第二章 その2 うちの姉ちゃん

 その後、何やかんやプライベートなことや授業のことをわいわいと話し合って過ごしていたら、みんなで巨大お好み焼きを3枚平らげていた。


 既に陽も沈み、往来は会社帰りのサラリーマンや部活帰りの学生が目立ち始めたので、それぞれ家に帰ることにした。俺は自転車を取りに一度学校に戻るが、他のメンバーは全員電車で帰るので、店の前で別れることになった。


「ほな明日は一旦化学室に集まって、今年の科学コンテストに出す研究テーマでも決めよっか」


 解散の直前、先輩は円形に並んだ面々の顔を見まわした。全員が「はい」と返事したが、俺は内心冷や冷やしていた。次の研究テーマなんて全く考えてないぞ。


 さようならと手を振って挨拶をした後、俺は自転車を取りに学校まで戻り、そのまま薄暗い京都の町を突っ走った。


 歩道は狭く人通りも多いというのに、派手なネオンなど一切無い。市街地の真ん中でありながら闇の支配する面積の方が圧倒的に大きなこの不思議な光景は京都独自と言えるだろう。


 俺の自宅は京都市街地の中心から北東方向の聖護院しょうごいんにある。平安神宮や動物園の近くと言えば分かりやすいか。ここら辺の表通りはコンクリート製の四角い建物が目立つものの、一本入れば木造の古い町屋が隣の家とくっつきながら並んでいる。


 軽自動車がようやく一台通れるほどの狭い路地をしばらく進むと、道路と私有地を隔てる排水路に玄関の扉がぎりぎりまで迫っている木造2階建てが見えてくる。ここが俺の自宅だ。


 俺は自転車を押しながら木を格子状に組み込んだ引き戸をガラガラと開け、そのまま自転車ごと玄関の敷居をまたいだ。


「お帰り、生物部は楽しかった?」


 居間から姉が顔を覗かせる。


 俺は家の裏まで伸びる土間の奥に自転車を置きながら「まあねー」と答えた。この家は京町屋では典型的な、いわゆるウナギの寝床の構造をしている。表から見ると横幅は狭いのだが、奥行きは長く、家族4人でも十分すぎる暮らしぶりが堪能できる。


 裏庭まで突き抜けた土間、高い天井にいぶした木材を組んだ梁、そして家の裏には松とコケを茂らせた坪庭。明治時代にひいひい爺さんが建替えて以降、大きな改造を加えられなかったこの家は昔ながらの風格を残しており、友人を招くと決まって「ここで店を出せば絶対流行る」と言われる。


 スニーカーを脱ぎ、居間に上がると畳の上にすぐ寝転がる。


「食べて帰ってすぐ寝て、牛になるで」


 横になりながらテレビニュースを見ていた姉が俺の背中をバシバシと叩く。


 姉は市内の私立大学1回生で俺よりも2つ年上だ。焦げ茶に染めたポニーテールというスポーディーな髪型をしているが、別にスポーツをやっているわけではない。中高大と通して美術部だ。


「あんた、電話で化学部と生物部が合併したって聞いたけど、どうなん? これからうまくやっていけそう?」


 姉はテレビ画面に目を向けながら尋ねた。


「いけるんとちゃうか。結局やる研究はそれぞれの自由やし、俺ら元化学部のメンバーが生物関係の研究に直接関わる必要も無いしな」


 俺もテレビに顔を向ける。おじさんアナウンサーがまた琵琶湖びわこでまた新手の外来魚が見つかったと報じていた。なんでも北米に棲むガーパイクの一種が発見されたらしい。本当に、世界の湖沼と琵琶湖は底がトンネルでつながっているんじゃないか?


「それってなんか感じ悪いなあ。そういう研究は部員一丸になって取り組んでいるもんかと思ってたんやけど」


「そうでもないで。研究は少人数でやった方がテキパキ動けるし、話し合いも楽や。アドバイスもらったり、不足が無いか見てもらったりはするかもしれんけど、それ以外は各自の研究を進めていくもんやで」


「へぇ意外。うちはあんたが生物部らしく動物の解剖して、その内臓を丹念に取り出して、しまいには小腸で縄跳びしてしまうもんやないかと思ってたんやけど」


「前の方はまあ有り得るとして、どこの生物部がそんなアホなことしとんねん」


 俺は笑ってごまかしたが、化学部も普段からビーカー蕎麦だとかヘリウムガスを溜めたポリ袋をかぶってアニソンを熱唱してみたりだとかアホなことばっかしてんだよなあ、これが。


「あんたの高校ならやりそうやと思ってん。ほら、成績ええ子に限ってアホなことしよるやろ」


 姉に異論は無い。物理地学部の学年首席の奴も図書館の本を積んでジェンガをしていたことがある。しかも先生に気付かれず、うまいこと隠れてやりやがるんだ。


「でもまあ、あんたが生物の研究をやることなんか無いか。何せカエルすらロクに触れへんもんな」


 いつもの姉のおちょくり言葉だ。俺が小さい頃から大のカエル嫌いであることを姉はすぐに引き合いに出してくる。


「カエルの話は出すなよ。それにトカゲも昆虫も平気や、カエルだけがあかんねん」


 純真な4歳の俺に胃袋を吐き出すカエルは衝撃的過ぎた。ぬめぬめとしたピンク色の塊が、トノサマガエルの巨大な口からゴバッと這い出てくるあの不気味さと言ったら、トラウマにしかならない。


「むかーしむかーし、ウシガエルというカエルがアメリカにおりました。ある日ウシガエルは人間のおじさんに連れられて日本という国に連れてこられました。しかし本当はウシガエルは食用として……」


「やめい、晩ご飯食えんようになる」


 俺は手で耳を塞ぐが、姉は顔を耳元に近付け更に大音量ではるか昔の物語の続きを語り続ける。俺は必死で転がりながら姉の追撃をかわしていた。


 その日の晩ご飯は早めに済ませた家族の残り物で、ご飯、千枚漬け、麩のお吸い物、大根の煮物、そして主菜のさわらの西京漬けと一般的な家庭料理だった。当然ながらカエルなどどこにも使われていない。

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