第二章 その4 話し合われるテーマ
「ほな、これから何を研究していくか、みんなで確認しよっか!」
講義用の黒板の前に丸岡先輩が立ち、残った4人は黒板のすぐ前の机に並んで座っていた。
「まずはうちらから」
先輩は白チョークを握り、黒板に向かう。『近畿新聞高校生科学大賞……9月』と流暢な字だ。
「化学部は毎年、近畿新聞主催の高校生科学大賞に出品してて、今年もとりあえずはこれを目指して研究を進めていこうと思うねんな。ただ、今年は廃部の危機にさらされて色々あったから、研究テーマもまだ決まってへんねんな」
確かに廃部の件で色々はあったが、そもそもアホなことばっかしてた記憶が多過ぎて研究を疎かにしていたとしか思えないのだが。まあ、研究内容について全く話していないことも無いので、話題に昇ったものからチョイスしていけば問題無いだろう。
「今はそんな現状。川勝さん、生物部はもう研究始めてんの?」
「はい、もう始めています」
話を振られた川勝は黒板を指差した。先輩はその意図を理解し、黒板の前からすっと移動すると、川勝は席を立って黒板に文字を書き始めた。『都市部における昆虫発生の分析』と読めるが、形はいびつで大きさもバラバラだ。筆順も色々と違う。
そんな書道の先生が一喝しそうなブツを作り上げると川勝は振り返り、ぼそぼそと話し始めた。
「今、私達はこのようなテーマで研究を進めています。京都市内の緑化地帯に、どのような昆虫が飛来し、発生しているか。その昆虫がどのような生態系に組み込まれているかを調査して考察しています」
「昨日、体育館裏でテントウムシの幼虫捕まえてたあれやんね」
原田が尋ねると、川勝は「うん」と頷いた。
「どこの科学賞に出品するかは決まっていませんが、この調子だと9月には間に合いそうなので、こちらも近畿新聞高校生科学大賞に出品しようと思います」
そう言いのける川勝。相変わらずのボソボソボイスだが、決断は早いタイプのようだ。
「何か質問はありませんか?」
川勝が俺たちを見回す。誰も手は挙げなかった。
元々生物部の中で決まっていたテーマだ。俺たちが今更どうこう言える立場じゃないし、そもそも生物のことなんざ分からん。川勝とトシちゃんのやりたいようにやればいい。
5秒ほど待って、川勝はぺこりと一礼して席に戻った。代わって先輩が黒板の前に立つ。
「もういいかな。ほな、化学部のテーマを決めよっか。ええと確か前に話し合った時は……」
「あの、ちょっといいですか?」
突然川勝が手を上げるので、先輩は「はい?」と拍子抜けした声で返す。
「体育館裏の観察の時間なので、少し脱けたいのですが」
一瞬で空気が冷え込んだ。その場にいた誰もが言葉を失った。
「まあええけど、できれば早めに戻ってきてね」
やんわりと、丸岡先輩が言う。
「はい、すぐに」
原田は鞄を抱えて化学室を出ていった。
「僕も。智子さんのお手伝いせんと」
トシちゃんも続く。化学室はいつものメンバーが茫然とした顔で座り込んでいる、以前にも見られた光景が残されていた。
「……これからみんなで決めようって時に」
原田が頬を膨らませて項垂れた。
「まあ、しゃあないしゃあない。テーマ決まってるんやし。でも、こっちの話にも参加しては欲しかったなあ」
丸岡先輩は俺達のいる机にもたれかかった。
一方、俺はというと何も喋る気にならなかった。川勝が変わり者だというのは、やはり正当な評価だと思えてきた。
「ほな、私らもテーマ決めよっか。前挙がってたんは確か『京都市内地下水の定量分析による水質調査』と『和歌山と愛媛どちらのミカンがより電気を生むか』やったな」
「議論する余地も無く前者ですね」
まったくその通りである。今年のテーマはこの方向で一同の了解が得られたので、我々はどの薬品が必要かを話し合うことにした。この実験室にもある程度の薬品は揃っているが、量の少ない物やそもそも持っていない物を注文するためだ。
「定量分析するなら先に溶質の種類を特定する必要がありますね。ですが有機物の分析となると私らには難しいので、テーマを金属イオンに絞って系統分析を繰り返せば形になるんやないですか?」
原田は分厚い理化学辞典をペラペラめくりながら話す。俺は原田の横で飛ばされていくページをじっと眺めていたが、耳と頭は会議に参加していた。
「系統分析なら必要な薬品は限られているで。希塩酸(HCl)、希硝酸(HNO₃)、アンモニア(NH₃)水溶液、硫化水素(H₂S)水溶液、それに炭酸アンモニウム((NH₄)₂CO₃)。硫化水素が切れかけてたから、新しく買い足そっか」
こういうもののチョイスなら任せろ。
「そういやアンモニア水溶液も古くなってたよ。揮発して濃度変わってると思うから、新しく買っとこ」
先輩はルーズリーフに今まで挙がった薬品の名前を書き連ねていく。実験には使うか分からないが、他にも少なくなっているという理由で注文しておきたい薬品もあるのだ。
15分ほど話し合ったところで、突如ガララと実験室の扉が開く。川勝とトシちゃんが帰ってきたのだ。
「おかえり、収穫はどうやった?」
振り向きざまに原田が尋ねた、が、すぐに絶句して固まる。
川勝の目がいつも以上にキラキラしている。これは何かあったのだな、と誰もが思っただろう。
そして物凄い早口で話し始めたのだった。
「見つけたんよ、カラスアゲハを見つけたんよ! 飛んでたんよ、カラスアゲハが!」
「へ?」
元化学部3人の頭に揃ってクエスチョンマークが浮かぶ。
「まさか見られるなんて思ってなかったで、アオスジアゲハならわかるけど、カラスアゲハは珍しいやん! どっかから飛んできたのか、それとも気付かなかっただけで校内に元からいたのか、ああ、カラスアゲハ最高やわ!」
こっちのことなどおかまいなしにマシンガンのごとくしゃべり続ける川勝。見かねて後ろに立っていたトシちゃんが話し始める。
「えー、カラスアゲハっていうチョウがいるんですけれど、そいつが植え込みのレンゲツツジに寄っていたんで、珍しくってすごくテンションが上がってらっしゃるんです」
「通訳ありがとう」
俺は親指を立ててトシちゃんに向けた。
「カラスアゲハってどんなチョウ?」
場を和ませるために原田が尋ねたのが先か後か、川勝はポケットから文庫本サイズの昆虫図鑑を取り出し、ぺらぺらとめくり始めた。こいつ、いつもこんな物持ち歩いているのか?
「この子よ」
本をこちらに向けて、川勝は一匹のチョウの絵を指差した。
黄をベースとした色鮮やかなアゲハチョウ、真っ黒な翅にオレンジの玉がアクセントのクロアゲハ、漆黒に輝くほどの水色の走るアオスジアゲハ。
それらと並んでカラスアゲハは描かれていた。クロアゲハに似ているが、体色は黒と言うより深い青緑であり、粉末のサファイアを塗り付けた陶器のような翅。鮮明な青のアオスジアゲハとは全く逆の、深く高級感あふれる青色だ。
「……これ、かわいい?」
原田は眉間に皺を寄せていた。
「かわいいというか、カッコいい」
川勝は原田の顔を覗こうともせず、自分も図鑑に魅入っていた。こいつの頭の中では今でもひらひらと舞うそのカラスアゲハの優雅な飛翔動画が再生されているのだろう。
「トシちゃんトシちゃん、ちょっと質問なんやけど」
俺はトシちゃんの横に歩み寄りツンツンと脇腹を小突く。身長が20センチ近く離れているのでみぞおちにパンチを喰らわせているかのようだ。
「川勝さんて普段からこんなん?」
「はい、珍しいモン見つけた時には。去年、アケビコノハっていうガを見つけた時には、追いかけて道路の真ん中まで飛びだしたこともあるみたいです」
トシちゃんがぼそっと漏らす。
「トシちゃん、もう君も感じていることと思うけれど、川勝さんて相当の変わりやろ?」
「反論はできません。でも、良い意味でね」
こいつ、相当惚れこんでやがるな。
噴き出すのを我慢している俺に、そっと原田が俺に耳打ちをする。
「恋は盲目やね」
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