第四章 その3 休日の京都はヤバい

 京都の風景は水とともにある。


 鴨川や琵琶湖疎水など地表を流れる河川はもちろん、市内のあちこちの井戸から清水が湧き出しているのは、実に趣き深い情景を演出している。特に上京区の晴明せいめい神社や、伏見区の御香宮ごこうぐう神社の井戸は名水と名高い。


 最近の研究では京都盆地の地下には琵琶湖をも上回る巨大な地下水が蓄えられていることも判明している。周辺の雨水が伏流水となり、何十年何百年もかけて岩盤の中へと浸透した末に地表近くから湧き出しているそうだ。


 特に京都市南部に位置する伏見は、かつて伏水と記されていたほど各地に良質な地下水が湧き出しており、その水を利用した酒蔵が軒を連ねている。花崗岩質の岩盤のおかげでほどよくミネラルの溶けた中硬水である伏見の酒は口当たりが柔らかく、石灰岩質でミネラル分の豊富な硬水を用いた灘の男酒に対して伏見の女酒と呼ばれるのは酒好きの間では有名だろう。


 そんな名水の京都の高校生である我々化学部の今年の研究テーマは、京都市内の地下水の成分分析だ。京都市内各地の井戸を回り、サンプルとなる水を回収するのがこのゴールデンウィークの活動内容だ。


 だがそんな俺たち一行の意気込みは、すさまじい人だかりの前にすっかり消沈してしまった。


「京都の外れやから大丈夫と思ってたのに」


 初夏の日差しの下、俺ががっくりと肩を落とすと、ジーンズの短パンで健康的な脚を見せつける原田は「正直、舐めてたわ」と舌打ち混じりで言い放った。


 馳せ参じた御香宮神社の境内には日本語はもちろん、中国語に韓国語、英語にスペイン語まで様々な言語が飛び交っていた。今しがた目の前を通り過ぎた浅黒い肌の人々はタイ人かフィリピン人だろうか。ともかく普段あまりなじみのない国からも多くの人が押し掛けていた。


 元々外国人人気の高い京都観光だが、ここ数年は査証ビザの発給条件緩和や免除措置などで、アジア諸国からの観光客が急増している。


 御香宮神社は京阪伏見桃山駅からの徒歩圏で京都観光の中心から離れており、金閣寺や八坂神社のような第一線級の有名どころではない。それでも休日には世界中の観光客でごった返すありさまだ。


「これ、清水寺ならどうなってたやろ」


「あそこはもっとヤバい。水取るために壁サー並みに待たなあかん」


 俺と原田が苦笑いを交わす。


「壁サー?」


 そんな俺たちの会話が耳に入ったのか、トシちゃんと並んで近くの植木を眺めていた川勝が、首を傾げながらこちらに振り返った。昆虫でも探していたのだろう。


「世の中には知る必要のない言葉もあるんやで」


 俺はちっちと指を振るが、川勝はさらに大きなクエスチョンマークを浮かべて骸骨の描かれた黒いシャツを着たトシちゃんの背中をつんつんとつついた。


「トシちゃん、壁サーて何のことか知ってる?」


「智子さんに変なこと教えんといてください!」


 想い人の無垢な瞳に、トシちゃんが顔を赤くして声を荒げる。どうやらこいつは知っているようだな。


「いやあ、おいしい水や。清和天皇が香り高い水って呼んだのも頷けるわ」


 人だかりから水を汲み終えた丸岡部長がホクホク笑顔で帰還する。


 先輩の私服姿は実に良きもの。ふわふわとフリルの付いたロングスカートに、空色のカーディガンを羽織り女の子らしいさと爽やかさを演出している。巨大な胸はいつもより主張を抑えられているが、こんなのもいいな。


 だがこれで見とれてはいけないのがうちの部長だ。その手にはあまりにも場違いな、10リットルは入るであろう大きな透明のウォータータンクが水をなみなみと蓄えた状態で提げられていた。


「先輩、そのタンクは何ですか?」


「持って帰ってかき氷にすんねん。シロ、重いから持っててぇな」


 そう言って10キロ近くの水が入ったタンクを俺に押し付ける。急な重みで手が抜けそうになるが、ここはぐっと堪える。実験のサンプルにするならもっと少量でもいいのに。


「先輩、もしかして俺たち動員したのって、汲んだ水運ばせるためちゃいますよね?」


「ちゃうでー、部活のためやでー」


 この人、思い切り目ぇ反らしやがった。100パーセントそのつもりだ。


「抹茶金時で手を打ちましょう。この前作ってくださったあのグリーンティー使って」


 諦め半分、こういう時はノリが大切。ため息を吐きながら俺は要望を突きつける。


「じゃあ、私はイチゴ味に練乳大量で」


 原田も乗っかるが、お前は今何もしてないだろ。


 先輩は「任せてぇな、腕によりかけて作るで!」と自信満々に腕まくりする。


「ほな、次の所行きましょか」


 すべては先輩お手製かき氷のため。俺は一旦水を足元に置いてスマホを取り出すと、これからの予定を確認した。


「ええと、次は薬力社やくりきしゃ……あれ、こんな名前の神社知らんで」


「ああそれ、伏見稲荷のことやで」


 先輩が手にした鞄からお茶のペットボトルをごくごくと飲みながら答えた。


「よりによって京都イチの大混雑やないですか……でも、伏見稲荷に水の出るところなんかありました?」


「あるでー。だってその薬力社」


 そう言ってじっと東の建物の向こうに連なる山々を見つめる。


「稲荷山の中腹やもん」

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