June : Day 03

Episode 060 「好意の表側」

 智史が廊下を歩いていると、後方から呼び止める声が届いた。そちらを向くと見覚えのある顔が近づいてきて、上目遣いで挨拶をしてくる。


「こんにちはです。久しぶりですね先輩っ」


 振り撒かれる笑顔に気圧されながら智史もとりあえずの言葉を返す。


「こんにちは…………。ああ、前に恋愛相談に来た……」


 智史は認識を改める。既視感のある溌溂とした言動は、一年生でバスケ部のマネージャーを務めている女子生徒のものだ。初対面の際は三年生の先輩と交際するために助言を求めていた。杉山が取り乱す要因を作った人物でもある。

 対して、相手はワンテンポ遅い反応を怪しんでいた。


「そんなにわたしって印象に残らない顔してます?」

「顔がどうとかじゃなくて……一度話をしただけなんだから、こんなもんだろ」

「まあ、別にいいんですけど」


 あからさまに表へ出すようなことはしないが、薄いリアクションが不服らしい。しかし、接点の少ない人間のことを忘れてしまうのも無理からぬことではある。


「――で、梨紗りさちゃん。あたしに説明はなしなわけ?」


 もう一人、今度は智史の知らない女子生徒が歩み寄ってくる。


「ご、ごめんなさい棚橋たなはし先輩」

「謝らなくていいって。それで梨紗ちゃん、この子は?」


 梨紗という名前であることを初めて知った智史。後輩の顔と名を覚えるために視線を動かすと丁度目が合う。自己紹介をしろと促していた。


「二年生の和島智史です」

「あたしは三年の棚橋知華ちかでーす。よろしくねー」


 言うやいなや、棚橋は後輩男子の肩をオーバーに叩く。フランクな振る舞いを責めることはないが、いきなりの距離の詰め方に智史は足を一歩引いた。


「同じバスケ部の人間なんですけど、棚橋先輩は性別問わず誰に対してもこういうノリなんで。そんなに構えなくてもいいと思いますよ」


 それは同じ後輩の立場にある者としての言葉である。


「お、おう。了解した。…………梨紗、さん……?」


 現時点で苗字を把握していない智史は恐る恐る下の名前を口にした。そのたどたどしさを目の当たりにして棚橋が声を上げて笑い出す。呼ばれた当人も苦笑いをしていた。


「そういえば、わたしもちゃんとした自己紹介はまだでしたっけ……。渡辺わたなべ梨紗といいます。和島先輩の好きな呼び方で結構ですよ?」


 渡辺は助け舟としてフルネームを名乗りつつ、誂うような文句を付け加える。


「そりゃどうも、渡辺さん」


 智史が選ぶのは当然苗字だけだった。


「ところでさ、梨紗ちゃんがさっき言ってた男子ってこの子?」

「そうですよ」

「……なるほどね、確かに弄りたくなる雰囲気してるわ」

「おい一体どんな表現をしたんだ渡辺」


 勝手に進む話の内容に智史は警戒心を隠せない。


「それはもちろん、可愛らしい先輩がいたって話をしてただけですけど?」


 渡辺は悪びれもせずに疑問の残る評価を下していた。

 真正面から対抗しても分が悪いと踏んだ智史は早々に話題を切り替える。


「はいはい……。今日はまた恋愛相談でもしに来たのか?」

「梨紗ちゃんの話を聞いて面白そうだから来ましたー。みんなでお昼を食べながらのお喋りってやっぱ楽しいよねー」


 回答は棚橋のほうから返ってくる。見せつけるように持ち上げたビニール袋の中には紙パックのミルクティーとサンドイッチが入っていた。渡辺も鞄を持参している。

 これからのことを想像した智史は無意識に頭を掻いていた。




 カウンセリングルームでは笹原と早川が昼食の準備を済ませ、三人が揃うのを待っていた。けれど、この場にいる人間は五人。弁当に箸が伸びるのはもう少し先のことだ。


「――わたしのせいで迷惑をかけることになってしまって、すいませんでした」


 智史が定位置に着いて鞄を漁っていると、渡辺が頭を下げ謝罪を切り出した。


「杉山先輩と口論になったって聞きました。直接ではないにせよ、わたしの行動が原因でそうなったことには変わりありません。だから……」

「そんなに畏まらないで。こればっかりは事故のようなものよ。あの先輩の態度に難があっただけで、あなたに罪はないわ」


 先日の笹原と杉山の対立は、数日が過ぎても智史にとって新しい記憶である。第三者として双方のことを考えれば、謝ろうとする気遣いも不問だとするも心配りも理解ができる。


「そうだとしても、無関係だったはずの人を巻き込んだのは事実ですから」


 しかし、渡辺は自身の中にある筋を通そうとする。

 堂々巡りを予感した笹原は切り口を変えた。


「彼氏さんとはうまくいってるの?」

「え……はい。お陰様で」

「昨日も梨紗ちゃん、超絶惚気けてたよ」

「せ、先輩っ! お願いですから今は控えてください!」

「はーい」


 歳下の注意を受けた歳上が間延びした返事をする。

 沈みそうな雰囲気を、気さくな棚橋の人柄が和らげている。


「まあ渡辺だって朝っぱらから絡まれたりしてただろ。今回は相手が悪かったってことじゃないか?」


 良かれと思い発言をすると、智史は渡辺から奇異の視線を浴びた。


「見てたんですか……。昇降口の近くじゃ誰が見ててもおかしくないですけど。それだったら止めに入ってくれても良くないですか和島先輩?」

「いやいや、ほぼ部外者の俺が割り込んだら確実に話がこじれるって」

「ですよね、言ってみただけです」

「……困らせたいだけの適当な発言はやめろ」

「てへり」


 智史は一度調子を取り戻すためにペットボトルの水を口に含む。


「梨紗ちゃんの彼氏はこういうお茶目なところも気に入ってるらしいよ」

「相性がいいなら長続きしそうですね」

「うんうん、相談を受けた甲斐があるわ」


 笹原と早川が微笑ましそうに渡辺を見つめた。

 マイペースな棚橋は目を離すと口の戸が外れてしまうらしく、渡辺が慌てて制止を試みる。


「だから棚橋先輩、そういうのはあとでいくらでも引き受けますから。ここでは……」

「ごめんごめん。梨紗ちゃんの反応が可愛いもんだから、ついね」


 程良い感触を得られて満足したらしく、態度を改めた棚橋は本筋について言及した。


「実際問題あのバカが八つ当たりしたのが悪いんだし、それでこの話は終わりってことでいいんじゃない? 張本人の夏実なつみはもう次の男を探してるよ。そう考えると気にしたら負けみたいなさ」


 近況を聞かされた全員が呆れを含んだ表情をしていた。

 恋に生きる盲目的な女子はあまり後ろを振り返らないのかもしれない。だからこそ積極的に異性と関わるモチベーションを維持できるのだろう。こればかりは杉山夏実という人間が有していて、智史と笹原には見られない気質だった。


「それはそうと……ここで油売ってていいの、梨紗ちゃん?」


 棚橋に指摘され、渡辺が掛け時計に目を遣ると小さく声を上げる。そして鞄の中を探り、笹原の前に差し出した。両手で持つそれはレモンティーのペットボトルである。


「なんの足しにもならないかもしれませんが、良かったら」

「分かったわ、受け取る。だけど、これを渡した以上この件は今日でおしまい。それでいいわね?」

「はい。ありがとうございます。……では、わたしは用事があるのでこれで失礼しますね」

「素直に『大好きな彼氏に会いに行く』って言えばいいのにー」

「棚橋先輩っ!」

「行ってらっしゃーい」


 言いたいことを言いたいだけ口にして、棚橋は一方的に渡辺を送り出そうとしていた。不満の一つや二つが浮かんだようだったが、優先するべき物事の順位は変わらなかったようだ。


「……また何かあったら、その時はお願いします」

「ええ。いつでもここを頼ってね」


 早川は快く受け入れることを約束する。

 それが済むと、渡辺は足早にカウンセリングルームを退室した。


「残るってことは、棚橋さんも何か話したいことがあってここへ来たのかしら?」


 早川が発言を促そうとすると、後輩の背中を見届けた棚橋は軽快な口調で目的を告げる。


「確かに今日は話がしてみたくて来たんですけど、別にあたしのことで相談があるわけじゃないんですよねー」

「あら、そうなの?」

「――あたしは笹原ちゃんに興味があるんだ」

「私ですか……」


 棚橋は、笹原のことだけを目で追った。


「とりあえず座る? わたしの隣で良かったら」

「どうもどうも。お邪魔しまーす」


 早川に勧められて棚橋がソファに腰を落ち着ける。

 そのポジションは笹原と向かい合う形である。

 ビニール袋から取り出した紙パックのミルクティーにストローを差しながら、棚橋は不思議そうな顔をした。


「食べないの?」


 智史と笹原にとっては初対面の相手。棚橋もそれは同様だ。

 しかし、自然な振る舞いをする棚橋はなんの躊躇もなくサンドイッチを開封して口を付け始めた。良くも悪くも、周りの環境や他人の存在には左右されない性格をしているらしい。

 気にかけることに意味はないと悟った笹原が弁当に手を伸ばす。


「……頂きます」


 続くように智史も早川も食事を始める。

 どこかぎこちない空気に反して、自由気ままな棚橋は特別何を意識することもなさそうだった。遠慮のない態度は生来の人間性によるものだろう。

 先輩という目上の立場であっても、笹原は下手に緊張をしなかった。


「杉山先輩とはどういう関係なんですか?」

「んー? 友達だよ。時々マジで意味不明な時もあるけど、傍から眺めてる分には面白い奴、みたいな?」

「面白い、ですか……」

「下世話な話をするとさ、痴情のもつれって愉快だよね。梨紗ちゃんに対する夏実のブチ切れ方とか超ヤバかったんだから。あれは近くで見れてラッキーって感じ」


 棚橋は満面の笑みを作る。

 自ずと智史は忌憚のない印象を述べた。


「素敵な関係性ですね」

「我ながらそう思うわけよ」


 一方、笹原の表情が硬くなっていた。今の応答でこれからの話題の毛色を察してしまったのかもしれない。


「ねえ、下の名前なんて言うの?」

「由美奈ですけど」

「ふうん、オッケー。それでね、夏実の奴がすげー嫌そうに由美奈ちゃんのこと話してたから、どんな子なのかなーって思ったわけ。普段から誰にでも噛みついて口喧嘩とかしてるほうだけど、あそこまて根に持つような相手はいなかったのよ」


 唐突な名前呼びに笹原は眉をひそめながらも、わざわざ咎めるようなことはなかった。渡辺とのやり取りから改善は見込めないと判断したのだ。

 同席はしていても蚊帳の外にいる智史は、苦手な距離の詰め方だな、と他人事として眺めつつ再度の認識をする。


「私は、期待されるほどの愉快な人間じゃないと思いますよ」

「それはあたしが決めるの」

「…………そうですか」


 笹原は隠さずに溜め息を吐いた。展開を予見して事前に予防線を張ろうとしたものの効果はない。露骨な態度の変化も気に留めず棚橋は質問に移る。


「それにしても夏実と梨紗ちゃんが言ってた通りだ。結構な美人さんだねー。周りからも言われるでしょ? 男にも困らないだろうなー。ねえ、彼氏はいるの? まさか隣のが彼氏だったり?」


 無関係だと決め込んだ矢先のこと。水を飲んでいた智史は盛大にせた。


「先輩はこれを隣に置きたいんですか?」

「んー。歳下は趣味じゃないかなー」

「だそうよ? まだまだ独り身が続きそうね」


 笹原が意地の悪い笑顔を作る。智史に対する軽口は第三者の有無で変わるようなものではない。ただ今回のそれには別の意図が含まれていた。


「二人のお喋りなんだろ? いちいち俺を巻き込むなって」

「別にいいじゃない、少しくらい混ざってみたら」

「今のあたしは由美奈ちゃん一筋だよ?」


 矛先を少しでも曲げようと試みた笹原だったが、それは失敗に終わる。この場に居合わせただけの智史は不服そうな視線を受け流した。

 二人による一連のやり取りを、棚橋は見逃さず視界に収めていた。


「もしかして、今は彼氏いない感じ?」

「そもそもですけど、今も昔も彼氏がいたことなんてありませんよ」

「嘘っ!? え……マ、マジで?」

「本当です。おかしいことですか?」

「いや、それは個人の自由だと思うけど……。そういや夏実も言ってたな、経験では勝ってるのにって」


 相手の年齢や態度に関わらず、笹原は自身の在り方を疑うことなく貫いている。

 だからなのか。


「なるほどね。面白いじゃん」


 心底楽しそうに。好みの玩具を目前にしたように、棚橋が笑う。

 笹原は思わず居住まいを正し、身構えた。


「選べる立場にはあるけど、選ばなかったわけだ。好みの男はいなかったの? それともアレか、恋愛が面倒臭い系?」

「人並みの興味は私にだってありますよ。だけど、寄ってくる連中に関心を向けたことはないですね」

「自分から積極的に探そうとか考えなかったわけ?」

「私の場合、誰が相手であれ周りの人間に余計な影響を与えてしまうので」

「…………? それは自分の気持ちより優先しなきゃいけないことなの?」


 事情を知らない部外者からの率直な疑問。

 どこまでを語るべきか、笹原は逡巡の末に答える。


「もし簡単に割り切れていたら、杉山先輩と口論なんてしなかったのかもしれません」


 落ち着きのある低い声が意見を淡々と伝えてくる。

 先日だけに留まる話ではないのだ。過去に何度も起こった衝突を乗り越えたその先に、この静けさはある。

 これを切り崩すには別の角度から手を打つ他にない。

 そして、棚橋は効果が見込める隙を容赦なく狙っていく。

 好奇の瞳は捉えたのは、唯一この場にいる男子生徒だった。

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純粋な十代はもう過ぎた 霧谷進 @ssm325

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