第六章 その3 蒸留の合間に

 蒸留の作業で純水を作り始めた俺たちだが、やはり大量の純水を作るとなると短時間では終わらない。


 時刻はすっかり夕方を迎え、化学室には赤々とした夕陽が差し込んでいた。それでもなお、明日には実験用の桶を作ると考えると、まだまだ帰れそうにない。


「飽きてきたな……」


 炎に炙られて沸騰するフラスコを覗き込みながら、原田がぼそっと漏らす。集中力を維持できなくなってきたのか目から光が失われている。


「ほなとりあえずX、Y、Zが互いに素の自然数であり、かつnが3以上の自然数のとき、Xⁿ+Yⁿ=Zⁿは絶対に成り立たないのは何でか、みんなで考えよっか」


 同じくガラス管から滴り落ちる蒸留水を眺めていた丸岡先輩が、嬉しいのか死にかけているのか奇妙な笑いを交えて生気の抜けきった顔を上げる。


「最終定理やないですか。高校生には無理でしょ」


 大げさに反応したのはトシちゃんだった。彼はこのメンバーの中では最も普段に近い元気な顔をしていた。


 やはりトシちゃんも文系とはいえ自然科学系の部に所属する中京高生、あまりにも有名な数学の理論くらいは知っている。


 だがひとつ、彼は勘違いしている。高校生だからと理解できないなんてことは絶対にない。


「いや、物理地学部の田中やけど、あいつこの前フェルマーの最終定理の本読んでめっちゃ感動しとったで。なるほど、こんな解き方あったんか、て。あいつなら全部理解してるやろ」


 俺はフラスコの中で沸き立つ泡をじっと睨みながら口をはさんだ。聞くなり原田は「はあー」と深くため息を吐くと、机に腕を伸ばして突っ伏した。


「田中君賢いもんな。私らとは頭の構造がちゃうで」


 うちの学年が誇る天才田中。全国模試30位という恐ろしい成績を叩き出しているのあいつの頭脳なら、東大理三だって余裕で入れるだろう。だが驚くなかれ、志望校は京大工学部機械工学科だ。


 関東の方なら不思議に思うかもしれないが、東大に合格できるスペックがあっても地理的にも経済的にも便利な京大を選択するのは関西の高校ではよくあることだ。むしろ一部の超進学校を除き、東大を受験する方が少数派だろう。うちの高校でも既卒生も含め毎年京大に50人ほどが合格しているが、東大は10人を超えれば多いと感じるほどだ。


「下地君ごめんな。手伝わせて」


 俺たちが一斉に話し出したことでずっと顔色一つ変えていなかった川勝も、さすがに集中力が切れてきたのだろう。隣で黙々と作業をしていた下地君に、申し訳なさそうに声をかける。


 だが下地君はにこりと微笑むと、爽やかに返したのだった。


「気にせんでええよ。これからも先輩の代わりやと思ってこき使ってくれたらええで」


 うん、本当にいい奴だ。だがそんな彼の姿に感銘を受けたのは俺だけではなかった。


「なんてええ子や、うちの部に入ってほしいくらいやわ」


 先輩が下地君に駆け寄る。そしてあろうことか、なんと先輩は下地君の背後から肩にがばっとのしかかるように抱き着いてきたのだ!


 このクソ野郎、俺だってまだされたこと無いのに。今すぐそこ代わりやがれ!


「それは遠慮しておきます」


 背中に当たる胸の感触にも顔色一つ変えず微笑み返す下地君に、俺は目の前のガスバーナー越しに嫉妬の炎をめらめらと燃やしていた。


 そんな風に意識を逸らしてしまっていた俺は、得られた蒸留水がすっかり満杯になってビーカーから溢れ始めていることに気付かなかった。


 一番最初に気付いた川勝が「あ!」と言って駆けつけてビーカーからガラス管を抜き、ようやく俺は正気に戻った。


「す、すまんな」


「ううん……白川君、ありがとう」


 顔を逸らしながら川勝は小さく言う。普通ならここでありがとうはおかしいだろう。


 だが川勝が何に対してありがとうと言っているのか、理解できた俺は「ええで」と言ってすっかり水の少なくなったフラスコを加熱していたガスバーナーの火を止めた。


「むしろ俺もちょっと楽しんでるわ。実験の内容考えるの面白かったし」


 思わぬハプニングで急遽進めることになったこの実験だが、実際にその内容をあれこれ考えるのは楽しい。どういう条件で、どういう比較をするのか。このわくわく感は旅行の計画を練るのと似ている。


「ねえ、気になるんやけど」


 川勝が尋ね、俺は今できたばかりの純水をビーカーからタンクに移しながら、「うん?」と間抜けに返した。


「白川君て、なんで化学好きなん?」


 空っぽになったビーカーを持って固まる。


 こいつから俺に質問を投げかけるとは、意外だった。昆虫以外のことはまるで無関心だと思っていたのに。


「そういや聞いたこと無かったな」


 話を聞いていた部長も割り込んだ。既に下地君の背中から離れ、目を輝かせてずんずんと近寄る。


「なんでやろ……気づいたら元素とかに興味持ってたからなぁ」


「それって何歳くらいから?」


 ビーカーを置きながら思い返す俺に、原田も尋ねる。


「うーん、小学校の時に科学の本を読んで……でもその時には……あ、そうや!」


 深く深く自分の記憶を辿る。そしてそのもっとも古い記憶、はっきりと覚えているある光景が浮かび、俺はポンと手を打った。


「5歳の時やな。台所で蛇口から出る水をぼうっと見てたら、ふと思ってん。水ってのは実は小さな粒の集まりなんやないかって」


 一同が「は?」と固まる。そりゃそうだろう、何も劇的なシーンではなく、自宅の台所の、そんなありふれた一幕がきっかけなのだから。


 原田が「何でそんなこと思ったん?」とさらに訊き、俺は当時の様子をありありと思い出しながら話した。


「いや、ホンマなんとなくやで。この流動性を持った水がカチコチの氷になるのを不思議に思って、ぱっと思いついた答えがそれやってん。ほら、子供用の遊び場にボールだらけのプールみたいなのあるやん、あんな感じのすごく細かいのが液体の水なんかなって。で、氷ってのはそれが互いにひっついて動かなくなったものやないかって」


 そんな素朴概念を備えていたおかげか、後から学校や本で原子や分子の存在や質量保存の法則について知ってもすんなりと理解できたのは幸いだった。実際に物質が小さな粒子でできているという考え方自体は古代ギリシアの時代から存在しており、1800年イギリスのジョン・ドルトンによって近代科学における原子説は確立された。歴史的には長い隔たりがあるものの、その根幹は同じ発想だったろう。


「よう思いついたな、そんなの」


 部長もへえと珍しく俺に感心する。そうだ、もっと後輩を敬いなさい、そして下地君にしたように俺にもハグしてください。


「今思えばそっからやな、この世界を形作る物質のふるまいについて興味を持ち始めたのは。まだ物化生地どころか理科と社会すら区別のついていない頃やけど、自然科学の本を図書館で借りて読み漁ってたわ」


 わざとらしくハハハと笑う。みんな俺にぽかんとした顔を向けてくれるのは気分が良い。


 だが川勝だけは違った。あんなに落ち込んでいたのが嘘のように、ぱあっと頬を紅潮させていた。そして「私もや!」と嬉しそうに話し出したのだった。


「私も一緒やで。家にあった昆虫図鑑を毎日毎日、何回も何回も擦り切れるまで読み直してた。あの図鑑は一言一句暗記してるわ」


 そう熱心に語る川勝だが、レンズの向こうのその両眼は、俺ではなく過去の自分を映し出していた。


 以前宇治川で聞いたように、こいつも生物が好きなのはこれと言った理由が無い。そして理由も無ければきっかけも無い、発端というのは大体そんなものだ。


「あんたら、似た者同士やな」


 間に立った原田がおちょくるように俺と川勝の頭に掌を乗せ、ぐりぐりとこねくり回す。


 俺がその手を払いのけていると、別のフラスコにも気を配っていた下地君が「あ、できましたよ!」と声をあげる。そのおかげで俺たちは作業中であることを思い出し、慌てて蒸留を再開したのだった。

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