第一章 その3 誕生! 化学生物部

「さて、合併についてどういったことをお話しに?」


 羽虫の鬱陶しい体育館裏から離れ、俺たちは中庭のベンチに腰かけていた。


 木製の机に先ほど採集したばかりのテントウムシ幼虫が詰まったタッパーを置き、川勝は――部長同士で軽く自己紹介したのだが、やはり川勝智子本人だった。この娘は2年でありながら生物部の部長を務めている――虚ろな目で尋ねた。


 川勝と向かい合う形で座っていた丸岡先輩が「はい」と朗らかに答える。


「私達化学部は今部員が三人、廃部まではあと1週間で決まってしまいます。生物部も今年は部員が少なくて困っているとお聞きして、お互い廃部の危機に瀕している身。ここは合併して、部員を増やし、生き残りを図ろうやないかと思うんです」


 いつもと変わらぬノリの良い調子で、詰まること無く先輩が言い終えた。


「確かに、うちの生物部も部員2人やと危ないですね」


 ぼーっとした外見の割に、川勝の受け答えはしっかりしていた。話し声は相変わらずのぼそぼそとした聞き取りづらいものであったが。


「研究内容に支障が出ないのなら私はかまいませんが……トシちゃんはどう?」


「俺ですか?」


 川勝の隣に座っていた生物部の男子はたじろいだ。まだ声変わりしていないのか、やけに甲高い声だ。


「智子さんがそう言うなら……でも、本当にええんですか?」


「ええよ、研究が続けられるんならね」


 意外にもすんなりと話は進んだ。変わり物と評される川勝だが、そう悪い印象は受けない。


 それにしてもトシちゃんて……俺は笑いを必死に堪えていた。お母さんが小さい子どもにスーパーでお菓子を選ばせているんじゃあるまいし、先輩後輩、しかも女子と男子でこんなやり取りを見たのは初めてだ。


「よし決まり。いやあ、ありがとうありがとう」


 先輩は川勝の手を取り、仰々しく両手で掴んで頭を下げながら握手をした。俺たちも釣られて頭を下げる。川勝に表情の変化は無かった。終始何を考えているのか、相変わらず焦点の合わない目をしていた。


「ほな、合併後の話やけど、部の名前は何にしましょう? 生物部と化学部やから、物理地学部みたいに『生物化学部』とかでええかな?」


 先輩がでへへと笑いながら尋ねる。途端に、川勝の目が険しくなった。


「生物化学はそういう学問分野がありますから……勘違いされてしまいます」


 先輩は「へ?」と言葉を詰まらせ、俺と原田は顔を見合わせた。


 生物化学というのはいわゆる生化学のことだ。細胞に含まれる分子の構造から化学的に生物の解明を試みる学問分野なのだが、いちいちそんなこと気にする奴がいるか?


 先輩は再度川勝に向かい合い、「あー」と喉の調子を整えてから続いた。


「それなら、『化学生物部』としましょうか?」


 語感悪いなあ。その場に居合わせた誰もがそう思っただろう。原田も訝しげに口をとがらせていた。


 化学生物って聞くと、試験管の中でクリーチャー的な何かを創り出す、みたいな響きだ。


「私はかまいません。トシちゃんは?」


「智子さんがそれでええんなら」


 生物部の童顔男子は頷く。川勝の言うことに対しては徹底したイエスマンのようだ。


 それにしてもトシちゃんはないわ。




「トシちゃんはないわ……」


「そう? 年下の子って案外そう呼ばれるもんやで。ほら、『辻風学園』でも風馬先輩が律樹くんのことを『りっちゃん』て」


「それBLゲーの話やろ。ここは現実世界のジャパンのキョートシティや」


 俺と原田は化学室に2人きりで談笑していた。


 中庭での話し合いの後、2つの部は『化学生物部』として手を取り合っていくことに決定した。部室は生物部と化学室の両方を臨機応変に使えるように頼むつもりだ。先輩と川勝はそれぞれ顧問の先生にその旨を頼み込みに行っており、残った部員は化学室で待機している。


 ただトシちゃんは採集したテントウムシの幼虫を片付けに行くと、生物室に寄ってから来るそうだ。


「それにしても川勝智子ってのはあの女子のことやったんやな。俺は無口で陰気としか聞いてへんたけど、結構スッと自分の考え言うタイプやったな。噂やと相当な変人奇人扱いやのに」


「あ、その噂って芋虫食べたとかいうあれ?」


 原田が悪戯っぽく笑う。


「あれはただのデタラメやで。うちのクラスメイトで、川勝さんの友達の子は『智子は虫の焼いたのは食べるかもしれんけど、生のままでは絶対食べへん。生魚が大の苦手やもん』て言ってたで」


「それ、理由になっているようでなってへんよな」


 原田のクラスは6組、特別進学理系クラスの2つ目だ。俺がいるのは2組で、普通科の理系クラスだ。


 川勝は5組で、俺達のクラスが重なったことは一度として無い。奇人川勝のことを俺たちが知らなくとも不思議ではない。


「うちの聞いた話では川勝さんが無口なんは事実やけど、陰気ではないらしいで」


「陰気てのは後から付いた尾ヒレか。いやはや、人の噂は怖いな。でも虫を食ったてのはどっから湧いたんやろな?」


「智子さんの悪口を言うな!」


 突如、ガラス器具全てがびりびりと震えるような怒号が化学室に響いた。一瞬で身体中に鳥肌が立ったかと思い、声のした方に身体を向ける。


 化学室の入口にトシちゃんこと、生物部の小柄男子が立っていた。まあるい目玉を可能な限り三角形に曲げていて、どこか滑稽だが凄まじい怒気が感じられる。


 俺たちと目が合うと、トシちゃんはズンズンと床を踏みながらこちらに寄って来た。腰に付けた重そうなチェーンがジャラジャラと鳴る。


「智子さんは俺の大事な先輩です、根も葉も無い噂話なんか広めないでください!」


 耳に障るような甲高い怒鳴り声。


「ああ、ごめん。ただ、そんな噂があるって話してただけで、別に広めてなんかないよ」


 これ以上怒らせるのは耳に悪いと思い謝る。だが、可愛らしい声で怒鳴られると無性に笑いがこみ上げてくるのは仕方ない。


 原田も原田で「ごめんね」と謝る素振りを見せながらも口角を上げて震えていた。


「……ならええんですけど。智子さんは研究熱心なだけですんで、あること無いこと言い回らんといてくださいね」


 トシちゃんはフグのように頬を膨らませながら俺たちのいる机とは斜めの位置にある机に座った。原田は俺に顔を寄せ、ひそひそ声で話し始めた。


「川勝さんて、随分慕われてるみたいやね。うちの部長やったらどんな噂立っても、あの人のことやし十中八九ホンマやと思えてまうで」


「お前、先輩のこと舐め過ぎやろ」


 俺は原田の頭を軽くはたいた。しかしこのことに関しては全くの同感である。あの人のことなら例え学校一のイケメンに告白されたと聞いても、それを振ったと聞いても、承諾して3日で別れたと聞いても、全て疑い無しに信じてしまいそうだ。


 俺はトシちゃんに向き直り「ねえねえ」と話しかける。トシちゃんは「はい?」と素直に振り返った。


「俺、2年2組の白川秀治って言うんやけど、まだ名前聞いてへんたよな?」


「あっ」と小さな声を上げて、トシちゃんは続けた。


「僕は1年3組の森下敏則もりしたとしのりて言います」


 思った通り、トシちゃんていうのは下の名前からだったか。


「3組? てことは文系?」


「はい、そうですよ」


 3、4組は特別進学科文系クラスだ。文系で自然科学系の部活に入るのはかなり珍しい。


 それにしても化学生物部は俺以外全員特別進学クラスとなると肩身が狭いな。まあ、普通科2クラスと特別進学文系が2クラス、理系が2クラスというちょっと変わったシステムを取っているこの学校がおかしいと言えばおかしいのだが。特別進学の方が多数派って、全然特別ちゃうやろ。


「森下君ね。うちは原田明香、2年6組よ、よろしくね」


 原田がにかっと爽やかに言うので、トシちゃんは「よろしく」と頭を下げた。


 合併した後は同じ部員になるのだ。今の内から友好的な関係を築いておくのは当然。俺は質問を続けた。


「森下君はどこに住んでるの?」


修学院しゅうがくいんです」


「修学院……結構北の方やね。時間かからへん?」


「いえ、祇園ぎおん四条しじょうから京阪けいはんに乗って、出町柳でまちやなぎから叡山電鉄えいざんでんてつ使えばそんなにかかりませんよ。智子さんもそこから来てはりますし」


「川勝さんも? てことは、森下君は昔から川勝さんを知ってたん?」


 原田が身を乗り出した。


「ええ、中学の頃から知っていました」


「随分長いんやな。幼馴染で同じ部活って、漫画みたいな話……森下君は何で生物部に入ったの?」


 原田が頬杖をついてトシちゃんの顔を覗き込むように尋ねた。中学が女子ソフトテニス部だったためか、男子の後輩ができるのは初めてなので少し嬉しそうだ。


「そりゃあ、生物の研究がしたいからですけど……」


 トシちゃんの声は後になるにつれてかき消えていった。目も原田ではなく、後ろの棚へと反らされる。


「そう言えば、今日は体育館裏で何してたん?」


 答えたくないという雰囲気を悟ったか、原田はすかさず質問を変える。


「実は、今の研究テーマが『都市部における昆虫発生の分析』で、京都の市街地にはどのような昆虫が分布しているか調べてるんですよ」


「市街地? 鴨川沿いとか山の中やなくて、市街地限定なん?」


 俺は仰々しく驚いてみせた。トシちゃんは「ええ」とはっきり発音して頷いた。


「市街地の中にわずかにできた植物の群生地や、水たまりなどではどのような生物が発生しやすいかを調べるんですよ。うまくいけば環境の変化にも強い生き物が特定されて、その生物が見られるからって自然環境が豊かやと言いきれるかどうか、疑問を投げかけられますよ」


 俺は「はあはあ」と納得してしまった。都市の僅かな繁殖地で大発生した生き物が分布を都市全体に広げたからと言って、その都市は自然が豊かだとはとても言い切れない。


 例えばモンシロチョウがある町で大量に飛び回っていると言っても、それはモンシロチョウの成長に適したキャベツ畑がすぐ近くにあるためであって、他の生物が多く生息しているかどうかは分からない。


「で、実際に成果は上がりそうなん?」


 原田は席を立ち、トシちゃんのすぐ近くの椅子に座った。その目からはきらきらと興味関心が溢れ出ていた。


 そう言えばこいつは獣医学科志望だったか。実家も動物病院なので親の働く姿はよく見てきたはずだし、化学部員とは言え生き物の話にも興味は尽きないようだ。


「今日はテントウムシの幼虫を見つけました。カラスノエンドウに群がるアブラムシを食べていたんです。とりあえず、この食物連鎖に入っている生き物は都市でも生きていけるんでしょうね」


「ふんふん、そうかあ、そういう関係かあ」


 そういう関係? どうせまた変な妄想膨らませているんじゃないだろうな。この前は突然「塩酸が攻めで水酸化ナトリウムが受けだ」とかどうでもいい主張をしだしたからなあ。しかも水素イオンの授受の観点では間違っていないのが腹立つ。


 今回はテントウムシが攻めでアブラムシが受けとかそんなんだろ。もしくはその逆か?


 突然、原田ががっと俺のいる机にもたれかかった。トシちゃんはわっと腰を浮かせた。


「シロ、どないしよ。アブラムシがテントウムシに攻められてるとこ思い浮かべたら鼻血出そう」


 ドンピシャリ、長いこと一緒にいればこいつの考えなんざ簡単に読める。本当、こんなどーでもいいもの読めるくらいなら英語も読めるようになりたいよ。


「お前、よくもまあそうもくだらんことパッと思い付くなあ」


 トシちゃんは唖然として立ち上がったまま原田を見下ろしている。


「しかもやで、食物連鎖てことは2人とも共生関係……きゃあ、妄想が止まらへん!」


「これ以上1年生の前で放送コードにひっかかるような発言はやめとけ。ほら、森下君もいるわけやから、そろそろ腐れ切ったオタ会話はやめようや」


 項垂れる原田の頭をぐしゃぐしゃとこねる。原田のパーマのかかった髪は余計にいろんな方向に飛びまくり、濡れたアフロヘアのようになった。


「はい、勇者の帰還ー」


 騒々しいスキップで丸岡先輩が帰って来た。誰が見ても満面の笑み。今にも森の動物たちと踊り出しそうな陽気さを漂わせて化学室を軽やかに突っ切る。


 数秒遅れて川勝智子が化学室にとことこと入って来る。こちらは先ほどと変わり映え無く、三十三間堂の千手観音像そっくりの穏やかな無表情だ。


 いや、それは観音様に失礼か。観音様はいつも優しい微笑みを我々に注いでくださる。こいつの場合はただの鉄仮面だ。


 丸岡先輩は俺たちのすぐ側で右腕をピッと天井に突き上げて立ち止まる。


 俺と原田は机にもたれかかっていたが、トシちゃんは「え?」と言い視線を先輩に向けたまま茫然としていた。そりゃこんなアクションのでかい女子を初めて目にしたらドン引きだわな。


「えー諸兄諸子の皆様。私、京都市立中京高校化学部の3年5組丸岡由莉と、同校生物部の2年5組川勝智子女史はこの度、化学部と生物部を合併し『化学生物部』を新設することを化学部顧問である衛藤えとう真之介しんのすけ教諭と生物部顧問服部はっとり修平しゅうへい教諭、ならびに」


「ごたくはどーでもええです。さっさと大事なことだけ教えてください」


 俺は親指を床に向けて手を突き出す。


「もうちょっと雰囲気を出そうや。まあええわ、顧問の先生と生徒会から合併の許可が下りました!」


 先輩はスカートのポケットからきれいに四つ折りした白い紙を取り出し、俺たちに見えるように広げた。それは正しく生徒会発行の部員名簿だった。


「やりましたね先輩!」


「きゃーカッコいい!」


 俺と原田、ついでにトシちゃんも盛大な拍手を送る。先輩は全員にしっかり名簿が見えるように上半身を左右させていた。ついでに胸のソフトボールも左右する……と、危ない危ない。


「正式に組み込まれるのは5月末の生徒総会終わってからやけど、それまで活動しててもええって許可ももらったで。明日からでも研究に打ち込めるよ」


 いや、あんたが研究に打ち込むのは締め切り1か月前からだろ。1年間の11ヶ月をビーカー料理に使う人間のセリフじゃない。


「生物部もひとまず安心ですね。智子さん、これで来年度も同じ研究が続けられますよ」


 トシちゃんは通行の邪魔になっている先輩をカニ歩きで通り抜け、ドアの近くに立っていた川勝に走り寄った。


 川勝はただ一言「そやね」とだけ答えた。

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