第五章 その2 やったぜ、そしてやられたぜ

「お前ら調子乗るのも大概にせえよ、あの汚い水でみんな迷惑しとんねん!」


 突如化学室に押し掛けてきた男子生徒はトシちゃんの腕をつかみ、投げるようにこちらに寄越す。


「トシちゃん、どしたんや?」


 トシちゃんの小さな身体を受け止めた俺は、力なく崩れそうな彼をさっさと椅子に座らせる。


「体育館裏で観察してたら……練習終わったバスケ部の3年に捕まりまして」


 怯え切ったトシちゃんは雨に打たれる子犬のようだった。不良っぽいのはやはり外見だけのようだ。


 そう言えば先日、川勝にバスケ部の男子が直談判に来ていた。体育館裏に放置実験のために置いた漬物樽について、先輩の中に不満を持っている人がいると。きっとこの大柄なふたりが、トシちゃんひとりでいたところを好機と睨んで因縁をつけて来たのだろう。


「あ、あの樽は研究のために必要で」


 後輩と部を守らなくては。ドギマギしながらも俺は身ぶり手振りを交えて大柄な男子に歩み寄る。


 だがそんな俺を後ろ手に制したのは丸岡部長だった。いつもの緊張感の欠片も感じられない目付きはどこ行ったのか、きりっとつり上がった眉と目は逞しさに満ちていた。


「部長とは互いに話つけて、許可ももらってるはずやで。バスケ部として部長を通して話しつけるならまだしも、個人でうちに文句言いに来るのは筋違いとちゃうか?」


 強く咎める部長は、声も威厳溢れるものだった。


「そんなん知るか、さっさとあの水どうにかせえよ!」


「抗議するならまずはバスケ部の部長を通してください、話はそれからです。でなければ顧問に言いつけますよ」


 なおも食いつく男子を前に実験器具を置いた原田も加勢する。だが相手もここまで乗り込んできた手前、簡単に引き下がることはできなかった。


「ふざけんな、お前らが好き勝手してるせいで誰が迷惑してると思っとんねん」


 大柄な男子のひとりが先輩の肩に手を載せた。この野郎、うちの部長に気安く触れやがって!


 だがこれを機会と見たのか、先輩はほんの少しにやっと口角を上げる。そして俺に顔を向けると声高らかに命じたのだった。


「シロ、やっておしまい!」


「はい、畏まりましたー」


 どこぞの悪の女幹部風に指示する先輩に、座布団でも運ぶように俺が従う。


 俺は机の上に置いてあったアンモニア水溶液の瓶を手に取って駆け寄る。そして詰め寄る男子ふたりの目の前でその蓋を開けたのだった。


「うわくっさ!」


 突如解放された強烈な刺激臭。揮発したアンモニアはわずかな水にも大量に溶け込む性質を持ち、鼻だけでなく目の粘膜にも沁み込んでしぱしぱと痛みつけるのだ。


 不意打ちに男子ふたりは堪らず退散し、扉も閉めず廊下に飛び出した。


「ちゃんと部長通してくれたら話受けたるわ」


 走り去るふたりの背中に手を振りながら、部長が勝ち誇った笑みを浮かべている。目でも洗いに行ったのだろう。


「先輩、ありがとうございます」


 瓶の蓋をしっかり閉める俺の隣まで近寄って、トシちゃんがぺこりと礼を言う。


 振り返った丸岡先輩はすでにいつもの気の抜けた調子に戻っていた。


「化学生物部の正式な活動を妨害されるのは我慢ならへんからな。それにあいつ、声がでかいだけで実際に殴ってくるようなことは無いで」


 どうやらあの大柄な男子とは顔見知りのようだ。まあ普段からこの学校では珍しくあんな感じなんで目立つだけかもしれないが。


「さ、実験続けよっか」


 そう言って部長は俺の持っていたアンモニア水溶液の瓶をぱっと奪い取ると、足取り軽く実験器具の並んだ机に戻っていったのだった。


 俺も気を取り直して先輩の後に続く。が、原田は口に手を当て、深く考え込むような仕草で黙ったまま立ち尽くしていたのだった。


「原田、どしたんや?」


 俺が尋ねる。途端、原田の目が妖しく光った。


「今のふたり……一見右が攻めやけど、実際は左が攻めやろな」


「こんな時まで気色悪い妄想すんな!」




 ゴールデンウィークが明けた最初の日。爽やかな初夏の空とは対照的に、久し振りの授業に登校する生徒たちの足取りは重々しかった。


 連休中は実験のために何回か学校を訪ねていた俺が何の新鮮味も感じず自転車に乗っていると、前方に小柄な女子生徒の後ろ姿が目に入る。


「おい川勝」


「あ、白川君。おはよう」


 やっぱり川勝だった。


「なんか嬉しそうやな」


「うん、保津峡でおもしろい昆虫捕まえてな」


「ああ、連休中にひとりで行っとったんやったな」


 最初はいつも無表情のコピペ顔なのかと思っていたが、実は笑ったり怒ったりしているのをなんとなくだが感じ取れるようになってきた気がする。


「うん、捕まえてから学校に戻って、生物室に置いてきたんよ」


「そんな遠回りして大変やな。家に一旦置いとけばええのに」


「うん、うち昆虫連れて帰れへんから」


「へ?」


 俺は言葉に詰まった。


 意外だった。家族の都合でペットの飼えない家というのは多々あるが、こんな筋金入りの昆虫マニアの川勝が、家で昆虫を飼っていないなんて。


「お母さん、虫って付くのは嫌いやねん」


 笑って答えながらも、川勝は少し寂しそうだった。


 なるほど、だからいつも遅くまで学校に残っていたのか。前に宇治川でトビケラを捕まえた時も、一旦学校に寄って帰ったな。


「でも虫嫌いの親から虫クイーンが生まれるなんて、誰も思ってへんたやろな」


「鳶が鷹を生むこともあるよ」


「お前の場合は鳶がカマキリ生むくらいのギャップや」


「うわ、ひどいこと言うな。見た目通りの性格やわ」


 はははと笑っている俺たちだが、実際カマキリの卵が孵化したときはあまりに衝撃的なので読者の皆様も是非とも一度ご覧下さい。


 いつの間にやら俺たちは校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替えていた。並んで話しながら歩いていると周りの風景も見えなくなるものだ。


「ほなうち、生物室寄ってくわ。みんな元気か確かめたいし」


「そっか、じゃあ俺にも見せてくれ」


 特に深い意味は無かった。昆虫に対しての知識と興味なら、俺よりも生物選択の原田の方が備えているくらいだろう。


 ただなんとなく、このまま川勝と放課後までご無沙汰になるのが惜しかったから。教室にもういるはずの澤田たちとも早く会いたかったが、あいつらはこれから部活が始まるまではずっと一緒にいる。もう少し長く川勝と話していたい、そのための口実だったのかもしれない。


 そんな俺のことなど気にしているのかいないのか、川勝は「ええよ」と答え、俺たちはまっすぐ生物室に向かったのだった。


 既に生物準備室にいた服部先生に部屋を開けてもらうと、川勝は窓際の机に並べられた何個もの水槽や虫かごへと急いだ。ここは生物部専用のスペースらしい。


「うん、元気」


 そして水槽のひとつに顔を近づけ、にこりと微笑む。透明なアクリルケースの中にはくるくると丸められた小さな葉やどこから取ってきたのか葉の付いたままの枝が放り込まれ、その表面を小さな黒い虫がペタペタと動き回っている。


「こいつらは何ていう種や?」


「オトシブミ。正確にはエゴツルクビオトシブミと、ヒメクロオトシブミやね」


「ああ、葉っぱでゆりかご作るあれか。変わった名前やから覚えてるわ」


 オトシブミ。その奇妙な名と独特な生活史のおかげで、昔テレビの教育番組で見たのを覚えている。


 カブトムシと同じ甲虫のなかまだが、注意しないと見落とすほど小さな昆虫。だがその生態は独特で、丸めた葉っぱの中に卵を産みつけ、幼虫はその葉をエサに育つのだ。


 種によって好む葉や葉の巻き方が異なり、中には円筒状に丸めた葉の葉脈をアゴで切断して地面に落としてしまうものもいる。


「江戸時代によく使われてた他人に手紙をこっそり渡す方法に『落とし文』ってのがあってん。手紙を小さく丸めて、こっそり道端に落として拾わせるっていう。それとよく似たゆりかごを作るから、オトシブミって名前になったんやって」


 テレビで見た記憶とリンクするようにしゃべり続ける川勝。やっぱりこいつは虫を見つめている時が一番活き活きしている。傍から見れば奇人にしか思えないだろう。


 だが俺はこいつのことを変わった奴だとは思っても、不快には思えなかった。分野は違えど俺も化学が絡めば同じような行動を取っているのかもしれないし、相手のことなどおかまいなしに語ったりしているかもしれない。一種の同族意識のようなものだろうか。


「まだホームルームまで時間あるから、体育館裏の様子も見てくるわ」


「なら俺も手伝うで」


 そんな川勝は俺にとっても居心地が良いのか、つい軽く乗っかってしまったのだった。




「実はあの水桶、前調べたらボルボックスがおってん。増殖してたら他の生物のエサになるで」


 ボルボックスといえば植物プランクトンの一種か。中学の理科資料集に載ってたな。


「そりゃええな、研究も一気に進むで」


 生物室を出た俺たちは下足に履き直し、体育館裏へと回った。自分たちと反対の方向に歩くのが気になるのか、登校する生徒たちがちらちらとこちらに眼を向けるが、ただでさえ変り者の多い化学生物部、これくらいの視線、とうの昔に耐性がついてしまった。


 暑くなったせいか以前よりも草は丈高く伸び、飛び回る羽虫も数を増している。本当に普段、誰もここに立ち入っていないのだろう。樽も体育館の壁際に、前見た時と同じようにひっそりと置かれている。


「ん?」


 だが、どうも様子がおかしい。奇妙な違和感を覚えた俺は、ちらりと隣を見る。


 川勝は小さく口を開けて震えていた。眼鏡越しにわずかに見えた瞳が大きく開かれ、たらりと額から汗が伝う。


 たちまち川勝は駆け出した。俺が「おい」と声をかける暇さえ与えず、急いで樽を覗き込む。


 そしてしばし覗き込んだ姿勢のまま川勝の身体はぴたりと固まっていたかと思うと、やがてへなへなと足から崩れてしまったのだった。


「な、何や……これ?」


 白を通り越して青くなった顔のまま震える川勝に追いつき、俺も後ろから樽を覗く。


 樽の中には前と変わらず水がたくわえられている。だが今、その水面は所々大小さまざまに泡立ち、虹色に光を反射している。濁った水の底の方には、動かなくなったアメンボなどの水生昆虫が沈んで溺れ死んでいた。


 そして足元に転がるのは見慣れない黄色のプラスチックの容器。そう、中身の空っぽになった液体洗剤だった。

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