第26話 残響

+スカイ・ヴィジョン+



 夕映えの眩すぎる光が不気味なほどきれいに世界を染め上げていても、僅かな雲に日をさえぎられた図書館の頂上は恐ろしく冷たい。高空の気流が惨劇の残香をどこか遠くへと運び去っていく中、みすぼらしい風貌の男が一人、祭壇のような最後の舞台の上で小さく鼻をすすり上げていた。

 衰弱と生理的嫌悪感、確かな達成感と抗えない後悔、そして全てが終わった後も残る言い知れぬ恐怖心を胸に抱えながら、ゴキブリを名乗っていた男は死んだ勇者の体をモンスターへと変えるため、右手に持った黒いナイフで黙々と文字を刻み続けていた。骨を斬られ、炎と毒の射出に立て続けに酷使された左腕は既に、感覚がなくなるほどに状態が悪化している。疲労もとうにピークを通り越していたが、異能者の死体からモンスターを作るのならば遅くとも半日以内に死体を加工しなければ異能を引き継げない。一度目を閉じれば気絶してしまいそうなほどに疲労困憊な以上、彼は逆にここで手を止めるわけにはいかなかった。

 もし……もし仮に勇者が勇者でなかったとしたら、男の計画は完全に破綻していただろう。勇者が仲間の救助も復讐も捨てて逃げるような腰抜けであれば……あるいは敵の狙いが自分の盾であると気がついた時点で海に身を投げていれば、イージスが悪の手に落ちることもなく、希望が未来に繋がっていた。

 希望はまばゆかれど、悪意の雲に覆われた世界はこの祭壇のように暗い。

 半ば朦朧とする意識を無理矢理に繋ぎ止めながら、おt子は、生きたまま貪り食われてなお力を使わなかった勇者のことを想っていた。あの勇者は一体どれだけ無念であったことだろう。どれだけ痛かったろう。

 勇者と呼ばれるほどの人間の勇気が最後に勇者に与えたものがこの敗北なら、やはり世界はどこまでも理不尽で、意味がない。

 最後の加工を終え、よろよろと立ち上がる。

 プク……プク……と、泡が弾けるような音とともに、ズタボロな勇者の体の上に描かれた黒い文字が赤く光る。光は次第にビカビカと刺々しい色へと変わり始め、文字そのものも、インクをこぼしたみたいにジュルジュルの肉腫として浮かび上がり始めた。

 グロテスクに膨らむ体。

 赤い血管のようなラインが全身を巡り、傷口や、欠けていた部分をモンスター特有の赤い肌で埋めていく。

 バクンと、腹が一跳ね。

 ゾンビそのままなありえないポージングで、勇者の体が、立ち上がった。

 ずぶ濡れの、赤い体。

 変色した腫瘍。

 腐れた匂い。

 勇者の顔。

 男はわずかに身を震わせ、乾いた安堵を吐き出した。

「おはようございます……勇者さん」

 能力を発動しつつ、右手のナイフを振り上げる。

「どうか、やすらかに……」

 ゆっくりと、ナイフを振り下ろした。

 ファーンと白い波紋が広がって、軽く弾かれる。

 ……いつもなら、それで終わるはずだった。相手が能力を発動した瞬間にグイッとヒモを固結びにするような感覚が走って、拘束と奪取が完了するだった。

 だが何も起きなかった。

 何も。

 何一つ。

 ただ、風が一陣冷たく吹き抜けただけ。

「……殺す」

 一言、勇者のゾンビが、そう呟いた。

「え?」

 突然、男の体が宙に吹っ飛んだ。

 鈍く重たい、勇者の蹴り。

 突然のことにシールドを貼りそびれた男は、そのまま受け身も取れずに地面に落ちる。

「かはっ……!?」

 血反吐を吐き、肺の空気が空っぽになる。

「殺す」

 勇者のゾンビが、またささやいた。

 あえぎながら腹ばいに転がった男は、たった今、自分が図書館の手引書を取りこぼしたことに気がついた。手引書がなければ、モンスターに指示することができない。ゴキブリはまた、自分が勇者のゾンビに服従の指示を出しそびれていたことにも気がついた。どうせ自分の能力で拘束できるという油断と深刻な精神疲労が、男の判断力を鈍らせていたのだろう。

 今の勇者は、ただのモンスター。

 喪失の本能のままに人を食らう、人間のゾンビ。

 彼がなんとか顔を上げた先に、赤い足がペタリと音を鳴らした。

「殺す」

 闇の声。

「ま、まって……」

 ゾンビの手が、振り上がる。

 なんとか身をかわした男の目の前で、地面に亀裂が走った。強烈な力。ただのモンスターでは決してありえない、異能マナの怪力。

 勇者は確かに、かつての仲間の異能を借りていた。

 男はとっさに、手に持っていたナイフを投げつけた。当然キャッチされる。そのすきに腰からショットガンを取り出し、ゾンビに向けた。体を支えた左腕に金槌を叩きつけたかのような痛みが骨に走ったが、一度は勇者に勝った男は、それでも狙いをぶらさなかった。

 引き金を引いて、発射。

 反動。

 白い波紋。

 無敵の盾に、全て弾かれる。

 呆然とする男の顔に向けて、ゾンビは槍のようにまっすぐに腕を突き伸ばした。身かわしなど間に合うわけもなく、その人差し指がまぶたを貫いて、左目に突き込まれる。

「ぎゃああああぁぁぁぁぁっっ!!!?」

 グチュっと、気持ち悪い音が鳴る。

 勇者のゾンビは目玉に指を突っ込んだまま、叫ぶ男の上あごに指をかけ、毫も迷わずに顔面をむしり取った。

 また悲鳴。

「……こ、ころせっ!!」

 おびただしい出血を撒き散らしながら、男は叫んだ。ビクリと彼の作ったキメラが反応し、のそのそと勇者へと歩み出す。

 だが、キメラは勇者を襲わなかった。

 顔を押さえながら地に伏す男の四肢を、後ろから更に12本の腕が掴む。

「……え?」

 小さな二つの手がアゴに回され、そのまま首を、背骨ごと一気にへし曲げる。喉笛がグチャリと潰れ、ベキベキッと骨が壊れる音が空気を軋ませた。

「かっ……ぐあああ……」

 ショック症状にくらむ逆さまの視界に、彼が最初に殺した少女の顔が映った。

「殺す」

 小さな声で、少女のゾンビは呟く。

「殺す」

「殺す」

「殺す」

「殺す」

「殺す」

 声が重なる。彼が殺した勇者の仲間たちの残骸が、恨むべき仇を虚ろなまなこで見下ろしながら、勇者と同じ殺意の言葉を繰り返し口ずさんでいた。

「やだ……やめっ……」

 ミチミチと、凶悪な力で四肢が引き裂かれる。

 潰れた骨が肉を裂き、吹き出した血の上に”パイロキネシス”の炎が痛みを焚べるように焼け踊る中、生きたまま解体されていく男の命乞いと悲鳴が敗北者の祭壇の上に響き渡った。

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