第三章 その3 抹茶ソフトクリーム日和
なんとか川勝の手を引いて宇治橋までたどり着いた頃には、俺はもうへとへとだった。
普段から化学部唯一の男子としてこき使われるので力仕事は慣れっこだが、そもそも素の体力がある方ではない。むしろ運動のセンスでいえば原田や先輩の方が上だ。
おまけに暑い。まだゴールデンウィークにも入っていないというのに、快晴の空から降り注ぐ太陽光がじわじわと地上の人間を焼き付ける。
「もう駅見えたぞ。あと少しの辛抱や」
そう足元のおぼつかない川勝に声をかけるものの、実際のところこれは自分に言い聞かせているようなものだった。
その時、観光客も行き来する川沿いに、一台の車が停まっているのが目に入る。俺は足を止め、渇いた喉をごくっと鳴らした。
「なあ川勝」
「うん?」
「宇治に来たんやし、あれ食わね?」
俺は移動販売車の前に置かれた、緑色のソフトクリームの看板を指差した。
「ほいよ」
屋台のお姉さんに代金を払った俺は両手に1本ずつ抹茶ソフトクリームを受けとると、右手に持った一本を隣の川勝に渡した。
「ええの?」
アイスを手にしながら困らせたように眉を曲げる川勝。メガネで隠れていた眉と目は、普段もこのように表情を作っていたのだろうか。
「ええよ、指の手当てしてくれたお礼や」
俺たちは屋台前に川を眺める形で置かれたベンチに座り、いっしょに並んでアイスを舐めた。
さっぱりとした爽やかな風味。抹茶アイスがバニラ、チョコと並ぶ第三の定番の味になった理由も有無を言わさず納得できる。
さらに宇治名産の抹茶をふんだんに使っているおかげか、苦味の中に優しい甘味の隠れたほのかな味わい。初夏の川辺に緑のアイスは最高の組み合わせだった。
ただひとつの不満材料さえなければ、の話だが。
「ああもう、トビケラめ」
俺はちょうど飛来してきたトビケラの群れを払い、ソフトクリームを隠すように守る。通行人たちも帽子やカバンで身体を守りながら急ぎ足で通りすぎていく。
だがこんな状況下でも、川勝は平然とアイスを舐め続けていた。
「この子らは成虫になると摂食能力を失うから、食べ物に寄ってくることは無いで。発生場所もきれいな川に限られるし、基本的に無害なんやで」
気付いていないのか、ジーパンにトビケラが止まっても川勝は払おうとはしなかった。
「お前、本当に昆虫が好きなんやな」
ようやく群れが通りすぎ、ほっと安心しながら俺はアイスを舐め始めた。
「男子やって、カブトムシとか好きやろ?」
「それはちびっこだけや。小さい頃はテレビのヒーローみたいにカッコよく思えたけど、大きくなるとそういうのがダサく思えてきて……あ!」
思わず口が滑ってしまった。川勝の前でこんなことを言ってしまったのは、うかつだった。
短い付き合いとはいえ、こいつが何よりも昆虫に情熱を持っていることはすでに痛感しているはずだったのに。
「そうやんね……変やんね」
川勝はアイスを舐めるのを一旦やめ、ぼうっと川のはるか対岸を眺めた。焦点の合ってない、虚ろな目だった。
「ご、ごめん」
「ええよ、事実やし。私、自分でもおかしいのはわかってるもん。小さい頃からずっとみんなに引かれてきたから」
川勝はふふっと笑いながらアイスを舐める。ある種の諦めのような、一方で今の自分をそのまま受け入れているような余裕のある仕草だった。
「じゃあ、どうして?」
「どうしてって、そりゃ昆虫が好きやから。理由はいくらでも言えるけど、結局はどれもこれも先に好きっていう感情があっての後付けやと思うんよ。私は昆虫が好き、それ以上の理由は無いで」
そう話す川勝の顔は水面で照り返した光が映え、きらきらと輝いていた。
俺は安心した。川勝が俺の失言を歯牙にもとめていない様子であること、そして何より川勝に妙な親近感を覚えたことに。
なぜかと言うと、俺だって化学が好きだから。そこに理由はない。
「そうやな」
俺とこいつは本質的には同類なのかもしれない。
京阪電車で京都市内へと帰ってきた俺たちは、捕まえた昆虫たちを保管するために一旦高校に立ち寄った。
グラウンドではサッカー部が他校を招いて練習試合を開いており、うちの生徒と混じって見慣れないユニフォームが走り回っていた。ゴールデンウィークの間にインターハイの予選が開催されるので、どの選手も本気だ。
そんな青春の汗を流す高校生たちを横目に、俺たちは校舎に入る。目指すは生物準備室だ。
「生物室って、入るの久しぶりやな」
俺は飾られている古い人体模型やイタチの骨格標本をちらちらと眺めながら昨年度の授業を思い出していた。1年の時は必修で生物を取っていたが2年生になってからは物理と選択化学に移ってしまい、この部屋もすっかりご無沙汰だった。
「詳しく種類を特定するのは明日するわ」
捕まえた昆虫を入れた虫かごを運び込みながら川勝は嬉しそうに話した。
熱心なことに、日曜日も来るようだ。急いで眼鏡を作らなくてもよいのか訊いてみたが、家に予備の眼鏡があるそうで安心だ。
「もうすぐ連休やしね、一気に研究が捗るわ」
本当に化学部とは全く違う。まっすぐ研究に向かう彼女の姿勢を見ていると、俺も何かせねばと否が応でも焦燥感に駆られる。
「なんかあったら言うてや。都合あったら手ぇ貸すで」
「ありがとー」
捕まえた昆虫を備え付けの大きなプラスチックケースに移す。俺は手間取りながら、川勝は手際よく作業を進める。
そういえば結局ヘビトンボは捕まえられなかった。本当ならここにあの噛みついてきた憎たらしい奴も仲間入りするはずだったのに。
「それにしても、トビケラ元気なくなったな」
壁面に大量のトビケラが貼り付いた虫かごを覗き込んで、俺はぼそっと呟いた。川辺ではあんなにわんわんと飛び回っていたのに、今ではすっかりおとなしくなってしまった。何匹かは足を曲げたまま転がって、ぴくりとも動かなくなっている。
これからこいつらも別のケースに移すのだ。
「この子らは羽化したら一週間ほどで死んでしまうからね。幼虫は水の中で2年くらい過ごすけど、最後は短い間に飲まず食わずでパートナー見つけて子孫を残さんとあかんねんで」
「……セミが確か土の中で7年やったっけ。それに比べたらまだ短いな」
そう言って虫かごの蓋を開けた時だった。今までお利口にもじっとしていたトビケラたちが、見計らったかのように一斉に飛び立ったのだ。
「うお!?」
「あ、ちょっと!」
もう何もかも遅かった。狭い生物準備室にはあちこちにトビケラが飛び回り、瞬く間に宇治川と同じような賑やかさに変わり果ててしまった。
「ねえ、捕まえて!」
「お、おう!」
虫取網を持ち慌てて振る。だが飛び回る羽虫はなかなか捕らえきれない。しまいには振った網が人体模型に引っ掛かり、派手な音を起こして倒してしまう。
「あかん、ミスった」
「下手糞!」
「うっさい、ほなお前がやれ!」
「私、見えへんからどこにいるのか全然わからへんもん!」
無駄な体力を使ったものの、ようやくトビケラの捕獲は完了ぢた。
生物準備室の鍵を職員室に返却し、疲れた身体をひきずるように俺は川勝と並んで昇降口へと向かっていた。
「今日はほんまにありがとう」
「いやいや、迷惑かけたな」
そんなとりとめのない会話をしていたところだった。
「おうシロ、土曜日やのにどうしたんや?」
廊下の曲がり角で、同じクラスの澤田と鉢合わせたのだ。休日の練習か、いつもの学ランと違い野球部のユニフォームを着ている。今はグラウンドはサッカー部が使っているので、校内で筋トレでもしていたのだろう。
「よう澤田。今日は部活や、宇治川で昆虫採集してて、帰りに寄ってん」
「昆虫採集? ああそっか、生物部と合併したって言ってたな」
そう言いながら澤田はちらっと俺の隣の川勝に目を移す。
途端、眼球がこぼれ落ちそうなほどにかっと見開かれ、唖然と口を開いたまま絶句する。
「シロ、ちょっとこっちこっち!」
そしてすぐさま俺の肩をつかむと、壁際へと引き寄せて声を潜めて話しかけるのだった。
「なんや、もう帰るとこやぞ」
「あの可愛いコは誰や? めっちゃ好みのタイプやん! ちょいと紹介してくれよ」
ウキウキボイスの澤田に、俺は「あー」と返事に困る。こいつは川勝の眼鏡をはずしたところを見たことが無いのだろう、目の前の少女が校内屈指の奇人であることにまるで気付いていない。
「ああ、あいつは」
「ねえ白川君」
突如川勝が話しかける。呼ばれたのは俺だが、澤田が「はい、何でしょう!」と威勢良く振り返る。
「背中に一匹、トビケラついてんで」
「へ?」
「うわ! なんやこの虫!」
指差す川勝。澤田は俺の背中を見てぎょっと後ずさった。
「ああ、さっきの一匹取り逃してたのか」
宇治川で一生分を見てしまったせいか、もうトビケラに関しては驚くことも嫌悪することもなくなっていた。そんな俺の様子に、澤田は「え、え?」と困惑する。
「ちょっと待っててや」
川勝は静かに、足音も立てず俺の背中に回り込む。
「……はっ!」
そしてほんの一瞬、目にも止まらぬスピード。俺の背中向けて川勝が手首を振ると、その細い指はトビケラの小さな身体をはさみこんでいた。
「お前、そんな芸当持ってたんか。網使うより手づかみの方がええんとちゃうか?」
「それやと高いトコ届かへん。これは最後の切り札よ」
川勝は今しがた捕まえたトビケラをケースにしまうため、再び職員室に鍵を借りに戻った。
その後ろ姿を見送る俺の肩に、ぽんと澤田の手が置かれる。
「すまん……やっぱ今の件は取り消してくれや」
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