第五章 その1 かき氷と定性分析

「さあ、できたで!」


 翌日、ゴールデンウィーク期間中にもかかわらず化学室には部員が集まっていた。


 昨日採取したばかりの湧水を化学室に備え付けの冷凍庫で凍らせ、先輩が家から持ってきたかき氷機で細かく削る。そして最後に先輩お手製の抹茶シロップが白い氷に垂らされ、まるで雪山に芽吹く新芽のようなコントラストを描いていた。


 最大の問題はかき氷を盛る容器がビーカーだのシャーレだの実験器具であることだが、うちの部活においてはいつものことなので気にしてはいけない。てかこのシャーレ、前に寒天培地作ってなかったか?


「あれだけこき使われたんですから、美味しくないと部長に解任要求出しますよ」


 頬杖をつきながら原田がぶつくさと文句を言う。一番持たされたのは俺だけどな。


「まあええやないですか。これ、すごく美味しいですし」


 その隣ではツンツン頭のトシちゃんが笑顔に目を細めながらスプーンを咥えている。


「ええ子やねトシちゃんは、うちの子とは大違いや。息子に欲しいくらいやわ」


 先輩が超高速でトシちゃんの背後に回り込み、身体を押し当ててすりすりと頭を撫でる。実に羨ましい。


「トシちゃん、こんなお母さん持ったら人生苦労するで」


 呆れた顔の原田は先輩の横腹をつんつんとつつく。当のトシちゃんは後頭部に当てられる柔らかい感触に顔を少し赤らめながら「はい、心得てます」と答えた。


「やっぱり悪い子や!」


 先輩がトシちゃんの頭を小突くのを眺めながら、俺はようやくかき氷をスプーンに載せて口に運ぶ。


 やっぱり先輩の味覚は確かなものだ。爽やかな清涼感に頭が冴え、苦味をうまく隠した甘いシロップがすっと喉を通り抜ける。良い水を使っているからかな?


 暑さも感じ始めてきた初夏のかき氷を堪能した俺たちはてきぱきと食器……否、使用済みの実験器具を片付け、いよいよ化学生物部としての活動に入る。


「ほなついでに実験もできるとこまで進めよっか」


 引き出しから実験用の白衣を取り出しながらけだるげに先輩が言う。おいおい、むしろそっちがメインだろ。


 今年の研究テーマは地下水に含まれる成分の調査だ。そのためにまずは採取した湧水にどんな成分が含まれているのか、それを特定しなくてはならない。


 金属成分の分析と聞くと身構えてしまうだろうが、その方法は至って原始的だ。


「はい、こっちは薬品準備できましたよー」


 白衣を着た俺は準備室から取ってきた薬品の瓶を机の上に並べる。持ってきたのは希塩酸(HCl)、希硝酸(HNO₃)、アンモニア(NH₃)水溶液、硫化水素(H₂S)水溶液、炭酸アンモニウム((NH₄)₂CO₃)。


 極端な話、これらの薬品を今言った順番通りに滴下し、その都度形成される沈殿物をろ紙で回収してやれば金属成分は何が含まれているのか、はある程度特定できるのだ。


 例えば希塩酸(HCl)を何らかの成分の溶けた水溶液に混ぜると、液体中の金属成分は塩化物イオン(Cl⁻)の影響で陽イオンへと変化する。銅ならば銅イオン(Cu²⁺)、アルミニウムならばアルミニウムイオン(Al³⁺)といった具合に。


 塩化物イオン(Cl⁻)は電気陰性度、つまりは他の原子から電子を引っ張ってくる力が非常に強いため、ほとんどの金属成分は電子を奪われてイオンとなり、液体の中を漂うことになる。


 だが金属の中にはそもそもイオンになりにくい成分も存在する。それが銀(Ag)、鉛(Pb)、水銀(Hg)の三種で、これらは塩化物イオンと結合してそれぞれ塩化銀(AgCl)、塩化鉛(PbCl₂)、塩化水銀(HgCl₂)を形成する。そしてすべて水に不溶性、つまり溶けずに白い粉末状の固体として沈殿するため、もしも水溶液に塩酸(HCl)を落として沈殿が形成されれば、少なくとも3種の内いずれかの成分を含むことが判明するのだ。


 他の薬品を混ぜた時も同様、薬品ごとに形成される沈殿を調べることで金属の成分は判明する。イオン化傾向の小さい金属、つまり沈殿しやすい順番に取り除いていくことで一般的な金属成分はほとんど特定可能だ。ナトリウム(Na⁺)やリチウム(Li⁺)など、どうしても固体成分の取り出しにくい金属イオンはろ紙に水溶液を浸し、ガスバーナーに当てて炎の色から成分を調べる炎色反応で特定する。


 これら一連の手順を定性無機分析と呼ぶが、一般的にこんな回りくどい方法を使っているのはろくな実験器具も無い中高生くらいだろう。ちゃんとした研究機関なら機械を使ってほんのわずかな量の試料からあっという間に特定できる。


「久しぶりに化学部らしいことやってる気がしますね」


 手際よくピペットとビーカーをセットする原田がぼそりと漏らすが、先輩はわざと聞こえないふりをしているのか鼻歌交じりに漏斗台をセットしている。ふたりとも使い込んだ白衣は袖の辺りが緑だの青だの妙な色が残っている。先輩に至っては裾に焦げた痕がついているが、これはストーブの近くで実験して、気付いたら焦げていただけらしい。


「ああ、最近はほとんど料理研究部やったからな」


 ほんの少しだけアンモニア水溶液の蓋を外し、その臭いを嗅いで顔をしかめる俺。臭いとはわかっていても、怖いもの見たさでついやってしまう。本当は揮発するからあまり良くないのだけど。


「智子ちゃんも来ればよかったのに」


 アンモニアの残り香を手で払いながら原田が呟くので、俺も「せやな」と小さく返す。


 川勝は今日、学校に来ていない。あいつは今日もどこかに昆虫の観察と採集に出向いているそうだ。聞いた話では保津ほづ峡きょうまで行っているのだとか。


 学校内での観察を任されたトシちゃんも既に体育館裏に向かったようだ。化学室には予てからのメンバーだけが残され、実験準備を進めていた。


「まあ元々テーマが違うんやし。うちらもさっさと終わらせてお好み焼き食べに行こ!」


 先輩が朗らかに言うが、その口の端から涎が垂れかけているのを俺は見逃さなかった。


 そんな時、廊下からずんずんと物音が響く。誰かが大きく足音を立ててこっちに歩いてくるようだ。


「お前ら、ええ加減にせえよ!」


 けたたましく引き開けられる扉、同時に鳴り響く野太い男子の怒号。


 危うく薬品の瓶を落とすところだった。驚きに硬直する俺たち3人を睨みつけているのは、ごつい身体の男子ふたりだ。


 そんな彼らの傍らには、今にも泣き出しそうな顔のトシちゃんがさらに小さくなって立たされていた。

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