第2話 豚の首には、キスしてポイ

 黒ずくめの男は、雨具のようなばさっとした上下を着ていた。

 光沢のない生地のところどころが水溜まりのように窓からの夕日を照り返しており、撥水性の素材が何か粘性の液体にべっとりと濡れているのが分かる。

 そして男は、上着のフードを深くかぶってその紐を思いきりきつく引き絞って結んでおり、顔の前面ですぼまった襟首? から眉間と、双眸だけが暗くかろうじて覗いていた。

 

 明らかな不審者だった。

 

 まず動いたのはみっちゃんだった。服の裾でも掴まえておけばよかったものをというのは後の祭りで、ぱっと私の頬をそよがす風だけを残して、真っ直ぐに黒ずくめ目指して駆け出していた。

「いやぁっ、光子ちゃん!」

 いっちゃんが体を揺らして悲鳴を上げる。それを抱える私も体勢を崩して足を踏ん張る。みっちゃんは逃すかああーとか大声で喚きながら廊下を短いスカートひるがえしてかっこよく駆けてゆき、その先で、男が腰のあたりをまさぐって何かを抜く動作をしたのが見えた。

 

 ぎらり、とした幅のある銀色の輝きが私の視界を一瞬くらませ、心も竦ませる。

 でもみっちゃんはご紹介しましたとおり阿呆なので、これにもひるまずあーあああと雄叫びの尾を長く引いて速度を緩めず、黒ずくめまであと一馬身というところで床を蹴って勢いよく跳躍した。昔バレエを習っていたというみっちゃんの脚力は黒ずくめの予測を頭一つ超えたらしく、その身を高く高く舞わせた謎の女子高生に対し、男が一歩引いて手にした刃物を構え直したのが分かった。

 

あきらちゃん——!」

 いっちゃんが私の袖を引き絞って、痛い。

 言われなくても、可愛いいっちゃんが本気で悲しむさまを私は見たくはないし、勿論みっちゃんが本当にやばいことになるのも望んでいない。

 

 だから、みっちゃんが駆け出した時点で私は既に行動を開始していた。さいわい、このときたまたま、片手に携えていたがあった。

 さっきの、手渡されたばかりの時の手のひらをく熱さは今でこそ少し冷めてしまっているけれど、今なお力強い手応え、身の詰まった重さを私の手の中に感じさせるもの——


 コンビニで買った

 

 その白いやわ肌に私はひと口ふた口かぶりつき、急ぎ噛み砕いた分をごくりと胃の腑へみ下し。

 

 そして——

 

 ドプン、と頭まで水音に落ちる感覚があり、私の意識は暗い海に呑み込まれた。

 

 

 

 

 

***






 虚空に、真っ暗な空間に、私の体は浮いていた。

 

 暗い。世界がどこまでも暗い。

 

 ほんのわずか目が慣れてくると、ただ一様に暗いだけと思われた空間に、黒い、膨大な質量の真っ黒い物体が存在している気配を覚える。

 

 

 巨大な壁が私の真向かいにある。

 

 虚空に浮かぶ巨大な壁が、世界を遠い果てまで埋め尽くし、私の前を遮っている。

 

 

 それはあまりに巨大すぎて、上、下、左、右、どこも途切れるところまでを見通すことができない。

 それはあまりに巨大すぎて、真っ直ぐ手を伸ばしても届かないし、それどころか全力で走ってさえすぐにはたどり着かないくらいの距離にあるのに、私のすぐ目の前にあるかのような錯覚を覚える。

 

 さらに目が慣れてくると、その巨大な壁の表面が不規則に凸凹でこぼことしているのが、ぬらぬら、てらてらと照り光っているのが見えてくる。

 さっき見たばかりの、男の服を濡らしていた色に似ている。生きているもの、生きていたものの血肉ちにくの色。もっと明るみがあれば、その黒は黒ではなく、深い赤褐色をしていることが分かるのだろう。

 

 その壁の表面は、ゆるゆるとうごめいている。どくどくと脈動し、ふるふると蠕動ぜんどうしている。

 あちこちでとぐろを巻く小腸、大腸の管。砕けたブロック片のような肝臓。開かぬ双葉のような肺。子供の握りこぶしのような心臓。しわしわに潰れた胃。もはや私が名前も分からぬ臓器。見たことすらない器官。

 そんなはらわたの群れ、ひとつひとつが異常に巨大なそれらがひしめき、脈うち、息づいている。

 

 あれらは、つまり、世界いちめんの臓物だ。

 これは、大量という言葉では足りぬほどの溢れる臓物を集めて塗り固め造られた、空間を埋め尽くす生きた臓物の壁だ。

 

 

 

 そして、その中心に目立って一際ひときわうごめく物体がある。

 目があり、鼻があり、口があるそれを私の意識はすぐに顔と認識する。

 しかし、耳の位置が高い。人の耳の位置ではない。ただそれはいつものことなので、私は驚かない。

 

 あれは獣の耳の位置だ。

 

 あれは、豚の顔だ。

 臓物の壁から生えた、ジェット機の頭ほどに大きい豚の生首だ。

 

「こんにちは」

 私は豚の顔に話しかける。牛が反芻するように機械的に顎と舌を動かしていた顔がゆるりと動きを止め、その喉からごろごろごろごろと老人の咳のような、濁流の砂利のような重い水っぽい響きが鳴り始める。

 

 

 

「ああああああきらかああああああ」




 気怠げな声が虚空に満ち、私の名を呼ぶ。

「知っている子ね、よかった。いつもごめんね、お願いがあるの」

 私は声を張って、明るく話しかける。知っている子なら本当はこちらから気づいてあげたいのに、寂しいけれど豚から離れて暮らしていると私にはすぐに見分けがつかなくなってしまう。

 

「あーああ構わんわあよお、むっ昔かからああきらは手えがかっかかり。いっいつもんもーおのことらあ」


 豚の声が鳴り響き、私の肌がびりびりと震える。

 そのころにはより目が慣れてきて、私と相対する存在の全貌が掴めるようになっている。

 私の目の前に突き出す巨大な豚の生首は血にまみれており、支える壁からの隆起はなわうような豚の筋肉と脂肪。四方へ無限に広がる壁を、世界一面に広がる脈うつ臓物を、後ろに背負っている。

「私の友達を救けたいの。命が危ないの。あなたの力を貸してほしい」

 私のお願いに、しかし豚の様子が変わる。唇を尖らせてんーんーと拗ねたように喉を鳴らし始める。

 

「かっ構かまわんがっがねあきら。おまあっは俺がこんぬ肉饅頭になっちゃっちゃんのにゃーあ構わんわあと、人間のはたすけたいか。あーえええーがね。いっつもんことであり永劫こうだがね」


 私は黙る。

 私は何も言えない。彼の不平は当然だ。私は彼の顔を見れずうつむく。

 

「あーんあすっすまななんな。えーんえーん。あきら。俺は意地わあうーだはあ。あきらには如何いかんともせっせんがったいのにんな。えーん。どす。何すっ、ん。やっか殺っそか。ああのか」


 優しい彼の言葉に、私はおずおずありがとうを言い、彼へのお願いを続ける。

「無事に帰りたいだけなの。悪い奴は人間が勝手に何とかする。あなたは私と、私の友達にやさしくしてほしい。あの悪い男の手が私たちに届かないように」

 言い終えて黙る私に、彼が優しく目を細める。そして、

 

 

「えーえーえーんやあ」



 果てなき虚空に、彼の遠く長い声とそのこだまが満ちた。

 

 一頻ひとしきたけった後、彼は口からはみ出した臓物の端をずるずるとすすり込みながら、やはり殺してしまえばいいのになあ的なことをぼやく。

 私はそれを、聞き流す。私は、やはり豚たちに私のために人間を殺したりしてほしくない。そのふるまいがこの宇宙において罪のような宿業しゅくごうとなって、いつか彼らに罰のような因果を報いないとも限らないのだ。

 

 

 ——そして唐突に、

 

 立っている私の足がずぶりとすねまで、生温かい臓物の感触に埋まった。

 

 

 

 

 

***






 みっちゃんの声があーああーと低く落ちてゆく。男の逆手に構えた刃物が空を切り、大きくのめって蹈鞴たたらを踏む。

ってえ!」

 床を打つ重い音とともにみっちゃんの悲鳴が響く。男が体を起こして振り返りまた刃物を高く掲げる。私の隣でいっちゃんが今日何度目かの息を呑む。

 

 ——しかし黒ずくめは、刃物を掲げたまま周囲を激しく見回したり遠い物陰を覗き込んだりしてオウッとかオアッとかオットセイみたいな声を上げるばかりで、次の行動に移らない。

 

「こっち見えて、ない?」

 いっちゃんが私の肩に寄り添って囁く。まだ豚まんをもぐもぐしている私と目が合い、「豚さん?」と訊いてくる。私は頷く。

 

「今のうに」


 私は囁き返し、口の中の豚まんの残りをみ込む。今度はいっちゃんが頷き、二人でそっと腰を低くして、

「アアアアア!!」

 二人してびっくりする。

 見れば男は激昂したように刃物を持った腕を激しく振り回しながら、前へ後ろへ横へと大きく踏み込むことを繰り返している。

 なるほどこれは、おびえているのか。脈絡もなくいきなり不可視となった女子高生が三人、自分を取り囲み襲ってくる妄想に。

「ラアア!! テメエ見つけたからな、おぼえたぞコラア!」

 そして叫びが意味を成してきたと思えば、何やら剣呑なことを言っている。

「俺は、おれは、憶えたし、からなア! 俺は、おれが、からなおぼえとけウラアア!」

 いややっぱりよくわからない。意味がこんがらがっている。

 

「いいか、俺が、おれが二度とおまえを忘れないの忘れるな——《殻の中の胎児》よオ!!」


 それが捨て台詞であったかのように、男は脱兎のごとく来た方へ駆け出した。

 男が走る方には、尻餅をついて呆けているみっちゃんがいる。息を潜めていた私といっちゃんが思わずアッと声を上げる。みっちゃんも男を見てワッと言いながら両手で頭を庇うようにする。

 

 そして、頭を抱えるみっちゃんの体を男は、そのまま階段に駆け込み跫音を遠ざからせていった。

 

 

 

「ずっずらしとおたよ」

 頭の後ろからさっきの豚の声がして、私はついキョドる。

「え、ずらした? 何?」

「あうあ、じげえか」

「次元? を、ずらしたの?」

「ほんなやあ」

 えらい有効そうなのは分かった。もしかして、息潜めたりすることもなかったのだろうか。

 

「——あきらやあ、しとははあよお話しとおか」


 突然懐かしい名前を出される。懐かしくて、胸の奥をきゅっと掴まれた気持ちになる。

「ううん、もう何年か会えてない」

「んか。ほっか。えーん」

 素っ気ない返事をしたきり——彼の声は聞こえなくなった。

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