【第七話 パラドックス】

 マーラは煩悩の化身とされ、かつては釈迦の瞑想を妨げる魔神として現れたとも言われておる。人が持つ心の隙に入り込み、様々な誘惑や恐怖心を与えて破滅へと導く業を得意としているんじゃ――と、寿さんは教えてくれた。


 ぼんやりとしていたマーラ像が、俺の中ではっきりと浮かび上がってきた。日本における煩悩の象徴とされた「魔羅(マラ)」の語源だ。いわゆるアレだ……まぁ、深くは語る事もないだろう。マラはアレなのだ。ちょっとした中ボスキャラのイメージだなんて思っていたのが情けないな……立派なラスボスレベルじゃないか。


「祥子さん、大丈夫ですか?」

「はぁ、はぁ……はい。なんとか」


 魔神マーラと一人で戦おうとして、番傘を振り回し過ぎた祥子さん。のお面も付けていたせいか、だいぶ息もあがってフラフラとしている。すぐ助けに行けなくてゴメンよ。


「まずは、そのお面を外しましょうか。息を整えましょう」

「はい、すみません」


 祥子さんがを外そうとしたその時、「ビーッ! ビーッ!」というサイレンがトレセン内で鳴り始めた。室内が一気に暗くなり、天井から壁に伝って警戒色(黄色と黒)のトラテープのような映像がランダムに重なって降ってくる。天井では、パトランプと共に『危険』という赤い文字が点滅していた。


「おいっ! 何だこれは?」

「監視班、何が起きたのじゃ?」


 寿さんが左耳に人差し指を当てて誰かと話している。超小型のウェアラブルトランシーバーか? なんてハイテクな爺さんだ。話している具体的な内容は見当もつかないが、寿さんの慌てた表情を見る限りではヤバそうだ。「なんという事じゃ……」という言葉を最後にして、寿さんはトンと耳を叩いて無線を切った。


「どうしたんだ?」

「すまぬ。わしとした事が、とんだ失態じゃ」

「だから、どうしたんだって!」

「マーラが逃げたんじゃ……」


 逃げたって、どういうこと? バーチャルな映像とかじゃないの?


「ちょっとドッキリ的な企画で、魔界からマーラを召喚しておったんじゃよ。お主は鈍そうじゃったからの、モタモタしながらもサイコロの目に従ってマーラまで辿り着き、そこで派手にバトルでも始めるかなと思うとったんじゃ」

「ちょっ! おいっ!」

「まさか、あんな早く毘沙門天の役儀に気付くとは思わんかったわい」

「いやっ、だからそれと何の関係が――」

「双六のセットを消したと同時にマーラの役目も終わったので、魔界へ帰ってもらうよう指示したんじゃ。でも、あやつはそれに従わず逃げよったわい」


 逃げよったわいって……自分の禿げた頭にピシャリと軽く平手打ちしてるけど、それほど困った様子に見えないのは、そのフザけた風貌のせいなんだろうな。


「で、逃げたマーラはどこへ?」

「それが厄介なんじゃ。逃げた先が監視班にも見当つかんらしい」

「なんだよそれ……」

「今の魔界は我ら七福神の監視下にあるんじゃがの、マーラも模範囚のように大人しくしておったから、たまには外の空気でも吸わしてやろうと思ったんじゃ。そしたらこの体たらくじゃ……おい! もうよい、アラームを止めよ!」


 寿さんの指示が伝わったのか、けたたましく響いていたアラームが消え、トレセンは再び薄暗い静寂に包まれた。俺の横では、祥子さんが耳を塞ぎながらうずくまっている。


「祥子さん、もう大丈夫ですよ」

「…………」


 よっぽど怖かったのだろう……小刻みに震えているじゃないか。俺は肩と手を使って援け起こそうとした。


「さぁ、立てますか?」

「あ、ありがとうございます」

「ぬっ! いかん!」


 寿さんの叫びで、俺は祥子さんから目を離した。「どうした?」と寿さんへ言おうとしたその時、祥子さんの動きが一変し、右手の指が……いや、爪が俺の首筋に鋭く襲いかかる。


「……なっ?」

「ぬんっ!」


 素早く俺たちの懐に入り込んできた寿さんが、気合いと共に掌底打ちを祥子さんに決める。強引に弾かれた祥子さんは勢い良く吹っ飛んで、そのままズザーっとトレセンの床を滑った。


「おいっ! 何やってんだよ!」

「案ずるな、加減はしておる」


 加減って……そういう問題じゃないだろう! あんな勢いで突きとばしたら、男でも怪我をするわっ!


「ふふふ、さすがは寿老人。見破られちゃったか」

「え? 祥子さん?」

「監視班、トレセンの明かりを最大にせよ」


 翔子さんの声が変だ。あの清涼感のある明るい声はどこへ? 女の声だけど、ずいぶんと低く禍々しい印象が否めない。寿さんの声に応じて、薄暗かったトレセンがジワジワと明るくなっていく。とは言っても、点々と設置されてある間接照明の調光なので、劇的に明るくはならないけれど……しかし、スポットライトを含めれば、そこそこ視界は良好だった。俺は祥子さんを助け起こすために走り寄ろうとしたが、寿さんはそれを許さずにガシっと俺の腕を掴んで動きを制した。


「祥子さん!」

「行くな! 罠じゃ!」

「んもぅ、あとちょっとだったのにぃ」


 ゆっくりと起き上がってのお面を外し、俺と寿さんに対峙する祥子さん。なになに? 祥子さんの目が赤く光ってるんですけど? その赤く光る目でニヤリと笑われても、色っぽいと思えてしまうのは男の……いや、俺の性というものか。


「あなたが毘沙門天ね。なかなかイイ男じゃない」

「祥子さん?」

「どう? 私と遊びましょうよ。悪いようにはしないわよ」


 祥子さんが左手でダウンベストのファスナーを下ろし始める。おいおい、俺は大歓迎だが場所が悪いだろう。


「マーラよ、そこまでじゃ」

「え? マーラ?」


 寿さんが「ぬんっ!」と気合いを入れて右手を前に突き出す。見えない衝撃波でも飛び出したのかな? 俺と寿さんを取り巻く空気の流れが変わった。祥子さんが両手をクロスさせて後ずさりしている……って、何コレ?


「毘沙門天よ、これは訓練ではない。心してかかれ」

「ちょっと待て、祥子さんと戦うなんてできねーぞ!」

「やらねば、わしらが死ぬぞ。あの娘に憑依しているマーラを追い出すのじゃ」


 赤く目を光らせた祥子さんは、ダウンベストを脱ぎ棄て、両手で黒いロングスカートをたくし上げている。けしからん! 左の太腿にも毘沙門天が彫られているじゃないか! 違う違う! そうじゃ、そうじゃない!


 祥子さんに憑依したマーラと戦うのは、祥子さんも無事では済まないって事にはならないのだろうか……なかなか受け入れ難いのだが――。



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