第3話 そして彼女は沸騰した

 二期制作決定と同時に発表された劇場版『なにもかもきみのせい』の公開前挨拶の会場は、当然のように殺人的な嫌悪感で充満していた。元から本職の声優ではないアイドルを主役に抜擢することにはかなりの反感があり、また完成された一期の補完として期待された劇場版および続編二期に霧島カノン演じる『桜乃カノン』が登場するということは、一期の完結編を求めていた視聴者に「このキャラの分だけ時間を消費しますよ」という通告に他ならなかった。つまるところカノン(どちらのカノンでも)は、招かれざる存在であり、横からちょっかいを出してきた邪魔者でしかなかった。それに加えてyoutubeを白熱させた霧島カノンの密会動画のせいで、余計な野次馬が感染性大腸菌のように大繁殖しており、舞台挨拶の観覧チケットが即日完売したのも熱心なファンが離脱しなかったというよりも、噂の霧島カノンが騒動から初めて公式の場に姿を現すのを見物しようとした連中のせいではないかと邪推の一つもしたくなる。すでにチケットは転売に次ぐ転売で大高騰しており、公序良俗に反したダフ行為が蔓延していることに事務所はまっとうな神経から抵抗感を示している。だからせっかく全高15メートルの1/1スケールで造られた、『なにきみ』の二足歩行型戦闘兵装・桜乃カノン搭乗機『明星』に桜乃カノン役の霧島カノンが実際に乗ってみせますよ、なんていうのはサーカス団の回し車を転がすフェレットよりも話題性に乏しかった。客が熱し望むのは人体切断ショーと相場が決まっている。

 舞台挨拶が始まり、サイズの小さいパイロットスーツに締めつけられながら、共演者や監督とステージでトークしている間も(監督が延々と喋りすぎ、誰も知らないような古い映画の話まで持ち出してきて、会場は完全に冷めきっている)カノンは観覧席の方をまともに見れなかった。逸らした顔、引きつった作り笑いの皮膚に針のような憎悪を感じる。共演者が必死にねじ込んだジョークも空振りし、まるで葬式のような静けさが1万人を収容できるホールに張り詰めていた。

 おまえさえいなければ――確かにカノンだって、ずっとずっと楽しみにしていたものを、どこかの誰かにいきなり台無しにされたら嫌な気分になる。水一滴だって、そういう大事なものには注いでほしくない。好きな音楽を聞いている時に、歌詞を下品に改変する男子がいたら睨むだけでは済まない、手だって出るかもしれない。カノンは現場入りする際に隣のビルの窓から投げつけられたらしい卵が直撃してまだわずかにぬめる髪を意識しないようにしながら、監督のつまらないトークに笑顔で頷き続けた。この分厚い顔の皮があれば、もっとラクに生きられたのかもしれない。でもカノンは、ここまで他人を拒絶して満足げな笑顔を浮かべられる人間の人生を、生きていると言いたくなかった。なんの意味もないと思った。

 まさか出演者にそんな失礼な喧嘩を胸裏で売られていると気づくことなく、監督の長話は途中で打ち切られ、司会者が「それではお待ちかね、劇場版に登場する新型機『明星』に、桜乃カノン役霧島カノンさんが搭乗致します! みなさま盛大に拍手を!」という当たり障りのない音頭もあっけなく観客から手厚く無視され、何事もなかったかのような司会者の真っ白な笑顔にだけ迎えられて、カノンはとぼとぼとハリボテに近づいていった。当然ながら、外側だけ取り繕った偽物だ。深緑色に塗装された手も足も、動くようになんて作られていない。見るものを満足させるためだけに取り付けられたに過ぎない。そんなハリボテの機械になんとなく共感しながら、カノンはキャットウォークを渡り歩いてコックピットに辿り着いた。合成ビニール製の安っぽいシートにとさりと腰を下ろす。観覧客から一人か二人を抽選してコックピットに招待する企画も予定されている為、内装はかなり作り込まれている。各種計器は本物の電装品から流用しているものもあり、イグニッション・キーをひねればモニターやランプ類も点灯するようになっている。プロデューサーの話では、カノンがコックピットハッチを閉じた瞬間に機体の背面上部にある巨大ディスプレイが点灯し、そこから劇場版アニメの予告動画のロングバージョンが初公開されるという演出になっているらしい。そこまで他人の気持ちを斟酌できるならカノンの気持ちも考慮してほしい。

 才能ってなんだろう、とカノンは思う。それはなにをしてもいい、っていうことなの? 漫画雑誌の編集者だったカノンの父親は、何人もの新人漫画家を追い詰めて自殺させていた。盗作もやっていたし、身体も喰いものにしていた。そんな父のことを母は「しょうがない人ねぇ」と笑っていた。だからカノンは聞いたのだ。

 どうして笑うの?

 母は「え?」と何もわかっていないような顔で見返してきた。それがお父さんの仕事なんだから仕方ないじゃない。仕方ない、そうか。カノンは納得しようとした。納得しようとし続けてきた。「あいつらは、俺達がいなきゃゴミなんだよ」と安い酒を飲みニュースで流れる自殺者の名前を「いたいた、こんなやつ」と笑いながら幸せそうに見続けて録画までする父親を、納得しようとした。

 でも、できなかった。

 愛せなかった。

 そんな父を。そんな母を。

 そんな家に産まれた、自分を。



 キーを回した。電装系が点く。ハッチが自然に閉じていく。巨大ディスプレイから『なにきみ』のオープニングテーマが流れ始める。アップテンポの明るい曲だった。恐れないで自分を信じて。そうすれば未来は拓けるから。

 じゃあそうする。

 カノンは操縦桿を握る。

 押した。

 ぐっと軽い圧迫感が背中にある。カノンの首がぐらっと揺れた。ずっとストレスの極致だったのだ。とても笑ったり喋ったりできる精神状態じゃなかった。操縦席の中にあるディスプレイモニターに、足元の会場が投影された。「は?」と口を丸く開けた共演者と監督、そして番組ディレクターと河野プロデューサーの呆けた顔。あまりのことに怒りも飛んだらしい。「これ、動くの?」とそばにいた美術スタッフに尋ねているのが口の動きと視線の気配でわかった。実演してあげればわかってくれるかもしれない。カノンはさらに操縦桿を押し込んだ。視界に明星の樹海じみた命緑の脚部が映り、そして何か話し込んでいた河野たちが見上げる暇もなくそれを踏み潰した。

 ぐしゃり、という幻聴。

 操縦桿からわずかに返ってくるトルクのかかった手応え。

 明星の脚部底から河野の血が腐った黄身のように流れ出してくる。備えつけられた外部音声を拾うスピーカーからハウリングした観客やスタッフの悲鳴やどよめきが聞こえてくる。カノンの濁った瞳が逃げるかどうするか迷った挙句にスマホを取り出した観客を捉える。あの覗き魔もそうやって逡巡したのだろうか。撮影を開始する直前まで、そいつにはスマホをしまって近くの喫茶店にでも入って何も見なかったことにしてブレンドコーヒーを頼む選択肢があった。カノンの人生をぶち壊し、カノンの想いを踏みにじらなくても済むやり方があった。

 でもあいつはそうしなかった。

 そして今日も動画の続編を撮影するためにどこかでスマホを構えているのかもしれない。『霧島カノン、殺人鬼に覚醒!』。上等だ。やけに蒸れるドライブグローブに覆われた指を伸ばし、カノンはディスプレイモニターの兵装選択タブから『フィンガーマシンガン』をタッチした。当然ながら人間の生体電流を感知するタッチパネルは牛革越しには通電しないし、そもそも1/1スケール明星にはタッチパネル対応のモニターなど搭載されていない。

 だが画面は切り換わった。

 明星のEQUIPにF.M.Gのランプが灯る。

 カノンの両目が虚空に誘われる風船のように揺らいだ。

 あいつはどこだ。どこでもいいか。

 操縦桿のクレセント・トリガーに指をかける。

 撃った。

 ただの金属加工品でしかなかったはずの明星の指先から30mm徹甲弾がスイカの種のように吐き出された。腕を構える前に撃ったものだから最初は脚部そばにいたスタッフを皆殺しにし、それから反動でわずかに腕部が上昇していって観覧席の最前列を弾雨が舐め獲っていった。演技しているかのような派手な吹っ飛び方で人間が弾け飛んでいく。子供のイタズラのような雑な真紅が夕闇の影のように散らばった。その地獄の上をカノンは明星に歩かせてみた。死体も血も怨嗟の声も、この動くはずのない人型ロボットは破壊しながら進んでくれた。カノンが壊したくてたまらなかったものを簡単に壊滅させてくれた。これが力なんだ、とカノンは思う。男の子が憧れるわけだ。

 うっすら微笑み、まどろむように目を細めて、カノンはトリガーを引き続ける。

 弾丸が切れることは無論、ない。

 みんな死んでいく。牧野も、西岡も、大川も、共演者も、監督も。カノンがすがりつきたかった人たちが、カノンを道具としてしか見てくれなかった人たちが、みんな死んでいく。カノンは兵装タブからレーザーブレイドを選択。明星が歌舞伎がかった練のある動きで左肩のブレイドホルダーから熱剣を引き抜く。それを逆手に構えて、ようやく非常口から脱出を図ろうとし始めた観客たちのど真ん中に、カノンはレーザーブレイドを撃ち下ろした。

 人間が蒸発した。

 ぐりぐりと、パン粉でもこねるみたいに、カノンは念入りに観客たちを焼き殺した。恐怖と絶望で顔をぐしゃぐしゃにしながら死んでいく男たちを見下ろしながら、カノンは彼らに聞いてみたかった。ずっとずっと聞いてみたかった。どうしてアイドルが恋をしちゃいけないのか。どうして誰かを好きになったら商品価値がなくなるのか。人が誰かを好きになるのは自然なことじゃないのか。それをしてはいけないとどうして簡単に思えたのか。なぜそれを押しつけるのか。契約だからなのか。金を受け取ったアイドルが悪いのか。無償でやればよかったのか。聞いてみたかった。何もかも教えて欲しかった。答えが欲しかった。くれなかったから殺した。欲しい答えじゃなかったから殺した。


 わたしも幸せ、みんなも幸せ。

 そんな夢物語が欲しかった。

 それはそんなにわがままなんだろうか。みんなのための生贄でい続けなければわたしには商品価値がないのだろうか。お金を払えばなんでもできる。約束は護られなければならない。どんな苦痛があろうが関係ない。約束を破ったやつは生きていちゃいけない。だったらわたしはそれを逆にする。

 わたしを言葉で縛ろうとするすべての人間に。

 生きてちゃいけないと言ってやる。


 熱剣を納刀し、両手の指先に装備されたF.M.Gが客席に火を噴く。すべてを穴だらけにしてくれる。人間の身体に穴がひとつできるたびに瞳が見る視界が真実(ほんとう)に近づいていく気がする。

 なにもかも。

 消えてなくなれ。

 ありもしない約束と一緒に。

 わたしが捨てさせられた全部の希望の生贄に、お前らがなれ。

 嘘吐きはお前らの方だ。存在しないものを信じると嘘を吐き、わたしを契約漬けにした。そうすれば言うことを聞いてくれると思って。そうして奴隷にならなければならないのだと洗脳して。もう充分にわたしは苦しんだ。みんなのアイドル。一瞬呼吸をするだけで息がより一層苦しくなる酸欠の世界で、わたしは充分に歌った。

 今度はおまえらが歌え。死ぬとは思わなかったと叫べ。

 人を傷つけたぐらいで。

 悲しませたぐらいで。

 死ぬはずなんてないんだと、勘違いしたまま死ね!

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