貰った15万と、一晩で無くなるシャンパン数本分の価値は、全く等しい。


 お金で支配出来るのは、その価値以上にそれを使いこなすことが出来る人間か、それと引き換えに欲しいモノは全て手に入ると信じている人間だけだ。


 手に入れたいものがお金で買えるものではなく、使いこなすことも出来ない人間には、それはただの紙切れでしかない。


 必要な分集めて引き換える、そんな紙切れ。


 使う用途はいくらでもあるし、そして使うほどのことは何もない。


 ベテランの社交は、プライドの高い人間も多くて、新人の社交のヘルプなんかはつけてくれるなという人も多かった。


 席についても完全に無視なんてこともよくあり、そういう人の客を取ったとなれば、大問題に発展した。


 ナンバーワンの静香さんの客がシュウを指名した時は、嫌がらせの電話、脅し、イジメなどにあい、大変だった。静香さんの客は、組の人と思われる客も多く、マネージャーでも頭が上がらないようだった。今から思うと、彼女はケツ持ちの女だったのかも知れない。


 幸い私は、何故かそういう人にはむしろ好かれるタイプで、私の客を取ったわね、なんて言われることはまずなかった。


 女性同士の派閥争いに全く興味がない私は、誰からも敵視はされないし、誰からも必要以上に可愛がられることもない、だいたいそんなところだっただろう。


 人に可愛がられるほど可愛い女じゃなかった。


 学校での私と大して変わることはない。


 他人にも自分にも、まったく興味が湧かなかった。


 誰とでも仲良く出来て、輪の中心で笑っていても、同級生からさん付けで呼ばれるような女だった。


 いつもガラス越しから話す私は、けして手を握ってくることはないが、噛みつくこともない。


 檻に入っている野生動物。飼おうとは思わないが、眺めるのには面白い。


 そんな風に見えていただろう。


 だから私は、なんとか静香さんを宥めることが出来て、シュウも数日でお店に復帰した。



 そんな風にして、働き始めてから3週間くらい経ったころだった。


 控え室に黄緑色のスーツを着た派手な感じの見慣れない女性がいた。


 新人さんかと思ったが、マネージャーと親しげに話しているところをみると、どうやら違うらしいということが分かった。


「あ、初めまして。アユナです」

 彼女は控え室で隣に座った私に、そう言ってにっこりと人懐っこく笑った。


 実は、私は彼女の名前をすっかり忘れてしまった。


 彼女のことを、こんなにもしっかりと覚えているのに、彼女の名前だけは全く思い出せない。


 名前なんていうのは、そんなモノだと思う。


 あと10年経って、私の名前を覚えている人がどれだけいるだろう。


 自分自身も、名前の数だけある違う顔の自分を、どれだけ覚えていられるだろう。


 私という人間の、違う顔全てについていた名前を、


 どれだけ思い出せるのだろうか。


 だから今は、仮に彼女を、アユナと呼ぶことにする。


 名前なんて、なんでもいい。


 重要なのは、私が彼女という存在を、覚えている。ただそれだけだ。



 どうやら彼女は、この店では顔は知れているらしいということが、周りの会話から分かった。


「アユナさん」とみなが名前を呼んでいる。


 しかし、彼女が席についても、誰も彼女に話を振らない。


 彼女の扱いは、ヒドいものだった。


 新人以下、と言って良かった。


 待機中に並んで座っていたりすると大抵は雑談などをするものなのだが、彼女に話しかける人間は殆どいなかった。


「シュウ、あのアユナさんてさ、なんかあったの?」


 気になった私は、私より在籍の長いシュウに彼女のことを聞いた。


「あぁ、あの人ね、風俗嬢らしいよ」


 それでようやく私は彼女を取り巻く雰囲気がおかしいことを理解した。


 働き始めて知ったのだが、水商売をしてる女性は、たいてい風俗嬢が嫌いだ。


 もっと言えば、客と寝るような女は水商売なんてやめて風俗嬢になればいいと思ってる。


 そういう人間と同一視されたのでは堪らない、といったところだろう。


 キャバクラは疑似恋愛の出来る夢の国であって、セックスの出来る女を探す場所じゃない。


 そういうプロ意識の高い社交は、客とは絶対に寝ない。


 今はどうだか知らないが、その頃はそうだった。体を触るような客は追い出されたし、客も社交にそういうある種の純潔を求めていたような気がする。


 そういう人間が、彼女を良く思わないのは当然のことだった。


 私も、実際に風俗嬢に対する偏見がなかったわけじゃない。


 金のためにどんな男とでも寝るのかと思うと、正直に気持ち悪かった。


「それ面白いよね、ドラゴンヘッド。私も持ってる」


 控え室でちょうど二人になった時に、彼女は私の読む漫画を指差して、そう言った。


 その漫画本から顔を上げた私は、彼女を見つめてこう聞いた。


「アユナさんて、なんでここで働いてるの?」


 彼女は、一瞬質問の意図が分からないといった表情を見せた。


「風俗嬢なんだよね?」


「私ね、ここのマネージャーさんと知り合いで、毎月1週間くらいだけ働かせてもらってるんだ。ほら、生理の時は本業の方で働けないから」


 驚くぐらいあっけらかんと彼女は事情を説明した。


「本業ってどんなお店?」


「個室のソープ。ちょっと先にあるとこ」


「ソープってどんなことするの?」


 その質問に、彼女は事細かに答え、最後に「お風呂やさんみたいなものかな」と言って笑った。


 私はそれから、一緒の席についても、よく彼女に話しかけた。


 お客さんとのアフターにも、彼女を誘った。


 彼女も、私によく自分のことを話した。


 彼女には年下の彼氏がいて、一緒に住んでいること。その彼氏はホストをやっていること。


 本業のお客さんのこと。1日の稼ぎは20万はあるということ。本当はキャバクラで働かなくてもいいのだということ。


 彼女と私が話す時には、周りには誰も寄りつかなかった。


 奇妙な光景でも見るかのように、ただじっと視線をこちらに向けないで耳だけで聴いているのが分かった。


 レイカとシュウからも、そのことについて少し意見されたが、私は彼女と話すのを止めようとは思わなかった。


「彼氏ってゆうか、ホストに注ぎ込むために風俗で働いてるんでしょ」


 その言葉を、私は何度となく聞いた。


「ルカちゃん、明日さ、お店の前に一緒に買い物に行かない? 新しいスーツ、欲しいんだ」


 彼女が終わりがけの店内で私に話しかけて来た。


「いいよ。同伴の前なら」


「やった。じゃあ駅前で待ち合わせね」


 彼女はそんなしゃべり方をよくする女だった。


 派手なメイクをした、目立つ顔立ちとは裏腹に、人の顔色をさり気なく伺うようにしゃべる。


 春の終わりに降る、夕立のようなしゃべり方をする女だった。


 その日、私たちは彼女のスーツを買いに来たはずなのに、彼女は自分のスーツを殆ど選ぼうとはしなかった。


 次々にスーツを持って来ては、私に試着してみろと彼女は言った。


「ルカちゃんって色白いから絶対水色が似合うよ。私そう思ってたんだ」


「前は日サロで焼いてたんだけど、夜で働き始めてサボってたら色落ちちゃった」


「焼かなくていいよ。パステルカラー似合うから」


「はは。そんなこと言われたことない」


「じゃあ、決まり。これと、さっきのピンクのスーツでいい?」


「え?私買わないよ。お金持ってきてないし」


「いいから、気に入った?」


「…まぁまぁ…かな」


「買い物に付き合ってくれたお礼に、私買ってあげるね」


 そう言うと、たいして見てもいない自分用のスーツを適当に手に取り、彼女は会計に並んだ。


 彼女は約4万のスーツを3着その場で買い、2着を私に手渡した。


 おそらく彼女の1週間分の給料と同じくらいだろう。


 私はそれを受け取り、彼女にお礼は言わなかった。


 嬉しいというよりも、それは私にとって、すごく切ないプレゼントだった。


 人の愛し方の分からない彼女の、愛のこもったプレゼント。


 ありがとうの代わりに、彼女が出来ること、それはこんなことだった。


 それから私たちは近くの喫茶店に入った。


 もちろん、その会計も彼女が出すと言って聞かなかった。


「優しいんだね、アユナさんて」


「違うよ。自分がしたいからするだけ」


「違うよ。そういうことじゃない。優しいから、生きにくいんだと思うよ」


「そう…かな…。生きにくいなんてこと、ないよ。私、幸せ者だから。あ、あのね、年明けくらいには、彼氏と結婚するかもしれないんだ」


「結婚式、するの?」


「うーん、どうかな。お金かかるし。結婚費用はこれから貯めるつもりなんだけど。彼の仕事のこともあるし、盛大には出来ないかな…」


「二人ですればいいよ」


「それじゃつまらない」


「だって、アユナさん、家族っていないでしょ?」


 彼女はそこで考え込んだ。


「私はいないよ、家族って。友達も、いないし」


 私がそう言うと、彼女は少し目を潤ませて微笑んだ。


 いや、確かではない。ただ、私の記憶の中では、そうだった気がしている。


「…うん。いない、かな。私も」


「じゃあ、二人ですればいいよ」


「…そうだね」


 私は、思ってることを何も彼女に話さなかった。


 その彼が彼女と結婚する気はないだろうと思っていること。


 仲良くなりたい“友達”に、高価なプレゼントをするのは間違っていると思ってること。


 そのために風俗で働くのは愚かなことだと思ってること。


 本当は、彼女が幸せじゃないと、思っているということ。


 そのすべてを私は彼女に話さなかった。


 話す必要なんてなかった。


 そんなことは、彼女が一番よく知っている。



 私は、彼女が好きだった。


 答案用紙に何も書けないでいる彼女が、無性に愛おしかった。


 帰る場所のない彼女の笑顔が、私はどうしようもなく、好きだった。


 一週間で彼女から貰った物は、たくさんあった。


 彼女の新品同様の“着なくなったスーツ”。


 時計。


 他にもいろいろ貰ったが、もう覚えていない。


 彼女のスーツを受け取る私に、「性病が移るよ、ルカ」と誰かが笑いながら言った。


 そういう嫌がらせのセリフは、すでに聞き慣れていた。


「店服の方が、気持ち悪いですよ、私は」


 そんな風に返す私に、レイカとシュウはヤキモキしていたそうだ。


「自ら敵作るようなタイプじゃないじゃん。あんなん気にしないほうよくない?」


 そうレイカにも言われた。


「心を売るのと、体を売るのは、どっちの方が罪が重いと思う?」


 そう聞いた私に、レイカは「何それ、意味分かんない」と答えた。


 そしてあっという間に一週間が経ち、彼女はお店からいなくなった。


 私を取り囲んでいた奇妙な空気も、彼女がいなくなるのと同時に、消えてなくなった。


 しかしその後は、静香さんや他のナンバー2などとあまり話した記憶がない。


 私は、これ以上、心を売る気はなかった。


 いくらでも演じることは出来る。でも本当の心だけは、けして売れない。心は、お金では、けして買えない物なのだ。


 私は、今でも、子供だ。


 それが間違いじゃないと、思ってる。


 心の美しさと見た目の美しさは関係ない。


 薄汚れて醜い姿でも、美しい者がいる。


 罪深い愚かな者でも、可憐な野に咲く花のように見える者がいる。


 反対に、華やかに着飾って、綺麗な言葉や笑顔を並べていても、ひどく醜い者もいる。


 ちょうど、私がそうだったように。

 自分を汚しながら生きている人間を笑う資格は、私にはなかった。


 人の愛し方が分からない人間を笑う資格も、私にはなかった。


 そういう人間を笑う人間を軽蔑する資格も、私にはなかった。


 だから私が、そういう人たちを避けたのではなく、そういう人たちが、私を避けたのだろう。


 そういう価値観を、私は誰にも理解して欲しいとも思わなかった。


 人の心は、お金では買えない。


 たとえば仮に、お金で買える心があるとして、誰でも買えるような心を理解し合ったとしても、仕方がないと思った。


 思っていることの全てを話しても、きっと理解し合うことなんて出来ない。私たちは、みな価値観の違う他人同士。


 最初から、分かり合おうとすることが間違いなのだ。


 分かり合えるのは、同じ傷を抱えるモノだけ。


 そう、思い始めていた。


 私は、きっと怖かったのだと思う。


 自分の心の醜さに気づき、それを誰かに知られてしまうことが。


 いつだってこれが自分の本当の心なのだと言い聞かせて、それをいつの間にか、いかにも高価な物として売りながら生きていたことに、気づいてしまったんだろう。


 これが本当の私。そう思っていた姿さえも、本当の私などではなかった。


 全てが偽りの私であり、売り物の心だった。


 だけど今の私は、偽りの私や売り物の心、そして売ることが出来なかった私の心、その全てを誰かに伝えたいと思っている。


 そういう私を、誰かに理解して貰いたいと、思っている。


 ずっと、心の切り売りを、したくなかった。


 さんざんに売り渡してきただろう私の、最後に残った本当の心を、誰かに理解して貰いたいがために、切り売りのようなことをしたくなかった。


 私の心に、価値がつけられてしまうような気が、した。


 私の人生に価値がついてしまうような気が、した。


 ただ全てが、怖かった。私の中に混在する正義と悪、そのどちらも受け入れることが出来ずに。


 ずっと、私の心は価値があるモノなのだと思っていたからなのだろう。


 だけどそうじゃない。私の価値は、私だけがつけるモノじゃない。


 自分が与えるモノであり、人が与えてくれるモノ。それが、私の価値だ。


 美しい私や醜い私、正しい私や過ちを犯す私、その全てが、私という人間を作るピース。


 その全てに、誰がどんな価値をつけたっていいんじゃないか。


 今、私はそう思う。


 だから、偽りの心を売りながら生きていた私を、誰かに知って貰いたいと思う。


 誰かを、その外見だけで軽蔑しようとしていた私を。自分の周りにいた人間を、ひどく憎んでいた私を。幸せな者が、心の底から羨ましかった私を。


 誰かを、その外見に関係なく無条件に理解したいと思っていた私を。自分の周りにいた人間を、ひどく愛していた私を。些細な言葉の一つ一つに、幸せを感じていた私を。


 それを、誰にも言えなかった、幼い私を。


 そんな私にも、売れない心があったのだということを、知って貰いたい。


 ずっと、誰かに理解して貰いたいと思っていたのだろうと思う。


 様々な顔の様々な名前の私が、本当は一人の私なのだということを。


 本当は誰よりも、その温かい手を握り返したいと思っていたということを。


 間もなくして、あの人の家賃と生活費を払ってくれる人が見つかった。


 その頃に、私はマネージャーに社員にならないかと打診された。


「ルカはこの世界が向いてる」その理由は、よく分からなかったが、私はそれを断って、その月に約2ヶ月間働いたその店を辞めた。


 およそ100万くらい稼いだその金を、何に使ったのかは覚えていない。


 何事もなかったように、私は学校に通い、友人とまたはしゃぎ合った。


 文化祭の準備をして、中間テストの勉強をして、習い事に通い、副部長を務める部活の後輩の指導をし、クラス代表である弁論大会の原稿を書き、美術の先生の個展に花を持って行った。


 夜は六本木のクラブに通い、渋谷を歩き廻り、ティーン紙の編集部に顔を出し、大学生との合コンに明け暮れた。


 タバコはラークを吸い、酒はブランデーとシャンパンを好んだ。


 本を読むのが好きで、その頃読んでいたのは、シェイクスピアと夏目漱石だったと記憶する。絵画は、ピカソとルネサンス画をよく好み、モディリアーニ展では深い感銘を受けた。音楽はヴェートーベンとブラックミュージックを好んで聴いた。


 私の心は、もうどこにも見つからなかった。


 それがどんな形をしていたのかさえ、思い出せなくなった。


 何かが壊れる音だけが、ずっと耳にこびりついたまま、離れることはなかった。


 体の感覚がなくなって、治まっていたはずの自傷衝動に駆り立てられ、アスピリン剤を毎日一箱飲み干した。


 夜眠ることが出来ずに、徹夜と過剰な睡眠を繰り返した。


 あの人を殺す夢に、うなされた。


 私は異常で、普通じゃない。病気なのかも知れない。それを誰にも知られてはいけない。そういう恐怖に押し潰されそうだった。


 キャバクラで働き始めてから出会った男がいる。


 明け方の環状道路で、酔っ払った私がそいつにぶつかった。


 その拍子に外れた男のコンタクトを、一緒に探してやったのがきっかけで、その男の家に寝泊まりするようになった。


 セックスのひどく下手な、不細工な男だった。


 その男とも、キャバクラを辞めるのと同時に会わなくなった。


 もともと付き合っているつもりもなかった。


 私はその男に、何一つ本当のことを話さなかった。


 名前、誕生日、年齢、偽らなかったのは性別くらいのものだろう。


 変わった男だった。


 何の疑いも持たない男だった。迎えに来いと言えば迎えに来て、欲しいと言ったものは買って来るような男だった。


 だけどお店に来いというと、それは出来ないと言う男だった。


 それでも私のことが好きだという、男だった。


 ひどく振り回して、ゴミのように捨てた男だった。


 それでもその男は、私は優しい女だと言った。


 だから私は、その男に会わないと決めた。


 彼と過ごしたあの夏は、確かに私はよく笑っていた。


 酒を浴びるほど飲んで、息が止まりそうな程に朝まで笑い転げた。


 毎日が、楽しくて、楽しくて、仕方がないと言った私を、男はただ悲しそうに抱きしめた。


 そういう顔が、私は大嫌いだった。


 名前も思い出せない彼女とは、それきり連絡を取らなかった。


 客とも、レイカとシュウとも連絡を取らなかった。


 しばらくして、サウナでばったりシュウと会った。


 制服姿で友人と笑い合う私に、シュウは驚きの表情を見せた。


「嘘ついてて、ごめん。私、中学生なんだ」


 そう言うのが精一杯だった。


 割と知られた私立の女子校の制服を隠すようにして、その場を立ち去った。


 彼女が何を思ったのか分からない。


 嘘つきだと、思ったかもしれない。


 帰る場所がない人間と、そうじゃない人間、私はどちらに見えていただろう。


 世間知らずの幸せそうな悪ガキに見えていただろうか。


 あの夏のことを、私は今でも思い出す。


 名前も思い出せない一人の女性の笑顔を、思い出す。



 優しい人だった。



 彼女は今どうしているだろう。終わりそうにない、蒼い月夜がやって来ると、そうしきりに思い出す。


 彼女が、今幸せになっていたらいいと思う。


 大きな庭付きの家に住んで、犬を飼って、たくさんの子供に囲まれて、今日の献立を考えていてくれたらいいと思う。


 少なくとも私は、彼女という存在をけして忘れない。


 もう一人の私だった彼女の優しさを、美しさを、忘れたくないと、思う。


 そう私が思っていることを、今あなたに、知って貰いたいと思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

名もなき花 林桐ルナ @luna_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ