第20話 最後の壁

 戦闘は、速攻が命。

 すでに先手を打たれているのが確かな僕らに、迷う暇はない。

 フラーもそれを重々承知していたのだろう。駆け出した僕に少しも遅れず、彼女はついてきた。

 握り合った手。

 これが僕らの命綱だ。

 ゴキブリへと一直線に駆け出した僕らの前方で、赤い閃光が弾ける。

 地面から湧き上がる、幾本もの触手。モンスターに特有の、痛々しく赤い体。

 ……クソッ。

 現れたのは、ザイルを連れ去るときにも僕らの邪魔をした、ツタまみれのあのモンスター。

 プラントウォール。

 前に見たやつよりも、一回り以上は大きい。

 太い触手が、風を鳴らし、横向きに僕らを薙ぎ払った。

 やむを得ず立ち止まり、構えた剣でツタを切り裂く。

 タイヤを切ったみたいに、グニョリと重たい感触。

 ピンクの血。

 舞い散る鮮血の先で、ゴキブリは、布の巻かれた左手の指先を僕らへと向けていた。

 指先から赤い霧が吹き出して、その顔を隠す。

 一瞬、胸の奥に、暗い絶望感が生まれた。

 あれは……ヴェノム。

 シドの異能。

 じゃあやっぱり、シドはもう……。

 だが、そんなことを考える暇は少しもなかった。

「やばい……」と、小さくフラーが呟く声に、僕も最悪の事態に気がついた。

 あかい毒霧が、ゴキブリの周囲にモウモウと垂れ込み始める。

 慌てて振り返った先に、僕は信じられないものを見た。

 出口の先が……ない。

 広がる青い空の先に、白い箱がいくつか点々と浮かんでいるのが見える。左右の出入り口も、同様だ。

 この部屋は今、単独で浮いているのか?

 心臓が青ざめるのを感じる。

 これは、本当にまずい。

 シドの異能”ヴェノム”は、噴霧速度は大したことない上に射出距離も短いが、出し続けられる霧の量自体は相当なものだ。この部屋一つ満たすくらいわけはない。自分の周りに毒霧をまとい、撒き散らしながら刀で斬りかかるのが、シドの必殺戦法だった。完全な抗体は彼しか持っていないから、ゴキブリには使いこなせないと思ってたのに……。

 こいつが最初からガスマスクを付けていたのは、ヴェノムを恐れていたからか。

 くそっ。

 ゴキブリはこのまま、この部屋をガス室にして僕らを殺す気だ。

 やばいな……本当に、なんて合理的な戦法だろう。ヴェノムの霧は重たいから、風にもそうそう流されない。ヴェノムの能力を借りられる僕は、他のみんなと比べればまだヴェノムの毒に耐性があるし、イージスは毒の霧さえある程度は弾くことができるが、フラーはダメだ。血縁だからってヴェノムの毒は容赦がない。

 そしてフラーが死んでしまったら……僕は、イージスを使っちゃいけないんだ。

 頭が冴える。

 ゴキブリはこの部屋を、毒で満たそうとしてる。この行動自体が、フラーの推理が正しかった証拠だろう。イージスを使わないと、僕は毒に耐えられない。でも、フラーが死んで僕にイージスしか無くなったら、あいつはきっと僕のイージスを奪ってしまえるんだ。つまりフラーが死んだら、どうあがいてもあいつの勝ち。じゃなきゃゴキブリだって、こんな背水の陣で挑んでこない。

 僕が生き残ろうとも、この毒でフラーが殺されたら、僕の負けなんだ。

 ……ゴキブリめ。よりにもよって、シドの異能でフラーを殺そうとするなんて。

 どうする? 出口は四箇所にあるはずだから、反対側なら逃げられる可能性に賭けて……。

 一瞬、僕が逡巡しゅんじゅんしたのも束の間、フラーが必死の表情で、前方の触手へ向かって小刀を突き立てた。

 ……そうだ。

 迷ってる時間はない。

 僕はフラーの手を引いたまま、目前に群れる赤いツタを切り開いた。

 一か八か……僕らはゴキブリを、殺すしかない。ヴェノムの毒は、効き目は落ちるといはいえ、植物型モンスターにも効果がある。つまりこの壁は見た目ほど厚くない。弱ったツタならフラーでも片手で斬り倒せる。

 だけど……。

 入り乱れ、絡まり、桃色の血を撒き散らす、赤い壁。

 進めども進めども、正確にこちらの居場所に、別の箇所から新しい触手が邪魔をしに来る。

 ……これがダンジョン最大の厄介者、プラントウォールの特性。時には行く手を阻み、時には退路を塞いで探索者を苦しめる。アリアネはパイロキネシスでこいつを簡単に処理できるからこそ、トレジャーハンターとしてダンジョンで活躍できたのだ。

 それに……。

 振り下ろした剣が、ツタを裂けずに、食い込んで止まる。

 ザイルの異能を借りられない今、一本一本が決して細くないこのツタを、片手だけで斬り続けるのは簡単じゃなかった。

 そうしている間にも、赤い毒霧は、モウモウと僕らへ向かって垂れ込み続ける。少しずつ横へと移動することでなんとか時間稼ぎをしているが、このままじゃジリ貧だ。

 状況は想像以上に最悪だった。

 ……それでも僕は、フラーの手だけは離さなかった。

 食い込んだ刃を、そのまま腕をひねって角度を修正し、力ずくでツタを斬り裂く。

 負けない。

 感情が渦を巻き、生き残るための殺意が、守るための狂気と混じり合う。

 レイア。

 ザイル。

 リアン。

 アリアネ 

 シド。

 ……フラー。

 もう、失えない。

 僕は、片手で触手を斬り裂き続けた。

 縦に振り下ろされるツタを。

 横から襲い来る触手を。

 フラーの手を引き、その体を守り、力の限りを尽くして、前へ進んだ。

 だって、ゴキブリはこの方法でフラーを殺せれば、それで勝ちだと思っている。彼女が死ぬまでに、僕がプラントウォールを切り開けないって、そう考えてる。

 なら……その想像をくつがえしてやれば、僕の勝ちじゃないか。

 そういう相手なら、今まで何度も倒してきた。

 僕は……勇者だ。

 頭に血潮を感じる。

 体に風を感じる。

 なんだか、不思議な感覚だった。

 ……見える。

 敵の動きを、目に捉えずとも、動きを感じる。

 体が軽い。

 斬るという行為……しっかりと体重を乗せて、相手の動きを見切り、合わせ、刃の向きを意識し、同時にフラーをかばい続ける、一連の動作。腰の移動、足の踏ん張り、指先の感覚、フラーの体、敵の動き……全部が僕の中で、一体化しているみたいな感じだ。

 思考もいらない。

 恨みもない。

 魂が体から抜け出して、戦う僕を、上から眺めている……そんな錯覚さえ感じられるほど、全身が完璧に躍動していた。

 限界の中で、勇者は完全に、覚醒した。

 そして……。

 ……そのせいで僕は、気が付かなかったんだ。

 すでに毒霧が、フラーなら息を止めなくてはいけないほどに、僕らを包んでいたことに。

 このままでは手遅れになると悟った彼女が、一番つらい最後の決断を下していたことにも……。

 ぐっと腕を引かれ、バランスを崩しながらも身を引いた僕の唇に、フラーの唇が触れた。

 一瞬、何が起きたのかわからず。

 目前には、力いっぱい閉ざされたフラーのまぶた。

 桃色の血に濡れながらも、まだ美しい銀の髪。

 息が止まり。

 温もりも冷たさも残さぬまま、ゆっくりと、彼女の唇が離れた。

 何かを感じ取るヒマもないまま、僕はただ、フラーを見つめ返す。

 仲間の中でも群を抜いて美しかった彼女の顔は今、汚れた返り血の飛沫も溶けるほどに、涙でくしゃくしゃだった。

 僕にキスした唇が、声も発さず、幽かな言葉を紡ぐ。

 助けに来て……と、そう、聞こえた。

 瞬間、彼女は左手に持っていた刀を、僕に叩きつけた。

 イージスの、白く暖かな波紋が目の前に広がる。

 同時に、フラーの手を握っていた左手に強烈な反動を感じた。

 イージスが、僕に攻撃をした彼女を弾こうとしているのだ。

 思わず、全力でその手を引く。

 だが……イージスは、無敵の異能。

 世界で最も強力な、貫くほこなき、最強の盾。

 一本ずつ離れていく、彼女の指。

 小さな手。

 人差し指と中指に、最後、かすかな温もりを残して……フラーは、僕から弾き飛ばされた。

 解放。

 虚無を想うほどに、体が軽くなる。

 呆然とする僕の前で、フラーは、両手を合わせた。

 プラントウォールの触手が、視界の端でイージスに弾かれて……その一瞬で、彼女の姿は見えなくなった。

 ステルス?

 そんな、どうして……?

 パシパシっと、残された血の上に、彼女の足跡が飛び跳ねた。

 慌ててそれを追おうとした僕の前に、ワラワラと触手が群れをなす。

 そうか、彼女のステルスなら、プラントウォールの間を抜けられるのか……。

 でもそんなことしたら……。

 覚醒の残滓ざんしに振り回されるように夢中でツタを切り裂いた僕の前で、ふわっと、ヴェノムの赤い霧が晴れ渡る。

 僕は、見た。

 プラントウォールの真ん中、ゴキブリの背後で、手を合わせたまま倒れ伏すフラーの姿を。

 そして……。

 倒れたフラーの体を抱き寄せて、勝どきを上げるゴキブリの背中を。

「勝ったあああぁぁー!!!」

 ふわりと浮かぶ、青い球体。この図書館に入ったばかりの時に見た、あのボール。

 ゴキブリが、その中に黒いナイフを差し入れる。

 両手が空いた僕は、群がった六本の触手をまとめて切り倒した。

 ようやく晴れた、プラントウォールの壁。触手は残っているが、これなら斬りながらでも前に……。

 だが、それでもぬかるむ血まみれの地面と、足を取るツタの残骸。

 舌打ちをして足元を見た途端、残っていた生きている触手が、前方を塞ぐ。

 くそぉ……っ!!

 ゴキブリに抱きかかえられながら、ガタガタと震えるフラーの緑の目に向かって、僕は何かを叫び続けていた。

 待ってくれ、君が死んだら僕は……。

 ゴキブリのガスマスク、そのゴーグルの向こうの目が、僕を睨んだ。

 目だけでもわかるほどに、会心の表情。

「……6人目」

 くぐもった声が、僕をあざ笑った。

 瞬間、空気が震えて、黒い文字が、部屋の中に凄まじい勢いで流入する。

 同時に始まる、景色の奔流ほんりゅう

 パーティが分散させられた時にも見た、ダンジョンの形成風景。

 パラパラとすべてが遠のき、あっという間もなくゴキブリとフラーの姿が、遠ざかっていく。

 そんな……。

 フラー、どうして……。

 いつの間にか伸ばしていた、空っぽの左腕。

 一度離れた手に、約束は戻らず。

 空間の膨張と同時に散り散りになった触手たちの死骸も、消え去って。

 僕はタッタ一人、頂上も見えないほどに高い螺旋階段の前に立ち尽くしていた。

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