第二章 その3 スクロース、またはショ糖

 翌日の放課後、化学室に直行すると丸岡先輩が既に席に座っていた。ビーカーにコーヒーを淹れながら。


「何ですか、また新しい試みですか?」


 漏斗にろ紙を巻いて熱湯を注ぎ、ぽたぽたと落ちていく褐色のコーヒーは鼻の奥をつーんと刺激させる。実に奥深い芳ばしい香りだ。


「ええやろ、良質なブルーマウンテンやで。家から失敬して来てん」


 下のビーカーがいっぱいになると別のビーカーを置き、再び漏斗へとお湯を注いだ。どこから持ち込んだのか、小さなやかんをガスバーナーで温めてお湯を沸かしている。


「わざわざこんな時にコーヒーなんて、コロイドの研究でもする気になったんですか?」


「そんなことしぃひん。ほら、今日から生物部の2人もここで活動するわけやし、ささやかなおもてなしよ」


「ええ心掛けですけど、いきなりビーカーに入ったコーヒー渡されてもリアクションに困るだけやと思いますよ。それに研究をそんなこと呼ばわりしたらあかんでしょ」


 そんな会話をしながら、俺も化学部の棚からビーカーを1つ取り出し、いっぱいになったビーカーと取り換える。ビーカーの半分くらいが焦げ茶色の液体で満たされたところで、俺は重大なことに気が付いた。


「砂糖は?」


「持って来てるで。はい」


 先輩はスティックシュガーを胸ポケットから取り出し、一本俺に放り投げた。回転するスティックシュガーを俺は危なげ無くキャッチする。


 おっと、胸の圧力のせいかな、スティックが少し湾曲しているぞ。


 名残惜しいが紙の袋をびりびりと破り、ドリップ中のコーヒーに注いだ。漏斗を使えば普通のドリッパーと違い、滴下中に砂糖やミルクが注ぎ足せる。新発見だ。


「……何かの調合ですか?」


 甲高い男の子の声がする。振り返ってみると、黒いリュックを背負ったトシちゃんが茫然と突っ立っていた。


 先輩はにへらと顔をほころばせながら、トシちゃんにおいでおいでと手招きする。


「いらっしゃいトシちゃん、カフェインとスクロースの混合水溶液を作ってんねんで」


「こんな時だけ化学部っぽく言わんといてください。結局はコーヒーと砂糖混ぜてるだけですよ」


 俺は砂糖を入れたコーヒーに口を付ける。苦みだけでなく、辛みにも近い刺激的な舌ざわりだった。なかなかに良い豆を使っているようだ。


「実験室は飲食禁止やありませんでしたっけ?」


「ああ、そう言えばそんなのもあったけど、この学校はうちら以外化学室を頻繁に使う人はおらんからなあ。理系でも化学実験て滅多にやらへんよ」


 俺たちも化学実験を頻繁にやっているようには思えないが、この学校の化学担当教諭が化学室を蔑ろにしているのは事実だ。


 受験対策に力を入れ過ぎているきらいのある本校の理科指導は、実験よりもまずテキストから入るのが常だった。テスト前に至っては問題演習で時間が使われる。1年生で履修した『化学基礎』では単元に1回の頻度で実験を行っていたが、それですら今となっては多い方に感じてしまう。


「まあ、生物室もあまり使われてはいないみたいですけど、こうも堂々と飲食されてるとこそこそとお菓子食べてるのもアホらしくなってきますね」


 そう言ってトシちゃんは俺達の机にカバンを置いた。


「はい、どうぞ」


 先輩はコーヒーの入ったビーカーとスティックシュガー、それからコーヒーフレッシュを1つトシちゃんに手渡した。トシちゃんは「すみません、砂糖をもう1本」と手を伸ばしたので、先輩はスティックシュガーをもう1本胸ポケットから取り出した。


 手渡されたオプション全てを投入し、熱かったのかフーフーと息を吹きかけながらコーヒーをちびちびとすするトシちゃんは挙措の全てがあどけなく、とても高校生には見えなかった。腰の金属チェーンだけが妙に浮いている。


「トシちゃん、コーヒーよりココアの方が良かったかな?」


 俺はからかい調子で尋ねたが、トシちゃんは戸惑いも無く答えるのであった。


「ええ、コーヒーよりは甘いのでココアの方が好きです」


 部長は顔を反らし、口に手を当てながら必死に笑いを堪えていた。トシちゃんはようやくぬるくなったコーヒーを傾けて飲み始めた。


「来たよー」


 丁度原田が入ってきた。しかも川勝と並んで。


 2人はビーカーでコーヒーを嗜む我々を見るなり、目を飛出んばかりに目を丸くさせる。


 すぐさま原田が俺たちの机にずんずんとガニ股で近寄る。川勝は入口付近で一瞬立ち止まったものの、ビーカーを口に当てるトシちゃんの方を見るとそちらに向かっていった。


「今日はコーヒーですか、いっそのことここで喫茶店でも開業しません?」


 原田がへらへらと笑いながら話しかけるが、その目は笑っていなかった。


 流石の先輩も返す言葉に詰まったようで、ぴくっと顔が引きつってから、ぎこちない笑顔を浮かべる。


(おいおい、原田)


 俺は原田の耳に顔を寄せ、ささやき声で話しかけた。


(これは生物部員の歓迎のために先輩が用意しはったモンやで。あまりカッカせんでも)


(生物部は化学部より真面目な団体なんよ。いきなりこんなん見せつけられたら面食らうに決まってるやないの!)


 小声でも鋭い怒気。原田は顔をしかめた川勝とビーカーを口に当てているトシちゃんに向き直り、スポーツバッグをブラブラ揺らしながらはははと笑った。


「生物部では多分考えもしぃひんたと思うけど、化学部ではありふれたいつもの光景やで。この人ら、化学研究以上に料理研究に力入れてるくらいやしな」


「この人ら、て俺も含めんなよ」


 俺は原田の頭を軽くはたいた。その様子を見てトシちゃんが少し眉毛を上げる。


「……仲が良いんやね、化学部は」


 川勝がぼそりと言い放った。呟きに近い声で。


「そうそうそう。仲の良さがうちの取り柄。智子ちゃんもコーヒー飲む?」


 原田は誰も口を付けていないコーヒービーカー(何じゃそりゃ)を一杯持ち上げて川勝に突き出した。


 川勝は「ありがとう」と言って砂糖も入れずに飲み始める。眼鏡が曇り、眠たそうな目が隠れる。眼さえ良ければこいつも中高のアイドルになれたろうに。

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