第五章 その4 中学の川勝智子

「あれは僕が中学の頃……智子さんは科学部で、僕はサッカー部でした」


 吹奏楽部の練習する音が聞こえる中庭、俺とトシちゃんは机を囲んで座っていた。置かれているのは自販機で買った飲み物、俺は微糖コーヒー、トシちゃんはオレンジジュースだ。


「で、サッカーの練習していると、いつも智子さん、運動場の隅っこをひとりで歩き回っているんです」


「ひとりでか?」


 缶コーヒーのタブを外しながら、俺は訊き返した。


「ええ、うちの中学の科学部って、どこの部にも馴染めないタイプの生徒の最後のセーフティネットみたいな感じで。部活への加入は絶対でしたから、不真面目な生徒がほとんどで実質ネットサーフィン部やったんです」


 トシちゃんは神妙な面持ちで話す。俺の通っていた中学校は生徒数が多いこともあってか、部活への加入は自由だった。そのためか俺の中学の科学部は比較的真面目に活動をしており、仕方なく時間を潰すためにダラダラしていることはなかった。


「でも智子さんは違いました。家ではできない生物の研究をするため、毎日誰よりも遅くまで学校に残って校内の生物の観察とか、ひとりでやってはったんです。僕がグランドの片付けしてるときも、雨で室内で階段ダッシュしてるときも、いつも外出てはったんです」


 どうやら川勝は中学の頃からあまり変わっていないようだ。


「で、ある日練習中にボール拾いに行ったら、ちょうど草むらで昆虫探してた智子さんとバッタリ出会ったんです。向こうは僕のこと知らないですけど、こっちはいつも見ていましたからね。で、ついに話しかけたんですよ、いつもいつも何が楽しいんですかって」


 なかなかに思い切ったことを聞いたものだと感心した。まだ中学生とはいえ、一度も口を聞いたことの無い相手に言えるようなセリフではない。


「そしたら智子さん、言わはったんですよ。さあ、何でやろなって。こんな研究して何かの役に立つわけでもないし、そもそも役に立てようとも思っていない。自分でも何のためにこんなことしてるのかよくわからないって」


 ほんの少し、トシちゃんが笑う。


「でも、その後に言わはったんです。私は昆虫が好き、地道でも面倒でも、研究してるこのときが一番幸せを感じるって。その時の智子さんの嬉しそうな顔といったら、サッカーの試合に勝ったときのみんなと同じ、いやそれ以上でしたよ。友達同士、付き合いのためにその場の雰囲気を楽しんでいるのを演じているんやなくって、本当に自分の心の底からやりたいことを他人に何言われようと続けているっていう風に思えました」


 以前、宇治川で話してくれたのと同じセリフだ。川勝は中学の頃から、確固たる自我があったのだ。


「いつの間にか僕、部活の合間に智子さんと話すようになって。まっすぐな智子さんを応援するようになっていたんですよ」


「なるほどね」


 それがいつの間にか好意に変わってしまったのか、とはさすがに言えなかった。トシちゃんが川勝第一の行動を取るのも、こういった長い付き合いあってのものだろう。


「ですがほら、変わったことしてる子ってからかわれる対象ですから。サッカー部でも怪人虫女とか散々な陰口言う人がいて。智子さんはまっすぐに、自分の好きなことを真剣に取り組んでいるだけです。誰かに迷惑かけているわけではないし、道に逸れたこともしていません。それでも人と変わっているってだけで、不当な扱いをされるのはあまりにも可哀想すぎる」


 俺は「あー」と返事に困った。


 高校生ともなれば他人は他人、自分は自分という考え方が自然と身に付いてくるものだが、中学生はそこらへんがまだ未成熟だ。自分と他人の距離の取り方を誤ったり、逆に無難な自己を意識し過ぎてしまうせいで、集団に強く依存してしまうことも多い年代だ。


 そういう時、最も注目されるのが多数派とはまるで違う行動を取る変わり者だ。川勝はまさにそれだったのだろう、かわいいものや男性アイドルの話題で賑わう中学生女子の中、ただひとり昆虫について研究していれば良い意味でも悪い意味でも目立つのは簡単に想像がつく。


「せやから僕、決めたんです。同じ中京高校行って、同じ部活に入って智子さんを応援するんやって。そういう邪魔する奴らがいたら、僕が守るんやって」


 トシちゃんがまっすぐに俺を見て言い切る。そこまで入れ込めるとは、見上げた根性だ。


 だが次の瞬間には視線を逸らし、口ごもりながらトシちゃんは続ける。


「でも……肝心なとこで僕は役に立てなかった。因縁つけられたのも僕のせいやし」


 強く握った拳にさらに力がこもり、軽く痙攣する。


 男にとって自分が役立たずであると自覚する時ほど惨めなものはない。俺はコーヒーを一口飲むと、一息ついてトシちゃんを慰めた。


「トシちゃんは気にする必要ないで。悪いのは部同士の取り決め破って因縁つけてきた方や」


 そう元気づけるも、トシちゃんはすっかり黙り込んでしまっている。


 その時、ポケットに入れていたスマートフォンがブブブと震え、俺は急いで取り出した。


 原田からの着信のようだ。画面をスワイプし、通話を始める。


「シロ、今どこにおんねん!」


 原田の声がぎゃんぎゃんと中庭に響く。こいつは元々の声量が大きい上に声質も通りやすく、内緒話も丸聞こえになってしまうタイプだ。


「ああ、中庭や。トシちゃんもいっしょやで」


「トシちゃんも? 男二人で何しとん、バスケ部の部長がもう来てるで。あんたらも早よ化学室戻って来ぃや」


「おうおう、すぐ行くわ」


 そう言って通話を切る。これ以上遅れると小言だけでは済まない、早く戻らないとな。


「ほな行こっか」


 俺が立ち上がると、トシちゃんも「ええ」とうつむきながら答え、結局開けることもなかった缶ジュースを手にして席を立ったのだった。


 中庭を横切りながら俺はちらりとトシちゃんを振り向く。ようやく缶ジュースを開け、一気に喉に流し込む彼の姿は紛らわし切れない自責の念に押しつぶされそうだった。


 だがこれだけは言える。トシちゃんは身体は小さいが、立派な男だぞと。


 その後、俺たち化学生物部一同は化学室に戻り、バスケ部面々の謝罪を聞いたのだった。実行犯ふたりもここまでの問題に発展するとは思っていなかったのか、すっかり消沈して縮こまっていた。

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