豚食って魔法

ラブテスター

殻の中の胎児

第1話 いっちゃん、みっちゃん、プリンにパイ

 放課後。夕暮れ。夏の終わりの終わり。

 高校最初の長い休みの記憶もはや遠く霞み、さらに残暑がゆるんだ今なお、窓から差す西日はするどく強い。

 

 本校舎からは遠く離れた、旧校舎こと特別教室棟。風のとおらぬ片隅にはどこも積年の埃と、つかみ所無いほの暗い雰囲気が吹きだまっている。

 まともな生徒はこんな場所にまず用事は無いし、また運悪く教員になにか言いつけられたとしても、その雑用を片付け次第そそくさと立ち去るので、ほぼ一日じゅう人気ひとけがない。人の姿がなく、人の声がしない。

 

 しかし今日、いまこのとき、


「駄目、駄目、死んでしまう。その人が死んでしまう」


 いっちゃんの——私の大事な友人の悲痛な叫びが、しんとした静けさを打ち破っていた。

 

 

 

 廊下に膝をつき、いっちゃんが泣き声を上げている。みっちゃんと私は何が起きているのか、どうしたらいいのか分からずに唯々ただただおろおろする。

「お願い、お願い、もうやめて、許してあげて」

 いっちゃんの、伏せた顔を覆う手の指の間からばらばらばらっと夕立ちのように涙が零れ落ちる。

 

 私のせいだ。私がいっちゃんのイヤフォンを外させたから。そのせいでこの学校のなか、放課後のいま起こっている何かひどく残酷なことがいっちゃんの《超感覚》に流れ込んでいる。

 今このとき、弱きものがこの世の何らかの邪悪にその身を苛まれるさまが、その悪しき凶牙そのもののように、いっちゃんの果敢無はかなくやわらかい心を打ちのめしている。

 

「ああ、何てこと、死んで——死んでしまった!」


 いっちゃんの絶望の声が高く響く。

 私は、いつもは無口ないっちゃんの取り乱した叫びを浴びてひたすらに狼狽してしまっていた。

 その横からみっちゃんがねるように動いて、拾い上げたイヤフォンをいっちゃんの両耳に差し、その頭を深く胸に抱き込んだ。

「いちま、もういい! 何も聞くな!」

 みっちゃんが叫ぶ。いっちゃんの髪に頬を寄せ、泣き喚くいっちゃんの悲痛を自分が引き受けんとするかのように、いっちゃんを全身で包み込む。

 それでもいっちゃんは嵐に巻かれたように恐慌している。死んでしまった、死んでしまったと繰り返し、抱き締めるみっちゃんの体を抱き返して。その胸に額を押しあてて、何度も何度も頭を振っている。

 

 

「どうして——なんで、どうして。やめて。そんなのはいや、やめて。やめて、やめて」

 私はいっちゃんの様子が変わっていることに気づいた。つい今までの、見知らぬ誰かに降りかかった突然の死を恐れ、悲しむ声音こわねではなくなっている。

「何故そんなことをするの。その人はもう死んでる。もうやめて、もういいでしょう。お願いよ、どうして」

 理不尽な死よりもなお忌まわしいわざわい——そんなものがあるのか?——に、いっちゃんが身を震わせている。たった一つの肉体の死より先にあって、なお魂の尊厳を損なうような悪意の所業を遠くに見て、いっちゃんが涙を流すことも忘れて驚き怯えている。

光子みつこちゃん、光子ちゃん、お願い。助けてあげて。あの人を止めて、やめさせて」

 膝を震わせさらにくずおれるいっちゃんを身にすがらせ、みっちゃんが険しい顔で床を見つめている。恐怖にすくんでもう泣くことすらできないいっちゃんを救えない自分を責めるかのように、強く唇を噛んでいる。

 

 そして、みっちゃんは、何かを決意したようにきっと顔を上げた。

 あ——やばい。

 悪い癖が出るんじゃないの、これ。

「わかった」

 みっちゃんが決然と呟く。

「あたしがそいつ、ぶっ飛ばしてやる」

 出た。

 みっちゃんはいっちゃんから体を離すと屈んで目線を合わせ、手をいっちゃんの肩に添え、また頰に添えてやわらかく微笑む。

「いちま、教えて。そいつはどこにいるの」

 みっちゃんは光子みつこという名の通り、背が高く短髪の少年風ボーイッシュながら輝かんばかりの美少女で、一方いっちゃんも市松いちまの名の通り、まるで上質なお人形のような見た目をしているものだから。

 その二人が身を寄せ合い視線を交わし、片方は濡れた睫毛に瞳も潤ませていると来たら。ひとりだけくるくる天パで背もちんちくりんな私は、こんな時と場合も忘れて百合の花咲くかぐわしき耽美のさまについ溜息を漏らしそうになる。

 

「え——」

 しかし、いざ問われていっちゃんは言葉を詰まらせる。自分が何を言っているのか分かっていなかったことを、自覚する。

「そんな——違う、違うの。ごめんなさい。だめよ、行ってはだめ。殺されてしまうわ」

 いっちゃんが目を泳がせる。自分の頬に触れるみっちゃんの指に指を絡め、もう片手は耳に差し直されたイヤフォンをまた抜き取り、息を呑む。

「だめ——こっちに来てる。隠れて。隠れましょう。ここにいてはいけない」

 急を告げるいっちゃんの言葉に、でもみっちゃんはひるむことはない。おもむろにうなずいて見せたのちにいっちゃんの両腋に腕を入れて立ち上がらせ、こちらを向いた。

あきら

 みっちゃんは、眼差しだけは真剣だ。

「いちまを頼んだ」

「駄目!」

 私が何か言うより早く、いっちゃんが泣き声を上げた。

「お願い、早く隠れて! 危ないの、あの人は普通じゃない!」

 みっちゃんが手を放すので、今度は私がいっちゃんを支える。よろよろと足の覚束ないいっちゃんは、それでもみっちゃんに手を伸ばす。

「ごめんなさい、もう言わないから。光子ちゃんお願い、いやよ——」

「みっちゃん!」

 私もつい声を荒げる。下らない悪巫山戯わるふざけみたいな気持ちで、友達の懇願を軽んじ悲しませるみっちゃんにいらっとする。

 

 ——みっちゃんはなのだ。裕福な家に産まれ何不自由なく育てられながらも、そのすべてを終わらせてくれる死をいつか遂げることばかりをずっと考えてきたという。でも痛い苦しいが苦手であるからと、特段具体的な行為に及ぶわけではない。それでもたまにふらっとになることがあるようで、突然命に関わる危険行為をすることがある。

 実際、私がみっちゃんと打ち解けたのも、不図ふとした気紛れで校舎の屋上から身を投げたみっちゃんを、間一髪——地面激突の直前で私がたすけたという、とんでもない事件がきっかけだった。

 そして厄介なのは、とりわけ「大義をもって死地におもむく」シチュエーションが大好物なことで。その理想的な死にざまのためなら多少の痛い苦しいはものの数にも入らないというのがみっちゃん氏の弁であり、これまで猫や子供を助けるために走行車の前に飛び出した勇気あるエピソードは枚挙にいとまがない。

 

 

 

 そのとき、ばたばたばたっと階段を駆け下りる荒い跫音あしおとが聞こえてきた。

 いっちゃんの顔が強張る。《超感覚》がもたらす情報の奔流ほんりゅうし流されないためにいつも閉じられている目が、今はごく薄く開かれている。

 その視線の向けられた先に、

 

 ——黄昏刻たそがれどきの長い影のように、長身の、全身黒ずくめの男が立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る