第四章 その4 インターナショナル伏見稲荷大社
伏見稲荷大社。1300年以上前の昔より京都市東部の山麓に開かれた、全国3万を数える稲荷神社の総本宮だ。
しかし有名なのはその朱塗りの本殿よりも、裏側に控える稲荷山を貫く、何千何万もの鳥居のトンネルだろう。この光景は日本人はもちろん、海外の人々にも神秘的に映るようで、京都市内の社寺としてはダントツ1位の外国人人気を誇る。
初詣の参詣客は驚愕の250万人。これは八坂神社や平安神宮をも上回り、京都府内はおろか近畿地方でも堂々の1位だ。
「人多すぎやろ……」
ゴールデンウィークの伏見稲荷は人・人・人でごった返す魔窟だ。本殿で賽銭を入れるためだけに大行列に並ばねばならない。境内のあちこちに置かれている狐の石像にも、写真撮影のため多くの人々が待機している有様だ。
そんな観光客の中で水の入ったタンクを抱えた高校生一行は少々異質に映るようだ。
「Wow,Japanese strange boy!」
アメリカ人だろうか、Tシャツにジーパンというラフな格好の白人の若い男と女が、10キロのタンクをひっさげて境内を横切る俺を撮影する。もう恥ずかしいという感情は捨てた、どうにでもなれだとわざとピースして返す。
「Do not worry about him. He is practicing discipline as a chemist of Nakagyo high school」
そんな外国人には部長が駆けつけ、流暢な英語で対処する。
「部長、英語お上手ですね」
トシちゃんがぽかんと口を開けて感心した。一応は中京高校3年の誇る才女だからな、京大薬学部A判定の実力は伊達じゃない(それ以外は別として)。てかアメリカ人の兄ちゃんも「Oh, I see」って納得してるんじゃないよ。
「外国人との方がよっぽどコミュニケーションスムーズやな」
原田の毒舌に、俺もトシちゃんも吹き出しそうになる。あれくらい振り切れた脳みそなら、スマートな思考の欧米人でないと理解できないのではないだろうか。
そんなこんなで外国人と「See you」と別れを惜しみながら帰ってきた先輩は、いつもより3割増しの元気をふりまいて境内のさらに奥、山へ続く参道を指差した。
「薬力社は四ツ辻からもう少し奥に行ったとこやで。そんなに時間かからへんし、せっかくやから千本鳥居くぐっていこ!」
「せっかくやから、やないですよ。こっちは誰かのおかげで水持ってんですからね」
「かき氷食べたいんやろ、そのためには良い水が必要や。さあ行くで!」
なんだか目的がすっかり変わっている気がするな。そういえば俺たち、どうして水を集めているんだっけ?
「あれ、智子ちゃんは?」
ふと原田が尋ねる。
「あいつなら、ほれあそこに」
「あああああ、ヤママユちゃんヤママユちゃん。かーわいーい!」
俺の指差したのは境内にそびえる朱色の鳥居のひとつ。その足元にしゃがみこんで太い柱を見つめて甘い声を上げる川勝だった。ついさっきまでいっしょにいたのに、時々ぽっと瞬間移動する奴だ。
仔猫でも見たような、今にもだらだらと涎を垂らしそうな勢い。京都屈指のパワースポットの中に居座る異様なオーラを放つ女子高生を見て、近寄ってはならないと感じてかその周囲だけは誰も人がいなかった。
「川勝、何やっとんねん。また変なの見つけたんか?」
俺たち4人がぞろぞろと近づく。振り向いた彼女の顔は紅潮し、目にはハートが宿っていた。
「変なのちゃうわ、この子はヤママユ、夏には立派なガになるんやで」
「ヤママユって、あのでっかいガか?」
「そやで」
中学の頃、家族で沖縄に旅行した時にみやげ店で見たガの標本を思い出す。ヨナクニサンとかいう世界一巨大なガで、翅を広げればは大人の掌でもはみ出すほどの大きさだ。
それと同じなかまであるヤママユガ、こいつが見つけたのはその幼虫だという。
シダのように枝分かれした太い触覚に開帳最大15センチという超巨大な成虫の幼虫らしく、太く長い巨躯を如何なく見せつけていた。
朱色の鳥居に貼り付いているのは淡い緑のからだを見せつけるためか、その色彩は鮮やかだ。からだはいくつかの巨大な節に分かれ、その一節ごとから意外とかわいらしい脚が顔を覗かせている。そして体の各部からは太いサボテンのような突起が発達し、針金のような硬質の毛がぽちぽちと飛び出していた。
毛虫としてはまだかわいらしい外見だが、これはあくまでも比較的抵抗の無い人間の話。虫嫌いや初めて見る人にとっては森の中で遭遇すれば顔を青ざめて絶叫してしまう対象であることは重々承知している。
そして何を思ったのか、川勝はこんな幼虫をひょいと摘み上げ、自分の細く白い腕の上に載せたのだった。白い肌の上をもじもじしながら這う幼虫。それを見つめる川勝の視線は、初恋の相手に出会った乙女とまったく同じ、うっとりとしたものだった。
「毛虫やんけ。ようそんなの持てるな」
先日の宇治川の件である程度抵抗の付いた俺は茶化すように尋ねた。
「ええ、かわいいやん。冷たくて気持ちええで」
「毛虫って実際に刺してくるのとか有害な種って、全体ではごくわずかしかいないんですよ」
川勝に追従し、トシちゃんが博識ぶりを披露する。
「へえ、ほなこいつは安全なん?」
「はい、イラガとドクガ、マツカレハ以外はだいたい安全です」
イラガってカエデによく湧くあのちっこくてカラフルな毛虫か。家の坪庭で植木の手入れしてた親父が刺されてめっちゃ痛がってたな。
「ヤママユって、たしかカイコもこのなかまやなかったっけ?」
原田も口をはさむ。生物科目選択生にとってカイコは必出の生き物らしく、虫嫌いの生徒たちの間でもカイコだけは比較的受け入れられている節がある。
「そやで、カイコは同じヤママユ科のクワコを品種改良した子やで。改良し過ぎてクワしか食べられへん上に、太りすぎて自分では飛べないようになってもうたけど。あと、ヤママユのなかまは繭作るのに丈夫な糸を吐くねん。この子の糸も天蚕糸いうて高く売れんねんで」
「ほないっそのこと育てて糸取って売ろか?」
言った途端、川勝はヤママユの幼虫を掌で覆い隠し、ぶんぶんと首を横に振った。
「いやや、こういう子には下手に手を加えたらダメよ。自然の中で成虫になって、ちゃんと子孫残さな」
そう言えば今日は虫かごも持ってきていないしな。さっさと水を回収して帰りたかった俺は、川勝に虫を放すよう言おうと前に一歩出る。
その時だった。川勝は確かに呟いたのだ。
「本当は連れて帰りたいんやけどな……」
そう漏らす川勝の瞳はどこか遠くを見つめているようで、諦観の念さえも感じられた。
そしてしばらくヤママユを愛でた後、川勝は「アホな人間に見つかったらあかんで」と近くの木にその幼虫を放したのだった。すかさず全員から「どの口が言う」と総ツッコミが入ったのは言うまでもない。
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