第一章 その2 生物部はどこだ?

「ええと、詳しくお願いします」


 割れたビーカーを片付けた後、俺と原田は先輩と向かい合うように座っていた。


 思考の整理が追いついていなかった。原田も原田でいつもならにかにかと笑っているところなのだが、この時だけは口をぎゅっと結んでいた。


「言った通りやで。生物部も部員不足に悩んでいるみたいなんよ。で、いっそのこと、この機会に私ら化学部と合併して、頭数増やして生き残りを図ろうっていうわけやね」


「ちょっと待って下さい、生物部ってそもそも活動していたんですか? 見かけたこと無いから、てっきり潰れていたのかと思っていましたよ」


 原田が目を細める。


「生物部は普段、生物室よりも体育館裏でたまっているみたいよ。私も部長会議以外で顔見ぃひんしな。一応去年は5人いたんやけど幽霊部員ばっかりで、進級を機にやめたみたいよ」


「……ちょっと聞きます」


 俺は左手をそっと挙げて弱々しく尋ねた。


「生物部って部室は生物室ですよね? 合併したとして、部室は化学室か生物室のどちらか、ということになったら実験装置の都合とかでできなくなる研究も多いと思うんですよ。生物室には遠心分離機は無いでしょ?」


 これは結構重要な問題だ。化学と生物とでは実験に使う器具が全く違う。


 俺たち化学部には加熱のためのガスバーナーや温度調節のための恒温器は必要不可欠だ。内容によっては遠心分離機や、ドラフトと呼ばれる有毒な気体を閉じ込めておく小部屋も使う。これらは生物室には無い設備で、代わりに鉗子や孵卵器を渡されても、俺たちにとっては無用の長物でしかない。


 先輩はうーんと唸る。


「うちらも化学部の特権で学校の備品を借りているようなもんやからなぁ。化学部専用の備品て意外と少ないやろ。使う度に先生にお願いしたら、貸してくれへんことは無いと思うけどなあ。鍵くらい職員室に借りに行けば貸してくれると思うで」


 俺は「あー」と言いながら納得せざるを得なかった。確かに、化学部専用で扱っているものは棚のほんの一角を占めているビーカーやフラスコなどの器具類と、シールや薬包紙などの消耗品だけだ。さっき割ってしまったビーカーも化学部の備品だ。


「生物部も似たようなもんやと思うから、どっちが部室になってもそれほど問題にはならんやろ。もしもの場合は、うちらが備品を持って生物室に移って、必要な時に先生に借りるくらいでええと思うよ。他に質問は無い?」


 先輩が言い終わる前に、俺の隣で原田がピンと手を挙げた。


「生物部と合併したとして、研究はどこに出品するんですか? 化学部員は化学で、生物部員は生物の別テーマでの出品はできますか?」


 運動部の大会と同じように、俺たち自然科学系の部活にも大会はある。高校生を対象にした研究発表会がそれに当たるのだが、参加者は各自が研究したテーマとその結果、考察をポスターやプレゼンなどで審査員や一般の参加者に公表する。


 高校生と侮ることなかれ、中には大学顔負けの研究に打ち込み、驚くべき発見を成し遂げる連中もいる。そういった輩はさらに論文まで仕上げて、専門の学術情報誌に取り上げられることもある。


 本校の物理地学部も全国大会の常連で、過去には最高の名誉である内閣総理大臣賞の受賞経験もある名門だ。一方の俺たち化学部は全国まで進んだ実績を持たず、京都府大会ではねられるのが毎度のことだが。


「できないことは無いやろ。1校から1作品とかいう制限でも無い限り、同じ大会にも応募できるはずやで。そもそも科学コンテストは1年中どこかで開かれているし、物化生地ジャンルを問わへんトコも多いから、気にせんでええんちゃう?」


 原田は「それなら」と一言放って、肩の力を脱いた。


「さて、生物部との合併についてやけど、してもええよと……いや、したらあかんと思う場合は手を挙げて」


 先輩は俺たちを見回す。俺も原田も手を挙げなかった。


 合併するにせよしないにせよ、化学部も生物部も互いに自由な研究活動ができるのならそれで良い。部室がどこになるかは分からなかったが、廃部になるよりは100倍ましだ。


「決まりやな、ありがとう」


 先輩は深々と頭を下げた。


「これから生物部に合併を頼みに行くけど、私だけやと心細いから、みんな一緒について来てくれへん?」


 先輩が席を立つとほぼ同時に原田が立ち上がった。ワンテンポ遅れて俺も立つ。




「生物室にはいいひんなぁ」


 化学室とは反対側の建屋の1階、生物室の前まで来て先輩は肩を落とした。生物室は明かりが点いておらず、扉もしっかりと鍵がかかっていた。


「そもそも今日て活動日なんでしょうか?」


 俺は大きく伸びをする。


「いつもいるみたいやけど、外に出てる時間が多いみたいやで」


 先輩は窓から外を眺める。野球部がノックに励み、その向こうで女子ソフトボール部が走り込みをしている。しかし生物部はいなかったようで、ふうと溜息をついてとぼとぼと歩き始めた。俺と原田はその後について行った。


「生物部との合併て、先輩も随分と思い切ったこと言ったもんやな」


 丸岡部長に聞こえないように、ぼそっと原田に話しかける。


「そやね、うちも最初は大丈夫かと思ったんやけど、まあ廃部になるよりはええんとちゃう?」


 原田が顔を寄せて返す。口角が上がったので真白な歯がよく見えた。


「ところで、昨日これ買ったんやけどどう?」


 原田は俺の目の前にスマートフォンを突き出した。いや、正確にはスマホカバーか。


 原田のスマホカバーには『戦国AGE』とロゴが入れられ、派手な黄金色の髪を結い、太刀を振り上げた鎧武者のイケメンアニメキャラがこっちを向いて笑っていた。


「これって新作のキャラとちゃうん? どこでうたん?」


 俺は手渡されたスマホを手に取り眺める。原田はキャーと身震いしていた。


新京極しんきょうごくの『アニメランド』で。昨日発売やってん」


「発売日早々お疲れ様やな」


「ほんまカッコええやろー、やっぱ朝倉くんが一番やで」


 原田はスタイルが良くて顔立ちも整っている。具体的にはやや釣り上がった目付きと通った鼻筋が特徴的で、頬にも腕にも無駄な肉は一切付いていない、スポーツ美少女という肩書がぴったりだ。


 しかし男子に告白されたことは小中高通して今まで一度たりとも無かったそうだ。それもこれも、少しでも親しくなった人間には自分が『オタ女』であることをさらけ出してしまうからではないかと俺は分析している。


 しかもかなり『腐った方の』オタ女だ。その方向に明るくない男子ならドン引きしてしまうだろう。


 だが1年以上も同じ部にいると、すっかりこのテンションにも慣れてしまうものだ。今ではオタ話をしない原田なんか原田じゃないとさえ思えてくる。


 昇降口まで来て、先輩は下足に履き替え外に出る。俺たちも急いで靴を履き替えた。


 簀子すのこの釘が何本か外れているようで、板の端を踏むとその部分がへこみ反対側が跳ね上がる。公立学校はこういう設備の不具合もすぐには改善されないところが悲しい。


「生物室におらんとなると、体育館の裏かなぁ」


 先輩は陽光のよく当たる石張りの校庭に出た後ぼそりと呟く。


 体育館裏は普通の学校生活を送る生徒ならばまず通ることが無いような場所で、俺も少なくとも入学したばかりの頃に男子数人で探検とか言って通った程の記憶しかない。


 年中雑草が生い茂っているので誰も入ろうとせず、古くなって鉄板に穴の開いたリアカーや大昔の文化祭で作ったとかいうぼろぼろに朽ち果てた謎のゲージュツ作品が立てかけられている。そもそも塀の向こうはすぐ住宅で、騒げば近所迷惑にもなるので、校内ランニングのコースにすらなっていない。


 校舎と渡り廊下でつながった体育館へ向かっていると、「パス」だの「回れ回れ」だのと生徒同士で指示を出し合う声が徐々に大きくなってくる。バスケ部が紅白戦でもやっているのだろう。ここのバスケ部は府内でも優勝争いに食い込む強豪だ。


 俺たちは体育館の正面入り口から離れた方の壁へ回り、塀の迫った暗い空間を覗き込んだ。


 そこは鬱蒼とした緑に包まれていた。緑と言っても美しい緑ではなく、草がボーボーに伸びただらしない緑だ。塀と建屋の間には細い側溝が走っているのだが、今はふさふさの穂を付けた背の高い雑草がすぐ脇に繁茂しているので、溝があることすら分からない。


「ホンマにこんなとこにいるんですか?」


 たまらず尋ねた。


「わからへん。けど、バスケ部の男子が毎日ここに来てるって言ってたで」


 先輩は比較的背の低い雑草だけを狙って踏みながら歩き始めた。黒いローファーが草を踏んだ途端、小指の爪よりも小さな羽虫が何匹も飛び上がる。


 俺は飛び回る虫を手で払いながら先輩の後に続いた。後ろの原田をちらりと見てみると、意外にもこういう場所は平気なようで、平然とした顔で草を踏み分けている。先輩は予想通りと言うか、全く気にしないタイプのようで虫を払おうともしなかった。


 途中、体育館に入る鉄製の扉の前を通ったが、普段は滅多に開けられないのだろう、取っ手にはクモの巣や砂埃がこびり付いていた。


 不思議なことにそのすぐ脇に、プラスチック製の漬物樽が置かれている。直径60センチくらいの腰ほどの高さのクリーム色の容器だ。京都名物である漬物の多くは、この容器の底に塩や麹と一緒に野菜を敷き詰め、重石を乗せて寝かせることで作られている。


 それが蓋もされずに開け放たれ、藻で緑に変色した水が溜まっている。しかもそれが3つも、固められて並んでいる。


「きったねぇ、誰やこんな所で漬物作った奴」


 泥っぽい腐敗臭をとらえ、俺は鼻をつまんだ。中を覗くのも嫌なので、さっさと通り過ぎる。


「おお、いたいた」


 曲がり角で先輩が振り返って俺たちを手招きする。


 雑草に囲まれた狭い空間。その中で少しばかり土の露出した一角に、一人の女子生徒と一人の男子生徒が屈みこんでいた。2人ともこちらには背中を向けており、男子は髪の毛をつんつんに固めていること、女子は腰ほどまで伸ばしたストレートのロングヘアであることしか分からない。


「あれが生物部?」


「女子もいたんや、知らんかった」


 原田と俺の口から思いがそのまま吐き出される。自然科学系の部活でも特にマニアックな生物部に女子がいるとは、意外だった。


「失礼します、生物部の皆さん?」


 先輩が腰を低くして二人に歩み寄る。屈んだ二人はばっとこちらを振り返った。


「あ」


 俺は思わず口を開けてしまった。女子の顔を見た瞬間に、一瞬心臓をぎゅっと鷲づかみされたような気がした。


 長い髪は透き通っているのかと見間違えるほど艶のある漆黒で、真っすぐに下へと垂れている。小顔ながらすっと通った鼻筋、満開の桜そっくりな薄いピンク色の唇。どれもこれも一流のパーツを備えた女の子だった。


 縁の太い眼鏡をかけているので目はあまり見えなかったが、その状態でも十分にクラスの半分以上の男子を従えるほどの可愛らしさを持っていた。


 隣の男子は座っていても小柄であることがすぐに分かってしまう程、華奢な体付きをしていた。よく焼けた肌にぱっちり目玉、痩せ形なのに頬だけは押すとぷにぷにしそうな丸顔の童顔だ。


 髪の毛だけが無数のトゲトゲを天上に向けるちょっとイカしたものだったが、すぐ下の幼少フェイスとは全く似合っていなかった。どう見ても粋がった小学生そのもの。


「そうですけど、どちら様ですか?」


 女子が屈んだまま尋ねた。小さくて、ぼそぼそとした声だった。


「私たち、化学部のモンです。部活のことについてお話がありまして、ちょっとお時間いただけませんか?」


 先輩もしゃがみ、目線を女子と同じ高さに持って行く。その隣でツンツン頭の男子が立ち上がり、先輩と俺たちを怪訝な目で見つめた。


 思った通り背は低かった。パッと見で150㎝ぐらいだが、立ち上がる時にジャラッと金属がこすれる音がしたのでよく見てみると、ベルトに重々しい金属のチェーンがぶら下がっている。この年代の男子ってこういうの好きだよな。


「部活のこと?」


 息を吐いているだけなのか発音しているのか、聞き取りにくい声で眼鏡女子は訊き返す。


「実は、化学部と生物部を合併しようやないかと思うんです」


 今まで屈んでいた女子がゆっくりと立ち上がった。


 この時、俺は初めて分かった。この女子が身長170㎝の俺の顎の高さにも、頭のてっぺんが届いていないことを。そして可愛らしく見えたのは全て眼鏡が生気の抜けた眠そうな細い目を隠してくれていたからだということを。


 だが何よりも驚いたのは、その女子が大仏のように上に向けていた左の掌の中に、真っ黒な身体にオレンジ色の斑点を持った小さくうごめく生き物――テントウムシの幼虫――を一握りできそうなほど大量に載せていたことだった。白くて触るとさらさらしていそうな肌の上を、六本の尖った脚が歩き回っていた。


 俺は目を開いたまま硬直した。その後ろでは原田が「わあ」と小さな歓声を上げていた。


「……詳しく話しましょうか」


 女子は右手に持っていた透明なタッパーの中にばらばらとテントウムシの幼虫を放り込んだ。柔らかそうな腹から伸びた硬い脚がグロテスクに蠢く。


 瞬時に俺は確信した。こいつこそが件の芋虫を食ったという、川勝かわかつ智子ともこだと。

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