第21話 完全敗北

+フラー・ヴィジョン+



「ひゃっはっはっはっはっは!! やった、やった、勝った!! 勇者に……勇者が勝ったぞおおっ!!!」

 指一つ動かせない完全な拘束状態で、白い床の上に叩きつけられたフラーの上に、ゴキブリの不愉快な笑い声が響く。

「ありがとう、姉ちゃん……俺は、俺はあんたを信じてたっ!!」

 動かせない手先が、震えている。

 息が苦しい。

 恐怖が、収まらない。

「姉ちゃんならきっと、俺のラブコールにも気がついてくれるって……」

 ……気がついていた。

 全部……。

 プラントウォールとヴェノムの組み合わせを見た瞬間に、悟っていた。

 ヒクヒクと喉が震える。

 ダイト……。

 私の異能の力は、私が一番よく知っている。ステルスは、特殊な力以外のあらゆる感覚器官から感知されなくなる。プラントウォールの触手だって例外じゃない。ある程度数が減ってさえいれば、その間を切り抜けるのは難しいことじゃないのだ。

 だから、私がステルスでプラントウォールを抜けてゴキブリを殺せば……ヴェノムは止められる。

 この男がそれに気がついていないはずはなかった。

 つまり、こいつは私を……私だけを、真ん中に誘い込んでいたんだ。ダイトが私から借りただけのステルスでは、ごまかせるのは視覚だけ。プラントウォールの感覚器官は抜けられない。

 それでも……だからこそ。

 私は行くしかなかった。

「すごいよ、あんたらはみんな勇敢だ……」ゴキブリの手が、足を掴む。「ああ、やっぱりだ。靴に凶器仕込んであるよな……これでイチかバチかで俺を殺そうと思ったわけだ……こええ……俺の”奪う”能力に接近感知機能がなかったら詰んでたんだな」

 あぁ……。

 やっぱり、この男は、とても強かった。

 殺意に満ちた毒殺計画の中に、これ見よがしに空いた一つの穴。それが罠じゃないはずがなくとも……私には、行く以外の選択はなかった。

 ゴキブリを殺せなくとも、私の力を奪わせれば、ヴェノムの毒霧は消せるから。

「姉ちゃん……あんたは本当に頭がいいよ」ゴキブリの不愉快な声は続く。「だからきっと、この意味もすぐにわかってくれるよな?」

 髪を掴まれ、痛みにうめく。

 ズルズルと白い地面の上を引きずられて、無理やりに顔を上げさせられた。

「これが……最後のダンジョンだ」

 眼下に広がった光景……それは夕焼けに照らされた、現実感のないほど巨大な螺旋階段だった。球体の周りに階段を這わせたみたいに、下から徐々に広がって、またグルグルと狭まって頂上のここまでたどり着く、そんな構造。

「残りのリソース全部使って作った螺旋階段だ……」

 ゴキブリの声。

「勇者は今、一番下にいる。どんだけ頑張ってもここまでは……まあ、6時間はかかるだろうな」

 あぁ……。

 ぷつりと、自分の中で、何かの糸が切れた気がした。

 これで、ギリギリまでステルスを使うのを粘った意味もない。拷問がゴキブリの目的なら、痛めつけられる時間を減らせればもしかしたら……なんて、そんな儚すぎる期待まで、こいつには見透かされていた。

 涙が止まらない。

 負けたんだ……完全に……。

「俺の……勝ちだ」

 ゴキブリの上ずった声。

「勝てて、本当に良かった……」

 嘘みたいに不愉快なすすり泣き。

 おぞましくも、私の胸にすがりつく。

「あぁ……やばかった、マジで不安だった……俺ならできるって思ってたのに、あんたと炎の姉ちゃんが頑張ったおかげで全然うまく行かなくて……もししくじったら殺されるなんて考えたら俺は……あぁ、う、お、おええぇ……」

 ガタガタと、体が震える。

 気持ちの悪い温度。

 汚い湿度。

 最低。

 最低……。

「……なあ、姉ちゃん」

 不意に、ゴキブリの声がドロリと鈍くなった。ガッと頭の裏を掴まれ、顔を、向かい合わされる。

 荒い呼吸が、ハアハアと唸っている。

「あんたって……本当にきれいだな」

 目前に落ちる、ゴキブリのマスク。

 血の気が凍る。

「ひっ……」

 ヤケドに赤く変色した皮膚、膨らんだ水ぶくれ、焼けただれた肌、チリチリの髪の毛、黒い頭皮。

 化け物のように、歪んだ顔。

 ……濡れた、唇。

 それが突然、私の口に無理やり重ねられた。

「……っ!?」

 鈍器で殴られたみたいな衝撃が、頭に走る。

 唾液。

 臭い息。

 熱。

 歯。

 おぞましいほどの怒りと悔しさと……そして恐怖に、涙がボロボロとこぼれだした。

 こんなの……最悪だ。

「ぐっ……おえ……!?」

 ゴキブリがえづく。

 いきなり力ずくで地面に投げ倒され、苦痛に胸が引き詰まった。咳き込みながら目を開けた先に、また信じられないものを見る。

 それは、雑然と積み上げられた仲間たちの凄惨な死体。

 削られ、焦げ付き、どす黒く変色した血に固められた悪夢の結晶……その一番下で、原型がわからないほどにグチャグチャな顔が、確かに泣いてる私のことを見つめていた。

 私と同じ色の、緑色の瞳。

 ……シド?

 まだ生きてて……だけど……。

「あぁだめだ、こんなにきれいな姉ちゃんなのに、ちくしょう……」

 ゴキブリが頭を押さえながら、また私の体にのしかかる。シドの見てる前で、私の顔を撫でる。

「あの女の子の腕切り落としたときからずっとこうだ……女の顔見るだけでももう吐き気が止まんねえ……はじめの子だって犯そうとはしたんだけど、悲鳴があんまりにも可哀想で、チンコが全然勃たなくなって……」

 私は、悲しかった。

 死にたくなるほど、悔しかった。

 作戦とか、必要とかを超えて……生まれて初めて、人を、本気で憎んだ。

 なんて……。

 なんて、最悪な人。

 こんなクズを、他に私は知らない。

 こんなやつに私は……今から……。

「ああ、もったいねえ……でも、ダメなんだ、俺はあんたのことも、ちゃんと殺さなきゃならねえ……」

 ゴキブリの手に、黒いナイフ。それがゆっくりと首筋から、お腹までをズルズルと這い回る。左の手のひらはずっと髪の毛を撫でている。

「きっと……あんたが一番痛いと思う」ナイフが這い上がり、耳に触れる。「ごめんよ……ホントはもっとみんなを均等に痛めつけなきゃいけなかったのに……俺がサボっちまったから、あんたに全部ツケが回っちまった……」

 悔しさが、おぞましい色に、変わっていく。

 いやだ。

 いやだ、いやだ、いやだ……。

「ごめんよ……でも、時間はたっぷりあるから、もしかしたら……」

 ナイフが股下に、食い込む。

 ひっ……。

「や……やめて……」

 突き刺さり、悲鳴がつんざく。

 シド、ダイト……みんな……。

 お願いだから、誰か、助けて……。

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