第六章 その1 アイデアはふとした瞬間に浮かび上がったりする
食卓に並べられた今日の夕食はご飯に味噌汁にアジの開きと、いつもと特に代わり映えの無いラインナップだ。
だが姉ちゃんはホクホク笑顔を浮かべ、いっしょに並べられたタッパーの蓋を開ける。中は真っ赤な紀州梅干し、今日母さんが行きつけの漬物屋さんから買ってきたばかりだ。
「わあい、お姉ちゃん梅干しだぁい好き」
「おいおい、このままやと弟の顔が梅干しみたいになるで」
満面の笑みでご飯の上に梅干しを置く姉の隣で、じんじんと痛む頬をさすりながら俺は焼き魚に醤油をかけていた。
そして姉ちゃんは真っ白なご飯と真っ赤な梅干しを一緒に箸でつまみ上げると、そのままパクリと一口で頬張る。
「うーん、まいうー」
極楽浄土はここにあった。梅干しひとつで天にも昇らん顔を見せる単純な姉ちゃんだ。それにしても最近、この懐かしいギャグを聞いた覚えがあるのは気のせいか?
「姉ちゃん、梅干し好きやなぁ」
俺は味噌汁をすすりながら、ヒョイパクヒョイパクとご飯と梅干だけで一膳を完食してしまった姉を横目で見る。
「そら美味しいし、美容にも効果あるしな。お姉ちゃんがもっときれいになったら弟としても鼻が高いやろ」
「もうこれ以上美しくなる必要はありませんぜ、姉御。かっこよさのパラメータ、とっくに頭打ちしてるやろ」
「死ね」
食事中にもかかわらずチョップを繰り出す姉貴。今日も我が家の姉弟は平常運転だ。
俺は梅干しをひとつ、箸でつまみ上げ、ふとその艶のある果実を眺める。
思い浮かべたのは体育館裏の漬物樽だった。本来なら果実や野菜を漬けるために生まれてきたプラスチック樽だが、まさか虫好きの女子高生に買われて雨水を溜められて放置され、最後には洗剤をばらまかれるような生涯を遂げるとは思ってもいなかっただろう。
そして体育館の陰で初めて見た、川勝の泣き顔も。
想像さえしたことが無かったあの光景が脳裏にちらつき、どうも箸が進まない。今日の今日だけに、俺もだいぶセンチメンタルになっているようだ。
ところで……梅干しの成分って何が含まれていたっけな?
有機酸であるクエン酸は当然のこと、塩で漬け込むのだからナトリウムやマグネシウムも含まれているはずだ。そうなると燃焼させて残るのは金属成分だから、梅干しはアルカリ性食品か……。化学好きの身として、そういうことが気になる点は最早職業病である。いや、仕事でも何でもないけれども。
その時、漬物樽と梅干、そして成分。これらの単語が頭の中で混ざり合い、突如ひとつのまとまった形として現れたのだ。
これなら川勝の研究もどうにかなる。確信した俺は「せや!」と箸を置くと、放り出していたカバンにとびついて中から実験用ノートを広げた。
「どったのー?」
2膳目のご飯に梅干しを乗せながら不思議そうに尋ねる姉貴にも振り返ることなく、俺はシャープペンを走らせながら返した。
「良い方法思いついたで。いっそのこと水の性質と発生する生物の違いを比較するんや!」
翌日の放課後、俺は化学室に部員全員を呼び出した。
「こんなもんでええやろ」
机の上いっぱいに並べた小さなビーカー、それぞれに純水と適量の薬品を加え終えた俺は額を拭いながらふふんと笑った。
「シロ、どないしたん?」
机の上をしげしげと眺めながら原田が尋ねる。その隣の川勝は昨日の疲れがたまっているのか、すっかり黙り込んだままぼうっとした顔を貼り付けていた。
「生物部の研究の新しい切り口や。こうやって色んな成分の溶けた液体を用意して、生物の発生にどういう違いがあるのかを調べて比較する」
よくぞ聞いてくださいましたとばかりに、俺は並べたビーカーを前に両手を広げた。
具体的にはただの純水、水道水、石鹸水、プールの消毒槽を再現するため塩素を加えた水、さらにみんなで汲んだ地下水や、殺虫効果のあるという銅イオンを溶かした水も用意した。
こういった溶質の異なった水を川勝が今までしていたような形で容器に入れて放置実験を行い、容器ごとに発生する生物を比較するのだ。単純な発想だが、これも十分に立派な研究になるのではないだろうか。
ちょうどこれから夏を迎える季節、生物の活動も活発になり発生観察実験にはこれ以上ないほど適したシーズンだ。
「それ、ええやん!」
原田が身を乗り出す。こいつも川勝のことを心配していただけに、何かしら手を尽くそうとしていたようだ。
「川勝さん、いかがです?」
トシちゃんが真っ先に川勝に訊いた。だがその頬は紅潮しており、トシちゃん自身が賛成しているのは誰が見ても明らかだった。
川勝は分厚い眼鏡に顔を隠し、じっと黙り込んでいた。だがしばらくしてその眼鏡をはずすと、袖でごしごしと目を擦る。
そして再び眼鏡をかけ直し、俺に顔を向けてにこりと微笑んだのだ。
「白川君……ありがとう」
眼鏡を通してもわかるほど、その時の川勝の顔は緩んでいた。
「先輩、ありがとうございます! うちの研究も良い方向にもっていけそうです」
トシちゃんが子犬のように俺に駆け寄った。なんだか初めて後輩に尊敬されたようで、照れくさいのとちょっと嬉しかったのは秘密だ。
「けど問題は、大量の純水が必要なことやな」
だがすぐにこの実験の問題点に気付いたのは丸岡部長だった。部長はその胸の大きなふくらみを隠すように腕を組みながら、ポリタンクにためている純水が既に尽きかけているのを見てぼそっと呟く。
水なんて水道水を使えばいいじゃないかと思うかもしれないが、そうは問屋が卸さない。水道水には殺菌のための塩素や、地質に応じた金属イオンも少なからず溶けている。つまりは不純物を含んでいると言えば早い。
化学実験において実験に水道水をそのまま使うのはご法度。純度100%のH₂O、つまり純水が必要となる。
そのため俺たちは普段から『蒸留』という方法を用いて、水道水から純水を作っている。この『蒸留』については学校で習ったのを覚えている方も多いだろう。
丸底フラスコにためた水道水を熱し、沸き立った蒸気をガラス管を通して別の容器まで誘導する。蒸気がガラス管を通っていく中で冷却され、気体から液体へと凝縮させることで不純物の取り除かれた純粋な水ができ上がる。この水を別の容器にためることで純水を取り出しているのだ。
この一連の操作は化学部員にとって必須スキルだが、準備が意外と面倒で操作を誤れば実験器具を破損させる可能性もあるので、意外とコツが必要だ。
だが、やることの決まった俺たちの決断は早かった。
「ほな、手分けして純水作ろっか!」
丸岡部長の声に、俺たち部員全員が「おお!」と声を揃えた。
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