化学部と生物部は合併しました! 京都市立中京高校化学生物部の研究レポート

悠聡

第一章 その1 俺は化学が好きだ!

 川勝かわかつ智子ともこが芋虫を食った。そんな噂が学校中で広まっていた。


「誰や、その川勝って?」


 俺はずれた眼鏡を上げて、にやにやと笑う澤田さわだに尋ねた。こいつは校内でも顔が広く、生徒の噂話に詳しい。


「2年5組の女子や。無口で陰気で、普段何を考えているんかよう分からん」


 澤田はカメレオンのような大きな目玉をきょろきょろと動かしながら声を細めた。


「その川勝って奴が2日前、正門の植え込みの花をちぎって芋虫を捕まえたみたいなんや。で、そのまま……パクリ!」


 アイスを丸呑みするように、澤田は大げさに口を開ける。


「……嘘やろ」


「嘘かどうかは分からん。けど、川勝は本当に変わり者らしいで。よう校内を一人で歩き回っては、花壇とか木とか、校舎の壁とかをじっと見とるらしい」


 俺たちは教室の窓から外を眺めた。


 朝、次々に生徒が正門をくぐって登校している。その向こうは大通りで、途切れること無く乗用車やトラック、市営バスが行き来している。周囲はさほど高くない鉄筋コンクリートの建物で囲まれており、大通りに面した料亭の前では板前の兄ちゃんが食材を軽トラックから積み下ろしていた。


 ここは京都市。それも京都オブ京都の中京なかぎょう区だ。景観を守る条例のせいで高層ビルはひとつも無い。電飾を施したカラフルな看板も禁止されているので、どの店も落ち着いた色調の木製の看板を掲げている。


 俺たちの通う市立中京なかぎょう高校はそんな風景の中に、正面がガラス張りといういささかミスマッチな現代的建築物として居座っていた。


「その川勝っていうのと、お前は話をしたことがあるんか?」


「いや、無い。5組に行ったらいつも別の奴と話すし、授業が一緒になったことも無いからな」


 澤田は窓から顔を出し、駐車場や植え込みへと視線を動かす。


「……今日はおらんなあ」


「もうすぐホームルームやし、教室にいるんとちゃうか?」


 俺は左手にはめたチタン製の腕時計を澤田の目の前に突き出した。8時25分。朝のホームルームまであと5分だった。




 1時限目は俺の時間だ。


 春夏秋冬年がら年中白衣姿の衛藤えとう先生は、チョークと見分けのつかない細くて皺だらけの指で、黒板に様々な化学反応式を書いていく。その板書を40人の生徒が一斉に写すので、カリカリとシャーペンと紙のこすれる音が異様に目立った。


 生徒たちが書き写したのを確認すると、先生は二言三言反応式の説明を加える。そして今一度黒板を向き直すと、真っ白の髪の毛をなびかせて振り返った。


「ほな白川、プロパノール(C₃H₇OH)1molモルを完全燃焼させる場合、酸素はどれだけ必要で、どんな物質が何モルできるやろか?」


 俺――白川秀治しらかわしゅうじ――はノートの端に先生の似顔絵を描いていたのを中断し、黒縁の眼鏡をくいっと少し上げた。


 瞬時に頭に化学反応式が浮かび、係数がスロットリールのようにはじき出される。


「ええと、二酸化炭素が3モル、水が4モルできるので、酸素は4.5モル必要です」


 筆箱でそっと似顔絵を隠しながら爽やかに答えた。


「大正解! そやな、ここの水素(H)は酸素(O)と化合して水(H₂O)になるねんな」


 先生は黒板に水の分子モデルを描く。水素原子2つと酸素原子1つの連結した『く』の字型のあれだ。


 この2組は理系クラスなので珍しいことでもないが、化学は俺の得意科目だ。物理と数学もテストでそれなりに稼げるが、化学に関しては学年トップクラスの自信もあった。特別進学クラスの奴らにだって負ける気はしない。


 先生が板書のために背中を向けると、早速俺は落書きを再開した。授業で聞いていなくとも大抵のことは予備知識として備わっていたし、教科書を一読すればほとんどは理解できる。


 ああ、英語と国語もこれくらいすんなり吸収できれば俺の高校生活はもう満開の花園だったというのに。


 この市立中京高校は府内公立トップクラスの進学校という自負のためか、テストも問題集も異常なまでにレベルが高い。1年の1学期の中間テストでいきなり本物の国公立大の入試問題を出題して、中学時代ぬくぬくと育ってきた連中の頭を一気に叩くのが恒例となっている。




 放課後、俺は部活へと急いだ。


 階段を一気に駆け降り、板張りの廊下を突き抜け、最も奥の部屋に飛び込む。


「どもーっす!」


 部屋の敷居を越えるか越えないかのところで俺は右手を上げて恒例の挨拶をする。


 その部屋は『化学室』。水道やガス栓のつながった備えつけの大きな机がびっしりと並ぶ実験室だ。


 部屋の後方は戦前から使われていそうなほど、古ぼけてずっしりした木製の棚が壁を隙間無く埋めており、その中にはビーカーやフラスコといった実験器具が整然と並べられている。


 もうお気付きかと思うが、俺は『化学部』に所属している。ステレオタイプなイメージならば白衣を着たヒョロガリ眼鏡男子がフラスコ片手に薬品を混ぜ合わせている、あの化学部だ。


 ちなみに顧問は化学の衛藤先生だが、あの人はあまり部室には顔を出さない。というか部の活動にはほとんど口を出さない。


「はーい」


 張りつめた弦も緩んでしまいそうないつもの挨拶が返って来た。


 化学室の隅でごそごそと動く人影。それがゆっくりと立ち上がり、くるりとこちらを振り返る。


「おはよーシロ。うちも今来たトコよ」


 黒い影はボタンを外したブレザーの女子生徒へと様変わりした。肩甲骨まで下ろした髪の毛には薄く茶色がかかっているが、これは正真正銘の地毛だ。


 長いまつ毛は先端がカールしており、真ん丸な目の大きさをより際立たせている。


 そして極めつけは99パーセントの男子がまず視線を向けるであろう、胸の大きな2つの膨らみ。今は着崩したブレザーのせいで強調はされていないものの、リンゴでも詰まっているのかと思う程の球形は反則だ。


「先輩、今日でもう廃部まで1週間切りましたよね?」


 化学室に入るなり、俺のことをシロと呼んだ女子生徒の側へ駆け寄った。胸を一瞬だけちらっと見てから。


「ああ、そやな」


 巨乳の女子生徒――丸岡まるおか由莉ゆり先輩――は机の下のプラスチックのカゴから鈍い銀色に輝くガスバーナーと鉄製の三脚、黒く焼けた金網を取り出して机の上に置いた。金網中央の石綿もかつては真っ白だったはずだが、今は端がめくれて茶色く焦げ上がっている。


「そやな、やないですよ。どうにか方法は無いんですか?」


 ここ1カ月間、俺たちはずっと頭を抱えていた。新入部員の減少による廃部の危機だ。


 本来、部活を続けるには部員が最低5人は必要だ。しかし化学部はここ数年、部員の減少が続いている。


 そしてついに昨年度、我が部の部員数は新入生の俺も含めて4人と生徒会規定の下限を下回ってしまった。今年度も5人に届かなければ、正式に廃部となってしまう。


 しかしゴールデンウィークを目前に控えた今の季節になっても、新入部員は全く来なかった。部員名簿に名前を連ねるのは3年で部長の丸岡先輩と2年の俺、そしてもうひとりの3人だけだ。部の存続は絶望的だった。


 同じ自然科学系の部活でも『物理地学部』は部員総計15名で、今年だけで6名の新入部員があったというのに。なぜ理科好きどもはすぐ物理に流れるのだろう? 化学だって面白いんだぞ、本当に。


 しかしながらこんなぎりぎりのピンチだというのに、本来一番思い悩むべき丸岡部長は棚からガラス製の1リットルビーカーを取り出し、呑気にも蛇口の水を注いでいる。振る舞いにもただならぬ余裕が感じられる。


「その点に関しては大丈夫、ええ方法を思い付いたんよ」


 ビーカーに水を溜めてから一度流し、再度水を注ぎながら先輩はにかっと笑った。


「何ですか、その方法って?」


 俺は目を細めて先輩をじとっと睨む。


「全員揃ったら話すわ。その前に……」


 先輩は三脚の上に金網を置き、その上に水を入れたビーカーを乗せた。そして紺色のバッグに手を突っ込むと、透明なビニールに包まれた何かを取り出した。


 先輩が持っていたのは蕎麦の麺だった。


「……て、またそれかい!」


「これ、美味しいねん。午後のおやつにはもってこいやで」


 先輩はマッチを擦り、ガスバーナーのねじを緩めて火を点けた。屹立する鉄パイプの先からゆらゆらと赤い炎が揺れるが、もう一度ねじを調節すると炎は丸みを帯びた青色へと変化する。


「前々から思ってたんですけど、やっぱあかんでしょ、実験室での飲食は」


「そんなこと言うても、家庭科室はおばちゃんセンセむちゃ恐いしなあ。ここやったら人も入ってこーへんから見つからへんよ」


「それ、便所煙草と同じ発想ですよ」


「便所煙草はポイ捨てしてささやかなアピールするのがロマン。これはビーカーで麺をすするっていう背徳感がたまらへんねん」


「空腹満たすためやなくて、スリル目的にすり替わってますね」


「細かいこと気にしない。ほら、シロもどう? 美味しいよ」


「もちろん、頂きますとも」


 俺は棚から500ミリリットルのビーカーを取り出しに向かった。


 取りとめの無い会話を交わしながらも、先輩は細長い指で粉末のかつおだしを湯立つビーカーに加えていく。食欲をそそる香ばしい匂いが実験室に充満した。


「はい、ダーイブ」


 沸騰する黄金色のつゆの中に麺を放り込み、すかさずガラス棒でかき混ぜる。1リットルビーカーは1玉分の蕎麦も十分にほぐせるだけの容積があった。


 茹であがったところでガスバーナーの火を消し、沸騰したビーカーから割り箸で蕎麦を半分ほど小さなビーカーに移す。最後に先輩がきれいなタオルで煮え立つ1リットルビーカーを挟んで持ち上げると、そのビーカーへと熱い汁を注ぐ。俺はと言うと、汁が机にこぼれないよう、先輩の注ぐ汁とビーカーの間に漏斗ろうとを通していた。


 このような先輩後輩の連係プレーにより完成したビーカー蕎麦を前に、俺たちは掌を合わせて「いただきます」と礼をした。


 化学室にずるずると麺をすする音が響く。こんな風習が俺の入学した当初から、この部では続いていた。


「あ、また2人とも蕎麦なんか食べとる!」


 入口の引き戸がガララと開き、明朗な声が化学室に響く。


 もうひとりの化学部員はいつも俺達より少し遅れてやって来る。俺と同じ2年生で、うちのお姫様だ。


「いやあ、明香あきかも来たん」


 にっこり微笑んで、口の蕎麦をもごもごと噛みながら先輩は手を振った。全ての男子どもを落とせるであろう素敵な笑顔だ。


 2年の女子――原田はらだ明香あきか――は部屋に入るなり扉をピシャリと閉め、換気扇のスイッチを押した。天井のファンがブーンと音を立てて回り始める。


「ちょっとちょっとぉ。この部屋、かつおの香りがやばいですよ」


 原田は少しパーマのかかった肩に届かない程度の長さの髪を掻き分け、窓際に置いてあった誰かの忘れ物のノートをうちわ代わりにして煽いでいた。


「ほんのりええ香りや、料亭もだいたいこんな感じやで」


「シロ、ちょっと料亭に謝りに行ってきぃ!」


 原田がビシッと窓の外を指差す。窓の外は料亭……ではなく教員用の駐車場で、早めに帰る先生以外通る人はほとんどいない。この部屋は校舎内でありながら、他の生徒からも教師からも目の届かない秘密の場所だ。


「ところで明香、重要なお話があるから、席に着いてくれへん?」


 さらさらと蕎麦を胃に流し込みながら先輩が言った。


「何の話ですか?」


 原田が首を傾げた。中学時代はテニスで鍛えたという、女子としては長身の167センチという細い体がわずかに曲がる。


「これからの化学部の在り方についてやね」


 ビーカーに口をつけて残り汁を一気に飲み込むと、先輩は「プハァ」と息を吐いた。呑み屋のサラリーマンか。


「何を今更化学部ぶってるんですか、もうここは料理研究部みたいなもんでしょ」


「一応研究はやってますぅー、問題は廃部についてよ」


 先輩は頬を膨らませる。蕎麦汁ビーカー片手に言われてもまったく可愛げは無いが。


 悪態をつきつつも原田はさっと机の下から椅子を引き出して座る。


 完食した俺は、ビーカーを洗うため、ビーカーにクレンザーを振りかけ、スポンジでこすっていた。蛇口を開けているせいで古いステンレス台に水がビビビビと跳ね返り鬱陶しい。


「今年はもう新入部員は見込めへん。廃部もほぼ確定やん」


 先輩は自分と俺の使った割り箸をつまみ上げ、部屋の隅のゴミ箱に放り投げる。4本はバラバラの周期で回転しながら、全てきれいにゴミ箱へと飛び込んでいった。


「そこで、ひとつ最終手段を取ろうと思うんよ」


 先輩が蛇口に手を伸ばして水を止めた。どうやらしっかりと聞いて欲しいようだ。


「何ですか、最終手段って?」


 俺はため息交じりに訊くと、泡だらけの手でビーカーとスポンジを持ったまま椅子に座った。


「これから生物部に、部の合併をお願いしに行こうと思います」


 泡に濡れた俺の手からビーカーが滑り落ちる。そして床に叩きつけられたそれは、ガシャンと派手な音を立てながら、尖ったガラス片が四方八方あらゆる方向へと散らばった。

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