第6話 こいつを月まで連れてって!


 沙ひ子は自分以外の人間に関心を持たない。


 土曜日のフードコートで誰に聞かせるでもなく豚の鳴き真似をやらかした沙ひ子に対し、こういう形容を使うのはあまりに月並みかもしれないが、はっきり言って沙ひ子は人でなしである。

 隣にいる人間が泣いていようが笑っていようが、小指の逆むけ程度にも気にしない。

 目の前で教師が話していても、ぎょっとするほどの大あくびをして見せる。

 沙ひ子はいつだって、周りの人間の存在など少しも意に介していないように振る舞うのだ。

 それはある意味では彼女の信条のようなものであり、ときにはわざとそういう態度をとることもあった。本当は周囲の会話が気になるのに聞かないようにするなどしていた。


 これを言うと彼女は気分を害するかもしれないが、沙ひ子はそんな自分をちょっぴり格好いいと思っている。あらゆる色にも染まらぬ自分を漆黒の闇に見立てている。

 だから彼女がときどき、クラスメイトたちが集まってテストの過去問を共有しているのを無視して、一人だけ赤点を取っている――などという醜聞は、ちょっぴり格好いい彼女の名誉を尊重して伏せておくべきだろう。

 彼女の自己評価を採用すれば、沙ひ子はいつでも周囲の影響を受けず、自分を貫くことのできる超然とした存在である。孤独でlonelyロンリーな一匹狼である。


 しかし今、沙ひ子の心は大きく揺らいでいた。たった一人の人間ごときに、抑えきれない興味を抱いてしまった。得体の知れない感情が胸の底からわき上がって仕方なくなった。


 沙ひ子の両眼に映ったのは、彼女と同年代の少年だった。机を2つ隔てた先に、ちょうど横顔がよく見える角度で座っていた。

 ――彼は一体、いつからそこにいたのだろう? 沙ひ子は今まで少年の存在に全く気づいていなかった。

 あえて客観的に補足するなら、少年は今しがた来たばかりに違いない。もし沙ひ子より先にそこにいたなら、きっと豚の鳴き声に驚いて席を移す羽目になっていたことだろう。


 その少年は、取り立てて特徴的な容姿ではなかった。身長は沙ひ子よりも少し高いぐらいで中学生男子の平均身長に近い。どことなく眠たげなその落ち着いた顔立ちに、タータンチェックのシャツがよく似合っていた。

 買い物をした後なのだろう、足下には平べったい箱がビニール袋に包まれて置いてある。大きさからしてボードゲームか何かだろうか。


 もちろんフードコートに座っている以上、その少年も軽食を喫していた。少年は机の上のトレーに、色とりどりのドーナツを等間隔に並べて、左端から順番にもそもそと食べている。

 表情を変えずにドーナツをついばむその姿は、どことなくカラクリ人形のようだった。一口が小さい分、沙ひ子の食べ方よりは上品に見える。

 しかし沙ひ子はなぜ、この少年に関心を抱いたのか――それは沙ひ子自身にも分からなかった。

 顔や服装が魅力的だった? いや、沙ひ子はそういった表面的な要素に囚われることを何よりも嫌っている。

 ドーナツを食べている点に愛らしさを感じた? いやいや、そういう小洒落た食べ物に抵抗を覚えないような気取り屋こそ、沙ひ子の忌むべき敵である。


 それなのに、沙ひ子はこの少年を、他の有象無象どもと同じように切り捨てることができなかった。とても神聖にして侵すべからざる尊さを感じた。

 沙ひ子は、自らの心境がこの少年の影響を受けていることを認めざるを得ないほどに、心を揺さぶられていたのだ。

 胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような感じがして、呼吸が苦しくなる。心はどこまでも透き通っていき、まるで南極海の氷のようだ。

 それなのに、身体はかすかに熱を帯び始め、その昂ぶりが彼女をさらに苦しめていく。

 ――この感覚は何なのだろう? 尿意を我慢しながら歩いていたら交差点で車に驚いてチョロリと股間が濡れたときの感覚にも近いものがあるが、少し違う。

 もっと適切なたとえがあるように思えて、彼女はしばらくやきもきしていた。


 やがて沙ひ子は一つの確かな結論に辿り着き、心の中でああっと手を打った。

 そうだ、この感覚は、イラストサイトで綺麗な絵を見ているときの感動と同じだ。決して自分の手が届かない、透き通るような美しさを見たときの心の震えだ。

 彼女にとって、その結論はこの上ない真実だった。

 改めて少年の姿に目を向けると、それは紛れもない風景画だった。人物が中心にいるのに風景画だと断じてしまう沙ひ子の視覚野には特大の疑問符で風穴を開けてやりたいところだが、実際のところ、沙ひ子が風景画に求める魅力をこの少年が全て備えているのだから仕方ない。


 そこに少年が座っているだけで、その全身から溢れ出る透明な気配が、現実世界の生臭さを消し去ってしまう。

 感情を窺い知れない横顔も、ドーナツを頬張る姿も、紙ナプキンで口をふく仕草も、あらゆる一瞬が風景画になって沙ひ子の瞳に映り込む。


 沙ひ子の心に訪れた感動は、今までのどんな風景画をも上回るものだった。この絵があれば、他は何も要らないんじゃないか、とさえ思えた。

 しかしこの絵は、ダウンロードもブックマークもできない。探したって次はいつ見られるかも分からない


 ――保存しないと。

 そう考えるのとほぼ同時、彼女の行動は迅速だった。


 思い立ったが吉日と、ズボンのポッケを右手で探り、そこからスイと取りい出したるは銀白色のスマートホン。

 やおら歌舞伎めいて右手が伸びる、手首が返る、画面はすぐにカメラに変わる。

 紙コップ入りのコーヒーをすする少年の、絵画のような姿や何処いずこ、今は高々5インチの中に収まるばかり。

 いざやシャッターを切らんとするも、焦りに駆られた彼女の指は打ち震え、一秒千秋の心地にて、手ぶれぞはなはだ激しかる。



 そんなことをしているうちに少年も何か不穏な気配を感じたか、所在なげにあたりをキョロキョロと見回し始めた。これだけ粘っこい暗黒のオーラを放つ存在が近くにいるのだから、不安になるのも当然と言えば当然だ。

 沙ひ子はスマートホンを向けているところを見られるわけにもいかず、右手から左手へと流れるようなスルーパスでスマホを運び、素早く背後へ打ち隠す。そして少年と視線が合わないように何食わぬ顔をしながら、滝のごとく汗を流していた。

 しかし首をもがれたゴキブリのごとく往生際の悪い沙ひ子のこと、ここで諦められるはずもなし。少年の注意が逸れた隙を見て、背後に隠したスマホを再び右手に持ち替えて撮影の体勢――かと思いきや少年がまたこちらを振り向きそうな気配を見せたので左手に持ち替えて背後に隠す。そして再び右手でスマホを構えて――。

 このモーションを何度も繰り返すものだから、沙ひ子の周囲でスマホはグルグル回転し、行き場のない螺旋力が無駄に溜まっていくばかり。コペルニクスもびっくりの衛星周回運動の様相を呈すのだった。ふざけてるのか?


 しかしそんな天体ショーも長くは続かない。少年はついに得体も出所も知れないプレッシャーに恐れをなしたか、残りのドーナツを紙袋にしまい荷物をまとめて席を立った。

 あせあせとその場を去ろうとする少年が、沙ひ子の側方を通り過ぎる一瞬――その瞬間は紛れもなく最後のシャッターチャンスだった。少し距離はあるが、少年の横顔を撮影する瞬間は今しかない。

 裏を返せば、この瞬間が無事に過ぎれば少年のプライベートが侵害されることはなく、沙ひ子が盗撮魔にその身をやつすこともないのだ。

 たとえ沙ひ子の貧弱な理性でも、その程度の自制は可能に違いない――違いなかったらどれだけ良かったか! しかし実際に彼女が考えたことはどうだ?


 ――どうすればバレずに撮影できるだろう。

 あろうことか、沙ひ子の理性は逆方向へ回転してしまった。しかもかなりの超スピードで。


 彼女の思考はこうだ。


 普通にスマホのカメラを向けたなら少年は盗撮に気づくだろう。

 しかしこの広いフードコートの中でスマホが自分に向いていることなんて知覚できるだろうか?

 否、できるはずがない。

 ゆえに、最初に知覚されるのはスマホではなく、何かを自分に向けてくる人間の姿である。

 つまり、たとえスマホのレンズが少年に向いていたとしても、それを向けるという動作を見えないようにすればバレるはずはない。


 しかし、そんなことが可能だろうか? という問題に対して、折り悪く頭の冴えていた沙ひ子はいともたやすく回答を出してしまった。


 ――可能だ、この方法を使えば。


 沙ひ子はスマホを持った腕をダラリと垂らし、何も持っていないかのように前を向く。片手でコーラの容器を持ってストローをくわえるその姿は、どこから見ても不審な要素はない。

 そして自分の側面――少年の位置からでは沙ひ子の身体に隠れて見えない死角を利用して、スマホをスーッと持ち上げる。


 そのまま油断なく持ち上げて――どこまで上げるのか?

 腹の横まで上がっても止まらない。

 肩の横でも止まらない。

 耳の横をも平然と通過していく。


 そしてスマホが辿り着いたのは――沙ひ子の頭上だった。

 何食わぬ顔でコーラをズコズコと吸い上げる沙ひ子の頭頂部に、スマホのレンズがひょこりと顔を出す。

 まるで沙ひ子の身体に何かそういった機能があったかのように、彼女の頭上でカメラレンズが睨みを利かしていた。

 その珍奇な姿はさながら未確認飛行物体――そう、これではまるでUFOだ。「地球の男に飽きたところよ」とでも言いたげに、スマホのランプがチカチカ光る。やっぱりこいつふざけてるのでは?


 頭痛がしそうな天体ショーの2連続に、しかし少年は気づいていない。どうやら嘆かわしくも沙ひ子の計略は正しかったらしく、スマホの画面には平然と歩く少年の全身が映っている。

 沙ひ子の指が音もなく画面をタップし、パチリという音と共にその光景が切り取られる。

 この音には少年も気づいたのか、気味悪そうに周囲を見回していたが、時すでに遅し。沙ひ子のスマホは撮影と同時にメカニカルな動きで頭部の後ろに沈んでいった。この光景を文章にして「地球を偵察する異星人の脅威!」と題してオカルト雑誌に投書すれば物好きが喜ぶこと請け合いである。


 結局のところ、哀れな少年はありありと不安を表情に浮かべながらその場を去っていった。まるでどこかのビルから出所不明の狙撃を受けたような気分だったことだろう。実際のところ似たようなものだが。

 そして当人たる沙ひ子はと言えば、自らが盗撮という犯罪に手を染めたことなどすっかり忘れているらしい。地球の法律で裁かれる前にキャトルミューティレーション的な何かで宇宙に連れ去られてしまったほうが身のためではないか、という願いが届くはずもなく、彼女はただ食い入るようにスマホの画面を見つめている。


 そこに映っていたのは、一人の少年がフードコートを歩いているだけの何気ない風景だ。しかし、その少年の持つ飄々とした気配は、確かにその写真にも表れていた。

 まるで、その風景自体が何らかの意図を持って緻密に構成された芸術作品であるかのように感じられた。そう思わせるほど、少年は写真の中で自然に存在していた。1ミリたりとも生々しい不調和を感じさせなかった。


 ――ああ、私はなんてものを手に入れてしまったんだろう。


 沙ひ子の心は、今すぐにでも大声で叫びたいほどの充足感に満たされていた。

 さっき叫んだばかりじゃないか、と指摘を入れたいところだが、きっとそんな昔のことは沙ひ子の頭からはすでに消えているのだろう。おそらく周囲の人を困惑させた自覚もない。

 あえてこんな言葉を再び持ち出すのはとても月並みかもしれないが――はっきり言って、沙ひ子は人でなしであった。

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コラージュ・コンプレックス 鬼童丸 @kidomaru

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