第六章 その2 純水を作ろう!
水道水を蒸留して純水を作る。聞けば単純な話だが、これが思った以上に面倒くさいのだ。
「枝付きフラスコ、これで全部です」
化学室から準備室から、思いつく所全てを当たりかき集めた枝付きフラスコを俺は机に並べる。
「全然足りひん、丸底フラスコも使お!」
フラスコを支えるためのスタンドを準備しながら部長が指示を飛ばすと、俺は「はい!」と再び戸棚に向かった。
「ゴム栓はめるのけっこうコツがいるねん。ガラス管は思い切り押し込んでええで、滅多に折れるもんちゃうし」
俺たちが実験器具を集める傍らで、原田がトシちゃんと川勝に器具の使い方をレクチャーしている。ガラス管とフラスコを接合するためこれらの作業は、意外と力仕事だ。
たどたどしい手つきで「こうですか?」とつないだガラス管とゴム管を見せるトシちゃんに、原田も「そうそう」と笑顔を向ける。
そして一通りの器具を準備し終え、スタンドと水道水を入れて固定したフラスコにガラス管をてきぱきと繋ぎあわせていく。大量の純水を作るため、今回使うガスバーナーは化学室全ての机に設置された全12か所。なかなかの大仕事だ。
「ガラス管は下向きね。あと、先端を水に浸けたまま火を消してもあかんで。せやないとできた水が逆流するからな」
恐る恐る角度を調整するトシちゃんの隣で、原田が素早く器具を固定していく。一方の川勝は終始無言のまま、普段触り慣れていない器具にも関わらず恐ろしいスピードで準備を進めていた。
確かに、作業は着々と進んでいるが……どうも気がかりがあって俺は首をひねった。
「でもこれやと時間かかるな……冷却器使うか」
そう言って俺は準備室に飛び込み、棚からリービッヒ冷却器を取り出すと実験室に戻った。
リービッヒ冷却器。名前が妙にカッコいい実験器具ナンバーワンだが、聞いただけでどんな見た目かパッと浮かんだ方は相当理科がお好きな御仁だろう。
ガラス管の外側をさらに太い試験管で包んだような外見のこの器具は、外側の管に冷水を流し続けることで、ガラス管内に通した高温の蒸気を一気に冷やすことが可能だ。こうすることで蒸気を効率よく冷やし、蒸留の時間を大幅に短縮してくれる。
「こいつを水道とつないだら、ガラス管を流水が冷やして早く水を取り出すことができるんや」
おそらく初めてみるのであろう、不思議な形のガラス器具を興味津々に見つめるトシちゃんに思わず得意げに話す。だが部長は俺の手から冷却器を取り上げると、すぐに一番近くのフラスコにつなぎ合わせながら「冷却水は下から入れるんやで」と説明を加えたのだった。
おいおい、説明は俺の役目だろと嘆くものの、実験器具は操作方法を知らないと思わぬ事故につながるのは事実だ。
以前、硫酸銅水溶液をなみなみと注いだビーカーを一晩放置していたら、翌朝壁面にびっしりと青い結晶がへばりついていたことがある。それを掃除するため、水を入れて加熱してみたところ、突然ビーカーが底から砕け散ったことがあった。あれ、今思えば先に熱湯を作ってそれを注いだらよかったんだな。
化学生物部員総出の準備により、すべてのフラスコが意外と早く準備完了した。後はバーナーに火をかけて、水道水を加熱するだけだ。
「メ〇ゾーマ!」
丸岡先輩がマッチをすり、掛け声と同時にガスバーナーに火を点す。ガスの噴出と同時にぼっと巨大な火柱が上がるも、慣れた手つきでガスと空気の量を調節してきれいな青色の炎を作り出した。
「ファ〇ガ!」
俺も同じく、魔法を唱えて別の机のガスバーナーに火を点した。こうやって呪文を唱えながら火を点けるのが最近の我が部のトレンドだ。
原田が呆れて「もう、あんたたちは」と言いながらマッチを手に取る。だがその時、隣の机から、ぼそっと「PKファ〇ア」と呟く声が聞こえ、原田が力加減を誤り思い切りマッチをへし折ってしまった。
化学室すべての時が止まる。呪文を唱えたのは川勝だったのだ。
生物部ではガスバーナーなんて滅多に使うことは無いだろうに、洗練された手つきでガスバーナーに火を点す川勝。だがそれ以上に、川勝の発言に俺も部長も、そしてトシちゃんも絶句して固まっていた。
「何?」
川勝が不満気にこちらを見た。心なしかちょっと恥ずかしがっているようにも見えて、俺はついに吹き出してしまった。
「いや、意外とノリええんやなって」
「私はいつも平常運転やで」
そして調整した炎でフラスコの過熱を始めると、すかさず別のガスバーナーにも点火するため隣の机に向かったのだった。
そんな間にも先輩が最初に火を点けたフラスコは沸騰を始め、蒸気で管の内側が曇り始める。
そしてさらに待っていると、ガラス管の先端からぽたぽたと水滴が滴り始め、予め用意しておいた試験管の中に水がたまり始めたのだった。
「おお、出てきた出てきた」
試験管一杯に溜まるにはまだまだ時間がかかりそうだが、これでもリービッヒ冷却器を使っているだけかなり早い方だ。何せこれを使わなかったら、1秒に1滴とかそんなペースだからな。
「でも全然足りひんな……うちらだけでやるのは大変や」
12か所も一気に準備したおかげで少々疲れ気味の先輩は、額を拭いながらカバンから水筒を取り出した。この人、今の季節ならいつも冷やした昆布茶を携行しているそうだ。
「あのー、川勝さん……」
これからまだ時間がかかるのかと全員がため息を吐いていた時だった。半開きになった扉から部屋の中を覗き込んでいた誰かが声をかける。
「下地君?」
川勝が目を丸くして駆け寄った。バスケ部の男子で川勝と同じクラスの下地君が、申し訳なさそうな様子で立っていたのだ。
「これ、昨日のお詫びなんやけど、良かったら……」
部員が迷惑をかけたことを悔いているのだろう。居心地の悪そうな彼はそう言いながら、紙袋をそっと突き出す。
「え、でもそんな」
「ちょうどええや、ちょっとこっち来て!」
川勝が紙袋を受け取り、言葉を返そうとしたまさにその瞬間、目をぎらつかせた丸岡部長がふたりの間に割って入る。そして下地君の腕をがっしとつかむと、そのまま部屋の中へと引きずり込んだのだった。
「え、ええ?」
当然、困惑してきょろきょろと辺りを見る下地君。
「とりあえず純水が大量に必要やねん。人手がいるから、あんたも協力してや!」
こうなったらもう止められない。立場上断れるわけもなく、部長の命令に下地君は「は、はあ」と頷くしかなかった。
「いつも強引やな」
憐れな下地君に同情しながらも、俺はぼうっと突っ立ったままの川勝にそっと近づく。そして力無く手に持っていた紙袋の中身を横から覗き込んだ。
「お、マールブランシュやん!」
なんとそこに入っていたのは京都府民の誇るケーキ店の箱。
下地君ありがとう。俺、女子だったら君に惚れちゃってたかもしれない。
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