第19話 二人

+ダイト・ヴィジョン+



 涙が出ないのは、泣きすぎて、出せるもの全部が枯れてしまったからなのか。だとしたら僕は、フラーと比べてずいぶんと薄情者だ。

 喉を枯らし、バラバラに崩れてしまいそうなほどに泣いているフラーを抱きしめながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。

 震える肩……上着を脱いでシャツだけになった僕の肌には、彼女の温度は、悲しく、ぬくい。

 見上げれば、白い天井。

 黒い焦げ跡は、アリアネが残してくれた僕らの目印だ。フラーとシドはそれを頼りに集まって、あのゴキブリを二人で追い詰めてみせた。

 それなのに……無敵の盾を持つ僕がこんなにも役に立たないのは、きっと、ずっと何かを間違えているからなんだろう。一番いい手札を持っている僕が正しく動けていれば、あんな奴に負けたはずはないだろうから。

 僕の間違い……それはきっと、後悔。レイアが殺される前まではわかっていたはずの、優しさをかたる邪念。

 初めからレイアの元に僕が残っていれば、きっと、誰も死なずに済んだのに。

 フラーの話を聞いた今ならわかる。僕らと戦う相手にとって、レイアがいかに厄介な存在だったのか。スキャナーさえあれば、あのゴキブリは詰んでいたんだ。僕らみんなでひとかたまりになって動いて、レイアが索敵を欠かさなければ……それだけであいつは、僕らに手も足も出なかったはず。

 レイアは僕らの旅の生命線だった。そんなこと、ずっと昔からわかっているつもりだったのに……。

 全ては、僕の油断。

 最悪の間違い。

「シド……」

 フラーは枯れた声で、それでも泣き続ける。

 心配と、不安と……そしておびえ。

 どこから相手が来るのかわからないっていうのは、イージスを持つ僕でさえも神経をすり減らす。他のみんなはきっとそれどころじゃなかっただろう。だけど、それでもフラーは、シドは、アリアネは、ちゃんと勝つために何かを残してみせた。それに比べて僕は……。

 って、ほら、また僕は後悔ばかりを繰り返している。考えるべきは、今までできなかったことじゃなくて、これから僕に何ができるかってことなのに。

 悲しむのは、後回し。

 誰だって正しいとわかるその選択が、まさかこんなにも難しいものだとは。

「……ダイト」

 かすかな声で、フラーはつぶやいた。

「ダイトは……シドの異能ヴェノム私の異能ステルスが使えなくなったら……もう、イージスを使っちゃダメよ」

「え?」

 フラーは鼻をすすり上げながら、それでも冷静な声で僕に話し続ける。「イージスは無意識でも発動するけど……自分でオフにすることは、できるんでしょ? なら最後の一人になったら、その力は使っちゃいけないわ……それが例えゴキブリの狙い通りだとしても……」

「どういう……こと?」

「多分……ゴキブリは、ダイトが私たちの力を持ってる間は、動きを封じることさえできないんだと思う。イミテーションがデコイになって、イージスが奪えないんじゃないかなって……」

「……デコイ?」

「だからあいつは、最初からダイトのことはずっと遠ざけ続けてた。ダイトが借りられる力が枯れるまでは、絶対に戦わないようにって……もしかしたらゴキブリは、最初からイージスを奪うためだけに、これだけのことを……」

 今、大事なことをフラーが話しているのはわかる。だけど、頭がうまく回らない。

「ねえ、ダイト……いざとなったら私は……ステルスを使うことになると思う。ステルスなら奪われても……致命的にはならない。パイロキネシスかヴェノムを使われるよりもずっとマシなはずだから……」

 少しの間、自分が何を言われたのかわからなかった。

 気がついて、戦慄する。

「フラー……そんなの……」

「ゴキブリはもう、五人も殺した。殺されなければいいなんて考えじゃ足りないのよ……」

 そう言って僕を見上げた瞳の強さに、僕はまたも自分の情けなさを痛感した。

 あぁ……。

 本当に、フラーはなんてさといんだ。

 たった今、弟が姿を消したばかりだっていうのに……泣きながら、フラーはずっとそんなことを考え続けていたなんて。

 シドのことは、もう殺されたって諦めた?

 いや、そうじゃないよな。生きているかどうかを考えたって、意味がないってわかってるんだ。死んでる場合以外のことを、今は気にする必要がないって……。

 強いなぁ。僕にもこれができていれば、きっと……。

 でも、おかげで助かった。

 怒りと悲しみにえかけていた心に、最後の血が巡る。

 僕にはまだ……頼れる仲間が一人、残っている。

「……ありがとう」僕はフラーの背中を、ギュッと抱きしめた。「フラーはすごいな。僕一人だったら、もう、心が壊れてた」

「あんまり優しい言葉はかけないで……」復活しかけていたフラーの声が、また崩れる。「私ももう、限界だから……」

「フラー……」

「相手は、私たちがここにいるのをわかっている……なら、さっさと移動しないとダメなのに……全然、体が動いてくれなくって……」

 震えるフラーの、小さな肩。仲間の中では、レイアに次いで小柄だった彼女。こんな体でずっとここまで戦ってくれたのに、僕は立ち止まっていられない。

「大丈夫だ」頭をそっと抱き寄せる。「……それに、きっと隠れる必要はないよ」

 潤んだ瞳が、僕を見上げた。

「……ゴキブリはこれまで、何度かワープを使ってきた。きっと、手引き書か何かの力で好きな部屋に移動できるんだろう。でも、あいつはこの街の中じゃワープを使わなかった。それは多分、この街自体が一つの部屋で、座標は指定できないからだ。そうだろ?」

「……えぇ」

「なら、見晴らしの効くこの場所がどこよりも安全なんだ。正面切って襲ってくるのなら何も怖くはない。シドをどうやってさらっていったかはわからないけど……でもあれが何度も使えるんなら、今までこんな回りくどいことをしたはずがないだろ?」

「うん……」

「奴はきっと躍起になって僕らを分断しようとしてくるだろう。ならこうして……」僕は、彼女の手を握る。「こうやってずっと手を繋いでいればいい。僕らが離れない限り、ゴキブリに勝ち目はないんだから」

「…………」

 何も言わないフラーに指を絡めて、額を寄せる。

「ここまで……頼りなくて、本当にごめん」

 フラーに、みんなに、僕は謝った。

 今ならわかる。シドがあんなにはっきりとゴキブリを殺すって言ったのは、僕に発破をかけるためだった。僕の悩みを全部力ずくで奪い取って、ただ戦えと、彼はそう言いたかったんだ。

 僕は、それに応えなければ。

「僕は絶対に手を放さない」一層強く、握りしめる。「異能なんか絶対に使わせるもんか。あいつは僕が……必ず、ぶっ殺す」

「……ありがとう」ほとんど聞き取れないほどに、小さな声。

 さぁ……立ち上がれ、勇者。

 お前は魔王を倒した転生者だった。

 どうやって?

 みんなの盾になって、だ。

 これが、僕が仲間を守れる、最後のチャンス。

「うん……大丈夫。もう少しだけなら、頑張れる」フラーは顔を上げて、僕を見つめた。「だから、絶対に手を放さないで……お願い……」

「絶対だ」

 僕らは強く、約束を交わした

 フッと、笑みかもしれない小さな吐息が、フラーの唇から漏れる。

 美しい銀色の髪をなびかせて、彼女はゆっくりと身を引いた。

 充血した目、涙の跡が残る頬、不安げな表情……それでも、一番大事なときには誰よりも頼れる、最後の仲間。ずば抜けて美しかった、僕の大切な人。

 向かい合っていた僕らは、手を繋いだまま、隣り合った。

 レイアが死んでからずっと壊れていた心が、今、初めてクリアになった気がする。

 みんな……。

 せめて僕は、最後の一人だけでも、守ってみせるから。

「あ……」

 フラーが幽かな声を上げる

 同時にギュッと、ひときわ強く手が握られた。

「リアンとアリアネは……どこ?」

「え?」

 アリアネを寝かせていたベンチと、リアンを寝かせていた花壇に素早く視線を走らせる。どちらも確かに、からっぽだ。

 公園の中を見回したが、二人の体はどこにもない。

 消えた?

 どうして?

 もっとよく探そうと思う間もなく、ビーッとブザーのような音が、あたりに鳴り響いた。

 緊張感が、いや増す。

 ゴキブリが行動を開始したのだ。

 僕らの周囲で、模様まみれの街が、電波塔が、小さなキューブとなってパラパラと崩れていく。

 ダンジョンが、端から急速に狭まり始めた。

 僕らは強く手を握り合わせて、肩を寄せ合った。

 一気に、全身に熱い血が巡る。

 崩れていく街、ドット絵のようにキューブがひしめき合い、気がつけば一寸先も見えないほどに、視界が真っ白に埋まっていた。

 立っている感覚すら、希薄な空間。

 繋いだ手だけが、温かい。

 光を超えて……ダンジョンは、一つの白い小部屋へと形を戻した。

 その中で、隣り合う二人。

 向かい合う、一人。

 ガスマスクを被ったゴキブリが、部屋の真ん中に突っ立って、僕らを正面に見据えていた。

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