第四章 その1 ピットフォールトラップ!
月曜日、放課後の化学室ではいつものように丸岡先輩が机の一角を陣取っていた。
「もうすぐでゴールデンウィークやな」
「世間はゴールデンでも、それはどう見ても新緑のグリーンですよね」
先輩はふふんと鼻息を吐きながら、机の上に並べた淡い緑色の液体の入った5つのビーカーを俺と原田に見せつけた。
「そや、気温も上がる今日この頃、夏も近付く八十八夜。美味しいお茶の季節やね」
「まあ、そうですね」
初夏は新茶の季節。一昨日川勝と名産地の宇治に行ってきたばかりの俺にはタイムリーな話題だった。そう言えば川沿いの茶屋も『新茶、入荷しました』とのぼりを立てていた気がする。
「実は知り合いの茶道の先生からお抹茶をもらったねん。ちょっと飲んでみぃひん?」
「抹茶ですか? そのままやと苦すぎませんか」
俺はうーんと首をひねった。抹茶アイスは美味しいが、本来の抹茶は苦すぎるので好んで飲むことはしない。そもそも先生からもらうほどのちゃんとした抹茶なら、こんなビーカーではなくちゃんと作法に則って茶室で点(た)ててお菓子といっしょに飲むべきだろ。
「大丈夫やで、グラニュー糖を混ぜて甘いジュースにしてみたから。いわゆるグリーンティーや」
得意げに先輩は答える。この人は実家が料亭だけあって料理やお菓子作りの腕に関しては信頼できるので、俺も原田も「じゃあひとつ」とビーカーに手を伸ばした。
おそるおそる縁に口を付ける。お茶の爽やかな香りが鼻を通り抜け、下の上に甘いシロップと心地よいほろ苦さが合わさり、見事な甘味を引き出している。
確かにうまい。あの宇治川の畔で食べた抹茶ソフトクリーム、そしてはじめて目にした川勝の笑顔を思い出す。
気が付けば俺は一気にビーカーを空にしていた。
「これなら苦いのが嫌いな人でも飲めますね」
隣を見ると、原田は空っぽのビーカー片手に親指を立てていた。なんだかんだ言いながら原田も先輩の料理には文句を言わない。
「ねえ、智子ちゃんとトシちゃんにも持って行ってあげようか? これならトシちゃんも飲めるで」
原田がビーカーを机の上に置きながら、いたずらっぽく笑って言った。苦いのが苦手なトシちゃんのことをからかいつつも、こいつなりに気を遣っているのだろう。
俺たち3人はグリーンティーの入ったビーカー2つをバットに載せ、速足で生物室に向かった。
「入るでー」
ガララと生物室の引き戸を開ける。中では予備の眼鏡をかけた川勝と、トシちゃんが並んで座りながら何かの作業をしている真っ最中だった。
ふたりの座る机の上にはプラスチックのコップが並べられて置かれており、ふたりともピンセットを片手にじっと手元を見つめている。
「智子ちゃん、お抹茶でジュース作ってみたんやけど、飲まへん?」
「ありがとう。ちょっと今手ぇ離せへんからそこに置いといてくれる?」
「何やってんの?」
不用意に原田が近付き覗き込む。直後、原田は「きゃ!」と俺でさえあまり聞いたことのない黄色い悲鳴を上げたのだった。
それもそのはず、川勝は手にしたピンセットで、広げたガーゼの上に置いた緑色の巨大なムカデをつついていたのだ。
「な、何でムカデなんて捕まえてんの?」
さすがの原田も身構えていた。だが川勝は嬉しそうにレンズ越しにもわかるほど、目を輝かせて答えたのだった。
「昨日仕掛けておいたピットフォールトラップで、捕まえた生き物を調べていたんよ」
「ピットフォール?」
聞き慣れない言葉に俺たちが顔を見合わせていると、川勝の隣で丸まったヤスデのからだを伸ばしていたトシちゃんが割って入った。
「落とし穴のことです。カップの中にアルコールを入れて、地面に埋めるようにして仕掛けておくんですよ。しばらくしたら気化したアルコールのにおいにひきつけられて、色んな生き物がひっかかるんです」
そして落ちた生き物はアルコールに溺れて死ぬ。いつだったかビールを一晩外においておけば、ナメクジがわんさか寄って来て駆除に役立つと聞いたことがあるが、それと同じだろう。
「なるほどね、どんなのがとれたの?」
何気なく尋ねたものの、トシちゃんは返事に詰まって目を反らした。
「あまりお見せできるようなものではないのですが……」
そして机の上に並べられたコップをそっと指差す。
「うっ!」
俺の口からも声が漏れ出ていた。
アリやダンゴムシならまだ可愛らしい方だった。ムカデやヤスデはもちろん、普段あまり見ない甲虫やミミズ、ハサミムシなどが透明な液体に沈み、あるいはぷかぷかと浮かんでいた。
お食事中にテレビで流したら絶対に苦情が殺到するだろう。グロテスクで生々しい、一昨日のトビケラ天国を体験した俺でも思わず引いてしまうほどの惨状だった。
「な、なんかすごいな」
先輩もこれを表現するのに適切な言葉が思いつかなかったようだ。へへっと苦笑いして固まっている。
そんなアルコールの中から川勝が次なる虫を取り出す。その見慣れない姿に、俺は「なんだこれ?」と顔を近づけた。
ダンゴムシのような外骨格だが、やけに大きいし黒い。それに形も小判型と違い、涙の滴のような紡錘形をしている。正直かなり人を選ぶ見た目だ。
「シデムシの幼虫やで」
川勝はピンセットの先端でつかんだその黒い謎の虫に、うっとりと見とれながら言った。
「シデムシ?」
聞き慣れない虫だ。
「そう、カブトムシと同じ甲虫で、これはたぶんオオヒラタシデムシやね。翅はあるけど飛ぶのは苦手で、いつも地面の上を動き回っているんよ」
「カブトムシの仲間やのに、随分変わった性質やな」
「この子らのエサは主に動物の死骸、つまり死肉食やね。山では獣の死体があれば、大抵この子らも集まってくるんよ。せやから死体に出てくる虫、と書いて死出虫(シデムシ)って呼ばれるようになったんよ」
「ファーブルも昆虫記でシデムシについては研究しています。まあ、生態が変わってるので、研究甲斐があったのでしょうね」
ガーゼの上に動かなくなったシデムシの幼虫をそっと置く川勝に、トシちゃんが得意げに説明を加える。
「ファーブルってフンコロガシだけやなかったんやな」
小学校の頃、学校の図書室で子供向けに訳しなおされた昆虫記の第1巻だけなら借りて読んだことがある。題材に使われていたフンコロガシの生態を見て、こんな変わった昆虫もいるのかと子供ながらに感心していた。
川勝も当然ながら昆虫記は読破しているのだろう、ファーブルの名が出てくるなりぱあっと頬が紅潮する。
「そやで、昆虫記の原本はフランス語で10冊分、30年かけて書かれ続けたんやで」
「ねえ……」
川勝の話を切ったのは原田だった。
「これは……何?」
そしてカップのひとつを覗き込み、恐る恐る中身を指差す。
「それ! 今日一番の収穫!」
川勝が声を張り上げ、原田のカップを鷲掴みにした。
そのカップには、ミミズのようなぬめぬめとしたものの黄色い体表をもち、とぐろを巻いた謎の物体が入っていたのだ。
はっきり言おう。キモい、キモ過ぎる。
だが川勝は持っていたピンセットをアルコールの中に突っ込むと、その謎の物体をゆっくりと引き揚げたのだった。
現れたのはきしめんのような見た目、その全長は優に1メートルもの独特の光沢をもつ紐のような生物だった。
「コウガイビルやで! まさかかかるとは思ってへんたわ!」
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