第二章 その5 嬉しいような悲しいような
翌日、化学室に到着すると、頼みがあると川勝が話しかけてきたのだった。
こいつから俺にすすんで話しかけてきたのは初めてだ。いつも何を考えているのか分からない視線を周囲に撒き散らしているだけだというのに。
「今度の土曜日、空いてる?」
「ああ、空いているけど」
「ほな、お願いがあるんやけど、その日、
「ええけど、俺でええんか? 原田も誘ってみたんか?」
「原田ちゃんはその日、塾があるみたい。それに、ちょっと家遠いから頼みにくいねんな」
そう言えばあいつの家はJR
「分かった。ほな、当日落ち合おう」
「ありがとう。詳しいことはまた伝えるわ」
川勝はそう言い残して、体育館裏のテントウムシの観察に向かった。ほのかにバニラに似た甘い香りが漂う。
俺はメモ帳を取り出し予定を書き込む。高校生になると同時にスケジュールやら提出物やらを自分で管理するようしつけられ、今となってはメモ帳無しでの生活は考えられない。
「そうか、土曜は川勝と宇治川で……」
ペンを走らせようとした途端、俺の指が止まる。
「待て待て待て待て!」
手が震え、文字をまともに書けない。
「土曜日……川勝と……宇治川で……2人きり!?」
のけぞり過ぎて椅子から転落してしまった。床に頭をぶつけて目から火花が飛び出たが、すぐにメモ帳を覗きなおす。
「おいおいおいおい、まさか俺が女子と2人きり!?」
女子率の高い部活に所属する俺だが、悲しいことに校外で女子と2人だけになった経験は一度も無い。例えそれがどんな変人奇人でも、だ。いつもとは数段違うシチュエーション、意識せずにはいられない。
「でも、よりによって川勝かよ……1組の坂井さんとなら喜んで行くのに」
少々残念だが、約束してしまったものは仕方ない。どうせ休日は予習とゲームくらいしかやることは無い。
「おっはよー、シロ!」
いつも通りの耳の穴から気力の抜けてしまいそうな癒しボイスが化学室に響く。小学生が体操着を入れるのに使いそうなくまちゃんの描かれた巾着袋をぶんぶんと振り回しながら、先輩はやってきた。
「今日はこんなもの持ってきましたー!」
そしてハンマー投げの要領でくまちゃん袋を俺に投げつける。天井すれすれで弧を描いたそれは、俺の胸元にすとんと落ちた。
巾着をほどき、覗き込んだ俺はすぐに言葉を失った。
中にはジャージに紛れて、袋詰めされた丸餅が入っていた。
「餅、ですね。袋に袴着た人がお雑煮食べてる写真まで載ってますよ」
「そう、昨日食料品の整理してたら、お正月のために買っておいたのがひょっこり出てきたんよ。賞味期限も大丈夫やし、みんなで食べよ!」
まさか新年を迎えて半年近く経過していると言うのに、正月用の餅を食べるとは予想だにしなかった。先輩は鞄を置くなりガスバーナーと金網、アルミホイルなど調理器具……いや、実験器具をせっせと準備し始める。
「うちの部はいらんもん処理する団体とちゃいますよ。食うもんは食いますけどね」
俺も食器棚……いや、用具棚からビーカーを取り出す。薬品の間に隠しているお茶と醤油を机に並べ、初夏の一大茶話会は着々と実現に向かっていた。
「うわあ、またあんたら……」
続いて原田も登場した。もう何が起こっても驚かないだろう、横たえられた餅の袋を見ても目を細めるだけで、椅子の上にカバンを乱暴に置いた。
「何で季節外れのお正月味わっとんねん」
「お正月でないと、こういう時にしかお餅焼く機会無いしなあ」
「うちの部はいらんもん処理する団体とちゃいます。まあ、私も食べますけど」
原田も俺と全く同じ反応を返した。やはりこいつも立派な化学部の一員だ。
小さな青い球状の弱火で金網も程良く熱せられ、餅を焼くには十分過ぎるステージが揃った。普段は粉末の薬品を載せているガラス製のシャーレも、今日ばかりは取り皿代わりに醤油が注がれ、スタンバイ完了!
「お餅、いっきまーす!」
先輩が丸餅を手でつまみ、ひょいと金網にひいたアルミホイルに乗せる。普通ならビーカーを乗せるはずのものなので、一度に精々三個しか乗らないのは御愛嬌だ。この金網自身も餅を焼くことになるとは思いもしなかったろう。
餅の中心が風船のようにぷくーっと膨れる。ひっくり返してやると、固くなった表面が割れて、中から柔らかい白のゲル状物質がとび出す。
「ふわふわのもちもちやで」
食べ頃と判断した先輩が割り箸を伸ばし、餅の端をつまむ。
「うーん、まいうー」
「懐かしいギャグですね」
そんなこんな言いながらも、やはり焼き立ての餅は美味い。
そう言えば先輩の実家は料亭だ。やはり普段の食事も良い素材を使っているのだろうか。
「もち米の成分ってアミロペクチンやっけ? 今年のテーマは多糖類の分子量から予測する餅の膨らみ、とかでも良さそうやな」
「いやいや、昨日話し合って決めたばかりでしょ」
先輩の何気ない一言に俺はすかさず突っ込んだ。そもそも糖類をはじめとする有機化学分野は測定も難しすぎるので、この学校の設備だけでは実験は不可能だ。
「そーいやシロ」
餅に醤油をしみ込ませながら原田が俺に尋ねるので、俺は餅を頬張りながら「ん?」と返した。
「智子ちゃんと行くやんね? 宇治川」
餅を一気に呑み込み、ゴッホゴッホとむせる。
「ええ、それ初耳! 良かったやんシロ、初夏の宇治川デートやで」
先輩が目を輝かせる。
「ほらほら、話しなさいよ。どういう経緯でそうなったん?」
原田もにやにやと笑いながら顔を近づける。この女豹どもめ。
「ただの昆虫採集です! そういうのやありません!」
ドンドンと胸を叩いて餅を胃袋まで落とした。
「ホンマに? 内心ドキドキワクワクしとるんちゃうん?」
「ちゃいますって! だいたいあの死んだ目した奇人ですよ、そんなロマンチックなムードになれって方が無理ありますよ」
要らん誤解をするなと、俺は吼え返す。
だが俺は自分の大声のせいで気付いていなかった。いつの間にか、化学室の扉が開けられていたことを。
「先輩……」
化学部の面々が顔を青ざめる。
ゆっくり振り返ったそこには、生物部のトシちゃんこと森下君が立っていたのだった。
川勝を慕うこの下級生だ。全身を震わせ、童顔ながらも目は完全につり上がっていた。
「森下……くん」
俺は作り笑いを浮かべるも、彼は手にした鞄を床に落とし、ずんずんと俺に詰め寄る。
「先輩、思っても行ってはいけないことがありますよ! 智子さんは確かに死んだ目してるし奇人だし字は汚いし意外とどんくさいけど、俺にとっては大切な先輩なんです!」
「いや、誰もそこまで言ってへんぞ」
お前の方が色々増えてるやないか。そう思いながらも、トシちゃんの剣幕に俺は情けなくも縮こまってしまった。
だが、トシちゃんも自分の声で気付いていなかった。
「トシちゃん……」
いつの間にか、川勝も化学室に来ていたことに。
「と、智子……さん」
蒼白を通り越し、緑色さえかかった顔でトシちゃんが振り返る。
川勝は不気味にメガネを光らせ、のっそのっそと硬直したトシちゃんに歩み寄る。
そして十分近付いたところで、後輩の脛に一発、全力の蹴りをぶちこむと、ぷいっと方向転換して部屋を出ていった。
「ああ、待ってくださーい!」
蹴られた脛を庇いながら、川勝の後を追って部屋を出るトシちゃん。
残されたのはいつもの化学部のメンバーと、ゆらゆらと炎に炙られて膨れ上がる餅だけだった。
「シロ、口は災いの元やで」
しばらくして先輩が俺を指差したので、「俺が悪いんですか!?」ととりあえず突っ込んでおく。
初夏の宇治川。俺はこの時、その真意をまだ知らなかった。
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