第四章 その5 幾千の鳥居を抜けて
ヤママユの幼虫との別れを惜しみながら、俺たちは本殿の裏手に回った。ここから伏見稲荷の象徴であり京都屈指の観光スポット、千本鳥居が続いている。
藪の中の参道を埋め尽くす朱色の鳥居がトンネルのように何千も連なる光景は圧巻の一言。不思議な神々しさに満ちたこの空間では、外国人だけでなく日本人も鳥居にもたれかかったり自撮り棒を使って記念撮影に勤しんでいる。
だがそんな観光客、俺にとってはどうでもよかった。むしろ通行の邪魔だ。
「し、しんどい……」
両手で持ち上げた水のタンクの重みが、いよいよ俺の身体をむしばんできた。稲荷山の麓に建てられたこの神社、藪に入ったあたりから上り坂が険しくなり、足が肩が腰が、身体のあちこちが悲鳴を上げ始める。
「原田、ちょっと替わってくれ」
先を行く原田に息を切らしながら懇願する。だが振り返った原田は妙にしおらしい顔をこちらに向けたのだった。
「まあ、白川君ったらかよわい女の子にそんなことをさせるなんて」
こいつ、こんな時だけ女の子らしくなりやがった。
「お前がかよわい女の子なら他の女子は箸も持てへんわ。ほれ、今度アニメランドでガチャポン1回ひかせたるから頼むわ」
「謹んで運ばせていただきます」
そう言って俺の手から水を強奪する原田。普段オタグッズを買い過ぎて常時金欠なこいつをその気にさせるには、オタグッズをもって制するのが一番だ。
ようやく解放され、だらんと腕を垂らす。しかしふと気付けば、俺の前にいるのは軽々と水を運ぶ原田に先頭を突っ切る部長、そしてぶんぶん振り回される水のタンクを不安そうに眺めるトシちゃん。
川勝はどこ行った?
慌てて振り返ると、参道のかなり後ろの方でじっと鳥居と鳥居の隙間を見つめている川勝の姿があった。恍惚としたその表情、あれは正しく変な虫を見つけた時の顔だった。
「こらそこ、クモの巣の前でいちいち立ち止まらない!」
俺はダッシュで引き返し、川勝の首根っこを掴む。
「ああん、せっかくコシロカネグモが巣ぅ作ってるとこ見れたのに」
情けない声を上げる川勝を引きずり、だいぶ離れてしまった化学生物部の面々を追う。このまま水を持っていた方がマシだったんじゃないか。
そんなこんなで千本鳥居を一旦抜けると、開けた空間にこれまた立派な社殿が聳えている。ここは奥社奉拝所、本殿ほどではないがここも多くの観光客でにぎわっている。
だが奥社と言ってもこれで終わりではない。この程度では伏見稲荷全体の規模の1割にも届いていないのだ。
ここから先は今までよりも鬱蒼とした森とさらに急な斜面が待ち構えており、またあまり手入れもされていないのか朽ち果てた祠や文字の擦り切れた石碑があちこちに並んでいる。
一見すると不気味なせいか、大抵の観光客はここまでで引き返す。だが悲しいことに俺たちの目的地はさらにこの先なのだ。
みんなで水のタンクを回し持ちしながらなおも続く鳥居群を抜けると、再び藪が途切れる。ここは新池、伏見山の谷間に造られた貯水池だ。池の畔にはベンチが置かれ、ここまでやってきた奇特な参拝者のために売店も開かれている。
「ひい、ひい、ちょっと休もっか」
ただでさえちょっとしたハイキングなのに、加えて水のタンクを持った俺たちにはこの山道は明らかにハードモードだった。先輩の一言に全員が「さんせーい」と声を揃え、俺と原田、そして先輩は手近なベンチに腰を下ろす。
だが先輩は売店の看板を一目見て、またも勢いよく立ち上がるのだった。
「おお、冷やし飴やって! 買わなきゃ!」
そう言ってまっすぐに売店に突っ込んでいく我らが部長。あの人の行動原理は食い気で99パーセントが占められているのだろう。
そんな先輩の行動に突っ込む気力も起きず、俺はぼうっと新池の湖面を眺めていた。
「……そういや地学で先生が話してたな。この池は断層の割れ目を利用して作られたんやって」
「そうなん? てことはこれって断層湖?」
何気なく漏らした俺に原田が乗っかった。
「でき方は同じやろ。ここらへんは南北に何本も断層が走っているらしいで。そのせいか、ここらへんは地質が混じり合ってバラエティに富んでるねん。竹林と広葉樹林が入り混じってるやろ、これってアルカリ性の土壌と酸性の土壌が複雑に分布し合ってるて意味やねん。つまり、植物に多様性があるってことは生き物も様々って意味で……」
「うわはははは、アリジゴクおった!」
神域ともいえる山の中、奇天烈な女の笑い声を響かせて罰が当たるのではなかろうか。
さっきまで眼鏡が曇るほどにへとへとになっていた川勝だが、売店脇の石垣の隙間を覗き込みながら全身を震わせるその姿は疲れなどみじんも感じさせない。その隣にはちょうど水のタンクを足元に置いたトシちゃんが疲れた様子で立っている。
「川勝、お前またそういうのをめざとく見つけて」
俺はよっこらしょと立ち上がり川勝の背中越しに覗き込む。
「智子さんは道歩くときいつも道の端っことか水面見ながらですからね。すれ違う人とか店先の商品には目がいきませんよ」
いつものことだと言いたげに、トシちゃんが川勝の嬉しそうな横顔を眺めながら言う。
なるほど、こいつは石と石のわずかな隙間にたまった砂の中に、すり鉢状の小さな穴があちらこちらに拓いている。そしてその中心には巨大なハサミを覗かせる虫が一匹、ご存知アリジゴクだ。
アリジゴクという生物の存在はよく知られているが、それがウスバカゲロウの幼虫であることは意外と知られていない。数の子がニシンの卵だと言われて驚かれるのといっしょだろう。
「みんなー、お待たせ!」
アリジゴクに集る俺たちに、先輩がラムネ瓶のような小さなガラス瓶5本を抱えて駆け寄る。気前の良い事に全員分、冷やし飴を買ってきてくれたようだ。
この人の良いところは後輩に奢るのに全く躊躇しないところだ。自分が食べるのはもちろんだが、それ以上に人に食べさせるのを楽しんでいるようにさえ思える。
てか、そうでもしてもらわないと俺たちクーデター起こすからな。
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