第四章 その2 体育館は大迷惑
コウガイビル。おそらくその名を聞いたことの無い人の方が圧倒的多数だろう。
コウガイとは公害のことではなく、髪結いの道具である笄こうがいのことだ。細長い紐状の、ぬめぬめとした粘液に包まれた奇妙奇天烈な外見。特に外来種であるオオミスジコウガイビルは最大全長1メートルにもなり、道行く人々に目撃されれば十中八九「新種の巨大ミミズか!?」と二度見される。
またヒルという名が付いているものの、吸血するヒルは環形動物門であり、コウガイビルの属する扁形動物門とは全くの別種である。同じなかまとしてはウズムシ(プラナリア)が近い。ゆえにふたつに千切ればそれぞれ別の部分ごとに再生し、1匹のコウガイビルから2匹のコウガイビルに分裂するという性質をもつ。
主食はミミズやナメクジなど他の土壌生物で、それらにからみついて消化液を分泌し、溶かして摂食する。いわゆるヒルのように人間の血を吸いはしないものの、あまり想像したくはない光景だろう。
そんな不思議生物コウガイビルの長いからだをびろーんと伸ばし、興奮して真っ赤な顔ではしゃぐJKが約1名。
「こんな立派なの初めてやわ! 夜の間にひっかっかったんやろうけど、ラッキーやで!」
いつだったか姉ちゃんが鶏の腸で縄跳び云々と冗談を吹いていたが、目の前のこいつなら本当にやりかねない気迫があった。
どこらへんがラッキーだ。珍しい生き物に変わりはないが、一生知らなくても何も困ることはなさそうなこんなやつ、できればお目にかかりたくなかった。
「お前、専門は昆虫やなかったんか?」
俺がぼそっと訊くと川勝はコウガイビルを脇のビーカーにゆっくりと移しながら嬉しそうに答えた。
「生き物は何でも好きよ。あらゆる生きとし生きるものに等しく愛を与えてこその生物部やで」
「ほなカエルにもその愛を分けてやれよ」
「あいつらは例外。オタマジャクシ一匹残さずこの世から滅ぶべし」
ここだけ声のトーンが変わる。
そんな時だった。生物室の扉がコンコンとノックされ、ゆっくりと開けられる。
「川勝さん、今ええか?」
遠慮がちに顔を覗かせたのはバスケ部のユニフォームを着た男子だった。短く刈り込んだ坊主頭に、すっと背の高いさわやかな印象。
「……今行く」
川勝は重そうに腰を上げ、つかつかと廊下に出た。そして少し移動し、ごにょごにょとふたりで話し始める。
だが、俺と先輩はまったく同じことを考えていたようだ。
川勝を訪ねに来る男子だと!?
丸岡先輩と俺は視線を交わし、互いに愕然とした顔を向け合っていた。
「あれって、たしか5組の
原田が何気なく言うので、俺は「知り合いか?」と尋ねた。
「うん、世界史の授業で一緒やから」
なるほど、地歴公民は選択科目ごとに複数の学級が別々の教室に集められるため、面識があるのだろう。ちなみに俺は地理選択だから被らない。
とはいえ川勝とまともに話せる男子がいることに驚かないわけがない。俺たちは足音を忍ばせて扉に近付き、そっとふたりの会話を盗み聞きした。
「それはわかるけど、部長さんには許可もらってるしな」
「ああ、俺も川勝さんの研究には協力したい。けど、一部の先輩が納得いかんって」
声の調子からあまり景気のよい話ではなさそうだ。
「何の話やろ?」
「愛の告白ではなさそうやな」
俺と先輩がひそひそと話す。
「そんなこと、あってはなりません」
これは驚いた。いつの間にかすぐ後ろにまで来ていたトシちゃんが、般若面のような表情でぷるぷると震えていたのだ。
「安心し、そういう話ではなさそうやで」
原田が笑うのを我慢しながら宥めると、トシちゃんは「ほんまですか?」と安堵の息を吐いていつものなんちゃってヤンキー顔に戻る。わかりやすい奴だな。
その後しばらく川勝と下地とかいう男子はしばらく話し合っていたが、用件は済んだのかふたりは「じゃあ」と言い残して互いに踵を返したのだった。
「何話してたん?」
生物室に戻ってきた川勝に、原田が訊く。
「うん、体育館裏の放置実験してる樽を取っ払って欲しいって、バスケ部が」
「樽って、あの水張ってたあれか?」
俺はすぐに訊き返した。この前初めて生物部と出会った日、体育館裏に行く途中で見かけたあの漬物樽のことだろうか。
「そやで。あれ、わざと雨水をためておいて遮断された水場からどんな種類の生物が発生するかを観察するための実験やねん」
言われて納得した。生物部の実験テーマである『都市部における昆虫発生』に関して、人工の水場を用意しておくことは観察にもってこいだろう。
緑地の少ない都市部であっても、わずかな水場があればそこが生物の発生源に十分なり得る。放置された空き缶やタイヤに水が溜まり、蚊の幼虫であるボウフラが発生するのでごみはさっさと捨てるようにと言われるのはこのためだ。
それにしても汚い実験やってるなあ。まあ生物学に傾倒する者として、研究に関わるなら汚い云々という概念は無いのかもしれないが。
「どんな生き物が観察できるん?」
部長が興味本位で聞くと、川勝は胸ポケットから無地の手帳を取り出し、いくらかページをめくった。ここに観察記録をメモしているのだろう。
しかし部長と川勝、二人が並ぶと発育の差を痛感するな。
「今のところやと、アメンボ、ボウフラ、アカムシ。それとハナアブの幼虫が観察できていますね」
「アカムシってユスリカの幼虫やんね。アカムシのエサってデトリタスやから、ただの水たまりでは湧かへんのちゃうん?」
すかさず原田が訊いた。こいつは時折なかなかに鋭い質問をする。俺も初耳の言葉に「デトリタス?」と首を傾げると、原田は補足説明していくれた。
「水の中にたまる生物の死骸とか排泄物とか、有機物が積もった泥みたいなもんやで。生物の授業で習ったんよ」
ドブにたまる汚れみたいなものか。一冬放置されたプールを掃除する時、底にたまっている黒っぽい泥のようなあれも、そのデトリタスかという有機物だろう。
「実はあの水、もうだいぶコケで濁ってるねん。有機物も十分やから、それをエサにしてるんやないかな」
「遮断された水場やのに、どうしてあんなけコケが生えとるんや?」
「目撃してへんからわからんけど、鳥とか虫とか、他の生物が胞子を運んできたんとちゃうかな。別の水場で水浴びしたスズメのからだに水草の胞子とか植物プランクトンが付着して、あそこで水浴びしたときに持ち込まれたんやないかと思うで」
そう言えば俺が初めてあれを見た時、かなり緑色に濁っていた。中身まではろくに見ていなかったが、一部の生物にとっては外敵もいない住み心地の良い環境なのかもしれない。
「生物学というのは目の前で起こっている出来事だけでは説明がつかないことも多いんです。長時間色んな方向にアンテナ張って、他の場所で何があったからこんなことが起こっているのかわかるところがおもしろいんですよ」
トシちゃんが得意げに割り込む。どうも生物の研究というものは、条件を明確に区切り徹底した湿度温度管理の下ビーカーの中だけでなるべく完結させようとする化学実験とはまた違ったスタイルのようだ。
「あ、そやそや。生物部はゴールデンウィーク何して過ごすん?」
先輩が思い出したように切り出すと、トシちゃんが答えた。
「同じように昆虫採集に出かけますよ。京都市内まわりたかったでまだ場所は決めていませんが」
「そうなん? うちらも地下水の採取に行くねんか、よかったら一緒に行かへん?」
俺は少し驚いた。生物部の真摯な研究姿勢にあてられたのか、珍しく先輩がやる気になっている。
去年までなら締め切り1か月前に急いでサンプル集めてテキトーに実験を行い、雑にまとめているところだったが、3年目にしてようやくこのままではいけないと思ったのだろうか。
トシちゃんが「どうします?」と川勝に振り返る。当の川勝はピンセットを手にくいっと眼鏡を上げた。
「いいですよ、うちらも色々まわりたかったんで」
分厚い眼鏡に阻まれていたものの、俺にはこいつが少しだけ笑っているように見えた。
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