第五章 その3 安心しようとしていただけなのかもしれない
「ごめん、川勝さん、本当にごめん!」
朝のホームルームの始まる直前、2年5組の教室前に集まった俺たちに平謝りするのは川勝と同じクラスの下地君だ。他の生徒たちが何事かと口を開けて見ているが、そんなのまったく眼中にないほど下地君は必死だった。
「下地君、頭上げてぇな」
「そやで、下地君が謝る必要は無いで」
俺と原田とで何度も何度も頭を下げる下地君を宥める。スマホで俺のメッセージを受けて3年の教室から駆けつけてきた丸岡部長も「とりあえずもう十分やで」と優しく声をかける。
「さっき先輩に訊いても答えてはくれへんたんやけど、やっぱあのふたりやろ」
あのふたりというのは当然、連休中に化学室まで押し掛けてきた大柄な男子ふたりのことだ。バスケ部の中でも度々悪ふざけがすぎると評判だったらしい。
「この件については部長にも伝えてるし、顧問ももう知ってる。多分呼び出しかかって、みっちり絞られるとは思う」
「それならええんやけど、でもなぁ……」
俺はちらりと後ろに目を向ける。
「研究……どうしましょう」
ずんと沈んだ顔のまま壁にもたれかかる川勝に寄り添いながら、トシちゃんがぽつりと漏らす。話を聞くなり、彼もまた1年の教室から上級生だらけのここに果敢にも飛び込んできたのだ。
「今からやと間に合わへんのか?」
「そういうものやないんですよ、生物は」
苦虫を潰したようにトシちゃんが吐き捨てる。本当は怒鳴り散らしたいところだろうが、下地君の誠実な態度を見て衝動を必死で抑え込んでいるのだろう。
生物の研究は長期間に及ぶ観察が必要だ。さらに季節、被検体の状態などありとあらゆる要素によって結果に違いが生じる。多くの観察を通し、比較することで要因を調べる根気のいる過程をたゆむことなく続けねばならない。気温や湿度を徹底管理した実験室で完結する化学とはまるで異なるのだ。
そんな積み重ねが洗剤一本ですべておじゃんになってしまった。聞けばあの樽を置いたのは川勝が入学して間もなく、つまり1年ほど続けてきた研究を打ち止めにさせられてしまったのだ。この無念、そう晴れるものではない。
放課後、化学室に行く前に俺は改めて水の張った漬物樽をひとりで見に行った。
体育館裏には朝と同じように、まだ微妙に泡だったままの樽が放置されている。変わっているのは洗剤のボトルが消えていることだろうか。
川勝がずっと続けてきた研究、それを踏みにじられてどれだけ悔しかっただろう。覗き込みながら握りしめた拳に力がこもる。
それにしてもアメンボが溺れ死ぬという普通なら考えられない事態。一体どういったことかと考えていると、ふと
「そうか、洗剤が界面活性剤としてはたらいとるから、表面張力が失われたんやな」
アメンボが水面を走り回れるのは、ひとえに表面張力のおかげだ。意外に思うかもしれないが、水は身近に大量にありふれた物質だが実際は多数の特異な性質を備えている。表面張力もそのひとつだ。
水分子の化学式といえばH₂Oであることは広く知られているが、この分子は決して原子が一直線上に並んでいるわけではない。酸素原子(O)を中心に、水素原子(H)が『く』の字型、やや斜めに引っ付いている。
このおかげで水分子は電子の配置も一方に集中するため、電気的な偏り、つまり極性を示す。水が比較的電気を通しやすいのはこの極性に由来している。
この極性によって水分子同士は強く引かれ合い、互いに一塊になっていようとする。そのために水は机の上に落ちれば水玉を作るし、ガラスコップに注げば壁面に沿って少し盛り上がる。この力こそが表面張力で、無極性分子のベンゼン(C₆H₆)などでは生まれる表面張力も小さくなるのだ。
アメンボやミズスマシなど、水面を泳動する昆虫は細かい油を帯びた体毛を備えている。その体毛が水に弾かれ、表面張力によって押し上げられた体毛と水面の間に空気の膜が作られることで滑らかに動くことができるのだ。
だがそんな水でも、表面張力を失うことがある。それが洗剤などの界面活性剤を混ぜた時だ。
液体洗剤には脂肪酸ナトリウムなど、親水基と疎水基を持った界面活性剤、つまりは水にも油にも溶ける成分が含まれている。本来なら水だけでは落ちない汚れも水になじませる、そんな便利な成分だ。
だがこの界面活性剤、水面では水分子を全て蓋してしまうような形で結合してしまう。そのため水面での表面張力が弱まり、物体を押し返す力も弱まってしまう。
単に泥や生活排水で汚れるのとはわけが違う。水の性質そのものが変化してしまったせいで、普通の水なら浮き上がるところ、着水したアメンボはなすすべもなく沈んでしまったのだろう。
「これやと普通の生き物は育たへんな」
俺は水面を見つめてため息を吐いた。バクテリアくらいなら湧くかもしれないが、これまで観察してきた水生昆虫や微生物は死滅してしまったと考えてよいだろう。
「ん?」
その時、どこからか奇妙な声が聞こえ、俺はぴくりと耳を研ぎ澄ます。誰かがすすり泣いているようだ。
足音を殺し、そっと移動する。体育館の建屋の陰に隠れた、ここからは見えない場所から声は聞こえていた。
そしてその声の主を見た瞬間、俺ははっと声に出してしまいそうで、慌てて口を押さえた。
川勝が泣いていたのだ。小さく座り込んで、眼鏡をずらして何度も何度も目をこすりながら、ひっくひっくと嗚咽を漏らしている。
いつもぼうっとしているか、昆虫を見つけて異常なテンションになっているところしか知らない俺としては、一度も見たことの無い姿だった。
見てはいけないものを見てしまったような気がする。俺は何も見なかったぞと言い聞かせ、踵を返そうと足を動かす。
だが焦ったのが良くなかった、俺はぼうぼうに伸びた変な草に足を取られ、ガサガサと音を立ててしまったのだ。
「誰!?」
川勝がばっと頭を上げる。慌てた様子で真っ赤になった目をこちらに向ける彼女は、まっすぐに変なポーズで固まる俺をとらえていた。
「川勝……」
「なんや、白川君か」
そう言って改めて涙を拭いて眼鏡をかけ直す。再び俺に向き直った時には、目が充血している以外はいつもの川勝に戻っていた。
「恥ずかしいとこ見られたわ。でも、トシちゃんやなくて良かった」
「なんでや、トシちゃんの方が付き合いは長いやろ」
俺はひょうきんな口調で尋ねながら、川勝の隣に座り込む。だが内心はどんな言葉をかけるべきかとあれこれ考え巡らしていた。
「あの子には世話になってるけど、せやからこそ弱みは見せられへんから。白川君はほら、ちょっと距離あるから気楽やねん」
なんとなくわかる。近すぎるのも遠慮してしまう原因になってしまうのだな。友達には言えるけど家族には言えない秘密、みたいな。
わざとらしく笑う川勝に、俺も同じように作り笑いを返す。だがこの気まずい空気のままでいるのは何も良くない。数秒の後、俺はふうと一呼吸おいて「なあ、大丈夫か?」と尋ねた。
何が、とは聞けなかった。言葉にするのはあまりに辛かったから。
それでも川勝は分かってくれたようで、ぶんぶんと首を横に振るとにかっと笑ってくれたのだった。
「うん、もう平気。泣けるだけ泣いたし」
今日の彼女はよく笑う。若干の違和感を覚えながらも、俺は無難な会話を続けた。
「大変やったな。バスケ部の奴から聞いた話やと、部長がすぐ謝りに来るそうや」
「そう……ほな、ちゃんと誠意には応えんとな」
「研究は間に合いそうか?」
「たぶんいける。今までの観察記録使えば、それなりのものはできると思うで。まだ2年やし、またやり直したらええねん」
思った以上にはつらつと答える川勝を見て、俺はほっと安心した。
「そうか、そら良かった。研究、楽しみにしてるで」
最後に「ほな、後で化学室で」と言い残し、俺は川勝の元を去る。川勝も元気を取り戻したようで、安心安心っと。
いや……正しくは安心しようとしていただけなのかもしれない。あんなにわざとらしく振る舞うなんて、本当の川勝じゃない。
舌打ちをしながら後者に戻ろうとしていたその時だった。例の水樽のすぐ近くに、小さな人影が立っていたのだ。
「先輩……」
一瞬びくっと震えが、すぐに胸を撫で下ろす。トシちゃんだ。いつからここに?
「すみません、ずっと会話聞いてました」
俺の顔が何を言いたいのか伝えてしまっていたのだろう。察しの良い彼は視線をぷいっと背けると、ばつが悪そうに話したのだった。
「先輩、川勝さんは大丈夫だって言ってはりますけど……あれ、嘘ですから。あんなに傷付いてる川勝さん見るの、初めてです」
俺は「やっぱりそうか」小さく呟いて返す。トシちゃんは泡立った水面に目を向け、再びぽつぽつと話し出す。
「あの人、虫のこと以外何も考えてないように見えるから誤解されますけど、本当は誰よりも頑張り屋で繊細なんですよ。今までもずっと、こういうことありましたけど、でも今回ばかりはさすがに……」
「今までも?」
思わず大きめの声で尋ねかえしてしまい、俺はまたしても口を塞いだ。しばらくの間、トシちゃんはじっと睨みつけるように俺を見ていたが、やがて両の眉をハの字に垂らす。
「少し話しますね、中学のこととか」
そう言って小さく手招きする。どうやらここでは話しづらいのだろう。
俺は歩き出したトシちゃんの後を追い、この場から離れたのだった。
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