第五章 その5 京都の夜
昼とは打って変わって、夜になれば京都の街はまた違った顔を見せる。我らが中京高校の周囲にも、少し頑張れば徒歩圏に祇園や木屋町といった歓楽街が位置している。特に京阪本線の最寄駅である祇園四条駅までは、京都市内でも一二を争うほど通りが多い大通りだ。
建物に沿って延々と歩道を覆うアーケードの隙間から、カラオケ店や百貨店の看板が覗き見える。昼間の落ち着いた色調とは違うネオンの色彩のおかげで、道行く人々もどことなくエネルギーにたぎっているように思えた。
そんな京都の街を、俺は自転車を押して川勝といっしょに歩いていた。普段ならもっと人通りの少ない裏道で自転車を転がすところだが、今日は川勝を駅まで送るためこの大通りを通って帰っていたのだ。
原田と部長は家が遠く、トシちゃんは習い事のバイオリン教室があるというので先に帰らせたが、俺は家もすぐ近くなのでこんな時間まで川勝の研究を手伝っていた。とはいえ、今まで取ったデータを読み返してこれから必要な物を準備するのが主な内容だったので、俺はノートと睨めっこする川勝の傍でずっと待っていて時たま出される指示を聞いて準備室からプラスチックケースだの採取した昆虫だのを出してくるくらいしか役に立っていなかったのだが。
「川勝、ぶっちゃけた話、研究は間に合いそうか?」
ずっと黙って歩いているのに耐えられなくなった俺は、街の活気を借りてようやく尋ねることができた。
川勝は白だの青だの、何十もの光を眼鏡に反射させながら「……難しい」と小さく呟いて返した。
「あそこの樽が使えなくなってしまったからには、別の観察ポイント設けて間に合わせるしかない。けど条件が変わってもうたから、論文にどう落とし込むか考えなおさんとあかん」
「手伝えること、あるか?」
「ありがとう。でもええで、私らでなんとかうまくまとめるから」
俺は再び黙り込んでしまった。だがしばらくして川勝はこちらを向き、口の端を上げた。
「もう、そんなシリアスな顔せんといてよ」
そして笑いながら俺の背中を軽く叩く。
だが、わざと明るく振る舞っているのはバレバレだった。眼鏡のレンズ越しに見えた両目は、まったく気力がこもっていなかった。
「今日はだいぶ遅なってしまったからな。お母さんに怒られるの憂鬱やわ」
「厳しいんやな、お前のお母さん」
「厳しいだけならまだええわ。娘の趣味を理解してもらえないのは辛いで」
そういえば今朝聞いたが、川勝の母親は虫嫌いなんだったな。
家では肩身が狭く、学校でも理解を得られず挙句妨害までされる。本当、こいつにとって好きを貫き通すことがどれだけ大変だろうかと同情してしまう。
四条大橋を渡ってすぐ、祇園四条駅で川勝と別れ、そこから俺は自転車に乗って鴨川沿いを北上した。そして神宮丸太町の交差点で右折し、大通りから細い路地に入って昔ながらの自宅に帰る。
「ただいま」
「おかえりー、遅かったなぁ」
ぴょこっと座敷から顔を出したのは姉ちゃんだ。テレビでも点けているのだろう、アナウンサーの話している声が聞こえる。
「ちょっと大変なことなってな。このままやと生物部、研究間に合わへんかもしれん」
俺は靴を脱いで座敷に上がり込むと、カバンを投げ捨てて畳の上に座り込む。確かに、居間のテレビでは夜のニュースが流されていた。
「ふうん、そうなるとあんたらの不真面目な研究だけで挑まなあかんわけやな」
「化学部でも研究だけは真面目にやるで、多分」
そう言って俺は学生服のボタンをはずし始める。この時間ならすぐに寝間着に着替えてもいいだろう。
「あ、ご飯もうできてるし早よ着替えや。もうおなか減って餓死しそうやで」
「腹に蓄えられた脂肪あるから、一週間くらい何も食わんで大丈夫やろ、ラクダみたいに」
直後、俺の横っ面に姉貴の右ストレートが叩き込まれた。余計なことを言うものではないな。
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